「お母さん、ちょっといいですか?今日大事な用事があるから、車出してちょうだい。」
ミクが熱を出した。生まれて初めての高熱に、私は頭が真っ白になりながら、泣きじゃくる娘を抱きかかえて病院へ向かおうとしていたところだった。なのに義母は、当然のようにそんなことを言ってのけたのだ。手には大きな荷物。今日から何日か泊まらせてもらうつもりで来たらしい。
あまりにも突然の出来事に、一瞬言葉を失った。私はなんとか気を取り直して、ミクが熱があるので病院に連れて行きたいと伝えた。さすがに分かってくれるだろうと思った。だが、義母の返答は私の予想を大きく裏切るものだった。
「高い熱くらいで騒ぎすぎなのよ。あなたが車を出してくれなきゃ、タクシーを呼ばなきゃいけなくなるじゃない。それとも何?私よりあの子の方が大事だっていうの?」
耳を疑うような言葉だった。義母も母親なら、娘の体調を案じる私の気持ちを理解してくれると思っていた。だが、どうやら私は甘かったらしい。昔から義母は、自分の用事が最優先で、周りがそれに従うのが当然だと思っている節があった。嫁である私が文句を言える立場にないことも、これまで散々思い知らされてきた。それでも、今回ばかりは折れるわけにはいかない。まだ幼い我が子の命がかかっているのだ。
私は義母に詰め寄った。
「ミクはあなたの孫ですよ。熱でこんなに辛そうにしてるんです。病院に連れて行くのが先です。お母さんの用事の後では遅すぎるんです。」
私の剣幕に義母は「高が風邪くらいで…」とブツブツ言いながらも、結局タクシーを呼ぶのを諦め、不機嫌そうに「私の用事はいいわよ、どうせ誰も頼りにしてくれないんだから」と捨て台詞を残して、どこかへ行ってしまった。
その日は、ミクを病院に連れて行くことだけに集中するつもりだった。義母の好き勝手な行動に気を揉みながら、泣き続けるミクをあやしながら、私は砂を噛む思いで病院へ向かった。幸い、診断は軽い風邪だったようで、熱も少し落ち着いて薬さえ飲ませれば大丈夫だと言われ、胸をなで下ろした。
しかし、その夜のことだ。夫のユトが帰宅するなり、私を問い詰めた。
「お前、なんで母さんを送ってやらなかったんだよ。楽しみにしてた買い物に行けなくて、母さんすごく悲しんでたじゃないか。」
私は目を疑った。ミクが熱を出して寝込んでいるというのに、夫は娘の安否を一切気遣わず、義母の用事が果たせなかったことばかりを責めてくるのだ。私は頭に血が上るのを感じながら言い返した。
「あなた、何言ってるの?ミクが熱でうなされてるのよ。分かってるの?」
「熱くらいで騒ぎすぎなんだよ。母さんだって孫に会いたくて来てるんだ。それくらい分かってやれよ。お前は嫁なんだから、母さんの言うことを聞くのが当然だろ。育児と義母の面倒をきちんとこなして、やっと一人前の嫁なんだからな。」
そこで私は、はっきりと悟った。この人に何を言っても無駄だ。もう、この人と夫婦でいること自体が、家族であることが、壊れてしまっているのだと。娘の命がかかっている場面でも、この男は母親の顔を一切見せなかった。いや、最初から見せる気などなかったのだ。
思い返せば、ユトはミクが生まれてから、少しずつ変わっていった。最初のうちは世話を焼いていたのだが、日に日に帰宅時間は遅くなり、休日になると「休日出勤だ」と言って、大抵は声を潜めて出かけることが増えた。ミクの世話を一切しないばかりか、「母さんがミクに会いたがってる」と、頻繁に義母を家に上げるようにもなった。私は浮気を疑って問い詰めたこともあったが、その都度「ミクのために働いてるんだ」と言われ、納得せざるを得なかった。
義母は、連絡もなしに突然やってきて、勝手に何日も泊まっていくようになった。最初は数日間だった滞在も、いつの間にか2週間続くのが当たり前になっていた。それでも、義父を亡くして独り身になった義母を思えば、と我慢してきた。だが、義母は一つも手伝おうとはしない。ミクを可愛がってはくれるが、オムツを替えようとも、ミルクを作ろうともしない。私が食事の支度をしていれば「喉が乾いた」とお茶を要求し、お茶を出せば「これ、味が薄いんじゃないの?」と文句を言われる。買い物に行けば「あれが買いたかった」「これは私が欲しかった物と違う」と、いつも文句ばかりだ。
「さなさん、ミクちゃんを少し見ててくれる?あっちでテレビを見てるから。」
そう言って、義母はリビングに置きっぱなしの荷物ではなく、私が用意した布団へ向かって、すぐに寝転んでテレビをつける。私が育児でてんてこ舞いになっていても、手を貸そうともしない。休日になれば「今日はどこかに連れて行きなさいよ」と言われるが、私が一人で連れて行くと「こんな遠くまで連れて行って、あなたは子育てが下手くそね」と嫌味を言われる。
