「ひろみ、もう終わりにしよう」——リビングに置かれた離婚届を見た瞬間、私は自分の耳を疑った。普通の平日の夜だった。夕飯の片付けを終えて、明日の仕事の準備をしていただけなのに。夫は私の顔も見ずに「サインして役所に出してくれ」と言った。あまりにも突然で、頭が真っ白になった。「何でいきなり離婚なんて話になるのよ」と問い詰めると、彼は「お前との生活は息が詰まる」と吐き捨てた。さらに「もう結婚を決めて…

「ひろみ、もう終わりにしよう」——リビングに置かれた離婚届を見た瞬間、私は自分の耳を疑った。普通の平日の夜だった。夕飯の片付けを終えて、明日の仕事の準備をしていただけなのに。夫は私の顔も見ずに「サインして役所に出してくれ」と言った。あまりにも突然で、頭が真っ白になった。「何でいきなり離婚なんて話になるのよ」と問い詰めると、彼は「お前との生活は息が詰まる」と吐き捨てた。さらに「もう結婚を決めて...

「ひろみ、もう終わりにしよう」

「え、何よ?急に。どういうこと?」

「俺たちはもう終わりだって言ってるんだよ。離婚だ。離婚届はリビングに置いてある。それにサインして役所に出してきてくれ」

「ちょっと待ってよ。何でいきなり離婚なんて話になるのよ」

「お前との生活は息が詰まるんだよ。いつも何かにお前から監視されてるような気持ちなんだ」

「ふざけないで。あんたに後ろめたいことがあるからそう思うんでしょ。普通の人はそんなこと思わないから」

「お前には何も分かってない」

「だったら何で私と結婚したのよ。っていうか、今さらそんな理由で離婚なんてありえないわ」

「もう我慢の限界なんだよ。家族のことだって、お前は全然構ってないだろ。俺はそんなお前との結婚生活はもう無理なんだ」

「何それ。みかとルナはあんたが引き取って育てなさいよ」

「家族のことを構ってないと言いながら、早速子供を放棄するのね。まあ、別にいいけど。私にとってはあの2人は宝物だから。あんたに言われなくても、離婚するなら親権は私がとるつもりよ」

「それなら早く離婚の手続きを進めてくれ」

「分かりやすいくらい焦ってるわね。何?愛人から結婚をせかされたりしてるの?」

「何のことだ」

「ごまかしても無駄よ。あんたの行動を見てれば離婚の理由なんてすぐ分かる。こんなタイミングでの離婚なんて不自然すぎるもの。どうせバレるんだから、今のうちに白状したら?」

「言っておくけど、私に嘘は通用しないからね」

「……ああ、そうだよ。もう結婚を決めてる相手がいるんだ」

「やっぱり不倫してたってこと?」

「俺はもっともっと仕事で成果を上げて、金を稼げるようになりたいんだ。そのためにはかなりのストレスの中で仕事をする必要がある。そんな俺には癒しが必要だったんだ」

「嫌らしいの間違いでしょ。訂正しなさい」

「とにかく、お前と一緒にいても何も楽しくなかった。このままじゃ成功は見込めない。だからお前とは離婚することにしたんだよ」

「はあ……随分と自分勝手な話ね。でもまあ、あんたがそれでいいっていうなら、離婚でも何でもしてあげるわ。ただし、慰謝料はきっちり払ってもらうからね。あと子供たちの養育費も」

「お前らに金なんて使いたくなかったが、まあ仕方ないな。損した気分だよ」

「あんたたちへの支払いを“損”とか言わないでよ。とにかく、さっさと離婚してくれる?」

「ああ、お前たちの要求は何でも飲んでやるから」

「そうさせてもらうわ」

5分後。ひろみは娘のルナに電話をかけていた。

「もしもし、ルナ?ちょっと大事な話があるんだけど、いい?」

「どうかしたの?」

「ルナにも連絡したんだけど、返事がなくてね。先にあなたにだけ伝えておこうと思って」

「ルナは多分、まだ部活だと思うよ」

「そう。あなたは勉強中?」

「うん。……て言っても、いい動画を見てるだけだけど」

「まあ、それも大事な勉強でしょ」

「うん」

「お母さんは家にいるの? それならすぐにでも帰るけど」

「ううん、まだ仕事中だから。だからそのままで聞いて」

「どうしたの?」

「私ね……お父さんと離婚することになったの」

「え? 何で?」

「ごめんなさいね。こんなことになってしまって。お父さんから急に離婚したいって言われたの」

「マジで……?」

「あなたももう高校生だから、ちゃんと話をするわね。お父さんには、他に付き合ってる女の人がいたのよ」

「……不倫じゃん」

「そうなるわね。それで、その人と結婚するんだって。だから私とは離婚するってなったのよ」

「……私たちはどうなるの?」

「もちろん、お母さんと一緒よ。あんな人のところに行く必要はないわ」

「ああ、良かった。マジで、あんな人のところになんて行きたくなかったもん」

「ルナも一緒かな?」

「一緒だって。私たち双子だから、気持ちは分かるよ。私たち2人とも、あいつのこと全然好きじゃなかったし。いっつも不機嫌でさ、私たちのことなんか全然気にかけてない感じで。頭の中は出世とか金のことしかないのが丸見えだったもん」

「そういうのは、やっぱり分かるのね」

「うん。だからお母さん、安心して」

「これからは、私たち3人になるってことね。できるだけあなたたちに迷惑をかけないように、お母さん頑張るから。協力してくれる?」

「当たり前でしょ。私たちはいつだってお母さんの味方よ。あんな人のことなんて、何も気にしなくていいからね」

「ありがとう。……ルナにも私から話しておくからね」

1年後。

「これはどういうつもり?」

「あれ? もしかして結婚式の招待状、届いた?」

「ええ、ばっちり届いてるわよ。こんなふざけたものをよく送れたわね」

「いや、これは俺なりの誠意のつもりなんだよ」

「どういうこと?」

「お前と娘たちを捨てて愛人と再婚することを、悪いと思ってるならこんなことしないで。私たちの視界に入らないところで勝手にやってなさいよ。あんたの存在を認識するだけでこっちは不快なんだから」

「そんなこと言うなよ。招待状を送ったんだから、来てくれよ。いい旦那になるからさ」

「そんなものに私たちが行くわけないでしょ」

「相手がいいところのお嬢さんでさ、結婚式もめちゃくちゃ豪華な感じになりそうなんだよ。だから、そこでうまい飯を食べさせてやりたいんだ」

「余計なお世話よ。こっちはそれなりにやってるから」

「お前1人の稼ぎなんて、大したことないだろう。言ったって公務員なんだからさ」

「それが何よ」

「子供にひもじい思いをさせるのはどうかと思うぞ。親として、そこら辺はちゃんとしろってことだ」

「どの口が言ってるのよ。あんたが稼いだ金を入れなくなったせいで、そうなってるんでしょ」

「だから、食材だって俺が届けてやるって言ってるじゃないか。俺がお前たちにうまい飯を食わせてやってるんだ。それで今回のことは水に流してくれよ」

「ふざけないで」

「前向きに考えてくれよ。待ってるからな」

3日後。

「ひろみさん、久しぶりね」

「……お母さん、どうされたんですか?」

「あら、まだそんな呼び方をするの? 今すぐにでもやめてほしいわ」

「すみません。この呼び方に慣れてるものですから」

「まあいいわ。でも、式場では呼ばないようにね」

「……お母さんは、私たちが来ることは反対ですよね?」

「あの子がいいと言ってるのなら、いいんじゃないかしら。あなたも、将来のために見ておいた方がいいと思うし」

「将来のため?」

「妻とはどういう存在かを見て学ぶべきよ。相手の女性は、いいところのお嬢さんでね。趣味は料理で、家事手伝いをやってるんだって」

「それって、つまり無職ってことですか?」

「親が金持ちだから、働く必要はないのよ。そして雪夫と結婚したら、専業主婦になるみたいだわ。これが本来の女のあるべき姿よ。家庭に入って男を支えるというのが女の仕事。それなのに、あなたはいつまでも三文以下の仕事を続けて」