いよいよ限界を感じた私は、ユトに義母の滞在を断ってほしいと頼んでみた。すると、彼は声を荒げて言い放った。
「母さんはお前に会いたいんじゃない。ミクに会いたいんだ。たまには孫の顔を見せてやるのも、嫁の務めだろうが。」
私は何も言い返せず、ただ唇を噛むしかなかった。確かに私は「嫁」として、義母に使え、夫に尽くすのが「普通」なのかもしれない。だが、それで娘が犠牲になるなら、私は何のためにこの家にいるのか分からない。
「すごいわね、あんた。私がいなくなれば、この家は綺麗になると思ってるの?残念だったわね、私はまだまだ若いんだから、あんたみたいな若造に負けるわけにはいかないのよ。」
義母は負け惜しみのようにそう言って、翌日には何事もなかったかのように、自分の家へ帰っていった。だが、事はそれで終わらなかった。
私はこの一件で、ユトに対する愛情が完全に冷めてしまった。もう、この人と夫婦でいる理由が見つからない。私とミクだけなら、育てていく自信はある。今の収入でやっていけるかは不安だが、あの義母と夫に娘を振り回され、傷つけられるよりは、よっぽどましだ。
私はユトに離婚を切り出すことにした。
数日後、ミクの体調もすっかり良くなり、あの熱が嘘のように元気に動き回っている。その日は休日で、ユトも家にいたが、案の定、ミクを遊ばせるでもなく、スマホをいじってソファに寝転がっている。私はミクの着替えを済ませ、静かに口を開いた。
「ゆと、話があるんだけど。」
「何?今忙しいんだけど。」
「忙しい?ミクを一度も抱っこしてくれないのに?」
「仕事のことを言ってるんだよ。休日だって俺は…。」
「あんたが何をしてようと、もう関係ない。私たち、離婚する。」
私の言葉に、ユトは初めて顔を上げた。スマホを置き、ソファに起き上がって、じっと私を見る。
「…は?何言ってんだよ、マジで。お前、一体何を考えて…。」
「ミクが熱でうなされてたあの日のこと、忘れてないわよね。あんたがお義母さんの味方をして、私を責めたあの日のこと。私はもう、あんたの母親に振り回される生活をするのはたくさんなの。ミクにだって、あの部屋の空気は悪い。私が育てる。」
「ふざけんな!ミクは俺の子だぞ!お前一人の子じゃないんだぞ!」
「じゃあ、あなたはミクを守るつもりが、あの日から正に一度でもあったの?あの日、病院に連れて行こうとした私を止めるようなことをしたのも、ミクを見向きもせずに義母の肩を持ったのも、あなたいただ。あんたは娘より、自分の親の顔色を取ることばかり考えてる。そんな男に父親が務まるわけがない。」
言い返せなくなり、うつむくユト。私は畳みかけるように続けた。
「いいわ。そんな顔をするなら、弁護士を立てて、正式な手続きを進めるから。養育費はきちんと払ってもらうわよ。もちろん、会わせるつもりもない。」
「…くそっ。」
ユトはテーブルを拳で叩き、何かを言いかけたが、結局何も言わずに自室へと入っていった。背中を押し出したのは、悲しみよりも怒りと、そして妙にスッキリとした諦めに近い感情だった。
一週間後、私はユトと離婚協議のテーブルに着いていた。話し合いはこじれたが、不幸中の幸いか、トは自分から「養育費は払う。だが、娘に会わせるなとは言われたくない」と折れてきた。私としても、ミクが父親と会うことを無理に奪うつもりはない。会わせることには了承した。
マンションを出て、私は新しいアパートへ引っ越した。家は狭くなったが、義母に気を遣うこともなく、武装して過ごすこともなくなった。ミクが泣いても、誰かに「静かにしなさい」と言われることはない。ああ、この空間はこんなにも自由だったんだ。
あれから数ヶ月が経ち、私は実家で両親とミクと暮らしている。ユトは今でも時々、ミクに会いに来るが、義母が一緒に来ることはない。会うたびに「やっぱり取り戻したい」と言われるが、私は首を振るだけだ。
「あなたの言い分は分かったわ。でも、もう遅いのよ。」
娘の寝顔を見ながら、私はふと思う。あの日、義母が譲らずに無理矢理病院に連れて行っていなければ、今頃、この子はどんな運命を辿っていたのだろう。もしも、あの瞬間に私が折れていたら、今頃、この温かな夕食をミクと囲むことはなかったかもしれない。
人は、勇気を出して声を上げなければ、守れないものもある。私は、あの時出した結論が間違っていなかったと信じている。部屋の隅でオモチャを取り合って遊ぶ母と娘の笑い声が、新しいアパートの小さなリビングに響いていた。