「三文以下なんてありません。私は今の仕事に誇りを持ってます。そして、この仕事があったからこそ、子供たちを養うことができているんですよ」

「仕事をしてなかったら、離婚されることもなかったわ。あの子が仕事を頑張って稼いでるのに、あなたは無駄なことばかりやって。あなたのせいで、私がどれだけ親戚の笑いものになってたか分かる? 息子が稼いだ金で生活してるくせに、嫁が働かせないといけないほどだって……」

「……お母さん、ちょっとよろしいですか? 私は確かに、雪夫さんと離婚することになりました。でも、それは私が仕事をしてたからではありません。雪夫さんが不倫をして、私と子供たちを捨てたからです。私はこの仕事を続けます。子供たちを養うために。そして、私は自分自身の人生を歩みます。誰かに笑われるために生きてるわけじゃないんです」

「……ふん。まあ、好きにしなさい」

「そうさせてもらいます」

その後、ひろみは娘たちの前で、自分がどう生きるかを決めていた。あの日の、雪夫の言葉。あの日の、義母の言葉。それらはすべて、自分を否定するためのものだった。

「お母さん、大丈夫?」

ルナが心配そうに声をかけてきた。みかも隣に立っている。

「大丈夫よ。心配しないで」

「何かあったの? お父さんから何か言われた?」

「ううん。ただ、昔のことを思い出してただけ。……さあ、今日は何を作ろうかしら。みんなで美味しいものを食べましょう」

「やった! ハンバーグがいい!」

「みかは何でもいいの?」

「私はお母さんの作ったものなら何でも好き」

「ありがとう。……本当に、あなたたちがいてくれて良かった」

ひろみは冷蔵庫を開け、買い置きしてあった野菜を取り出した。包丁で玉ねぎを刻みながら、自然と涙が出そうになるのをこらえた。もう、あの人のために泣くのは終わりにしよう。自分は、この子たちのために生きていくんだ。

その日から、ひろみは仕事にさらに力を入れるようになった。子育てと仕事の両立は決して楽ではなかったが、娘たちがいるから頑張れた。みかとルナも、そんな母の姿を誇りに思っていた。

「お母さん、今日も仕事?」

「うん。みんなのぶんのご飯は作ってあるから、ちゃんと食べるのよ」

「分かってるよ。それよりお母さんこそ、無理しすぎないでよ」

「ありがとう。大丈夫よ」

ひろみは自転車に乗って家を出た。春の朝の風が気持ちよかった。もう、あの頃の苦しさはない。自分は今、ちゃんと自分の足で立っている。それだけで、十分だった。

数ヶ月後。ひろみは職場で新しいプロジェクトを任されることになった。ベテラン社員として、後輩の指導も頼まれた。最初は戸惑ったが、自分を必要としてくれる人がいることが、純粋に嬉しかった。

「ひろみさん、これ、明日までにまとめてもらえますか?」

「いいわよ。任せて」

「いつもすみません。助かってます」

後輩の田中さんは、ひろみより10歳近く若い男性だった。気遣いができて、仕事も丁寧で、何よりまっすぐだった。

ある日、残業が続いた夜のこと。外はすっかり暗くなっていた。

「ひろみさん、遅くまでお疲れさまです。よかったら、これ」

田中さんが差し出したのは、缶コーヒーだった。

「あら、ありがとう。でも、どうして?」

「いや、ひろみさん、最近ずっと遅くまで仕事してるじゃないですか。子供さんもいるのに、無理しちゃいけないですよ」

ひろみは缶コーヒーを受け取りながら、少し驚いた。自分を気遣ってくれる人がいる。それは、かつての夫では決してなかったことだった。

「……ありがとう。田中さんは、優しいのね」

「え? いや、そんな。普通のことですよ」

田中さんは照れくさそうに頭をかいた。ひろみはその姿を見て、どこか温かい気持ちになった。

「でも、家に帰ると娘たちが待ってるから。私は大丈夫よ」

「そうですか。……でも、たまには自分のことも大事にしてくださいね」

「……自分のこと?」

「はい。ひろみさんは、誰かのためにすごく頑張る人だから。たまには、自分の幸せを考えてもいいと思いますよ」

その言葉が、ひろみの胸に静かに響いた。自分の幸せ。考えたこともなかった。ずっと、誰かに捨てられないように、誰かのために必死で生きてきた。でも、今は違うのかもしれない。

「……そうね。たまには、考えてもいいのかしらね」

「ええ。きっと大丈夫ですよ」

田中さんはそう言って笑った。次の日、ひろみは思い立って、長く行っていなかった美容院の予約を入れた。

「お母さん、あれ? 髪切ったの? なんか雰囲気変わったね」

「そう? ちょっとイメージを変えたくなって」

「似合ってるよ! ねえ、ルナ」

「うん、すごくいい感じ。なんか最近のお母さん、いい顔してるよね」

「そうかしら」

ひろみは鏡の中の自分を見た。髪を少し短くしただけなのに、ずいぶんと変わるものだ。もっと早くやればよかった。

「さて、今夜は何を作ろうかしら。何か食べたいものある?」

「唐揚げ!」

「昨日も唐揚げだったでしょう」

「じゃあ、カレー! お母さんのカレーが食べたい!」

「みかはしょっちゅうカレーでいいんだから。ルナは?」

「私もカレーがいいな。お母さんのカレー、具が大きくて好きだもん」

「じゃあ、カレーね。ついでに、唐揚げも作ってあげようか」

「やった! お母さんサイコー!」

ひろみはエプロンをつけ、冷蔵庫の中の野菜を手に取った。玉ねぎ、人参、じゃがいも。何気ない、いつもの光景。でも、今日はいつもより少しだけ、自分に素直になれた気がした。

その夜、みかとルナと3人で食卓を囲みながら、ひろみはふと思う。離婚は、決して幸せなことではなかった。でも、この選択は間違っていなかった。あのままあの人のそばにいたまま、自分を殺して生きてきたかもしれない。

「お母さん、どうしたの? 泣いてるの?」

「え? ……泣いてないわよ。カレーが熱くてね」

「嘘だ。カレーなんて10分は経ってるよ」

「もう、うるさいなあ。ほら、早く食べなさい」

「はいはい。あ、でもお母さん……ありがとう。いつも私たちのために頑張ってくれて」

ルナが突然、真剣な顔で言った。隣ではみかも、小さくうなずいている。

「ルナ……みか……」

「私たち、お母さんには幸せになってほしいの。だから、たまには自分のことも大事にしてね。私たちは大丈夫だから」

「……ありがとう。お母さん、頑張るわ」

ひろみの瞳から、涙がこぼれ落ちた。うれしかった。この子たちがいてくれるから、自分は幸せでいられるんだ。

「さあ、食べましょう。冷めちゃうわ」

「うん! いただきます!」

「いただきます!」

その夜、部屋に戻ったひろみは、スマホを手に取った。田中さんから届いていたメッセージには、こう書かれていた。

「今日もお疲れさまでした。おやすみなさい。いい夢を見てくださいね」

ひろみはその文字を見て、少しだけ微笑んだ。そして、自分に言い聞かせるように、小さくつぶやいた。

「……私、私の人生を生きていいんだわ」

そう言って、彼女は静かに部屋の明かりを消した。窓の外では、新しい夜が静かに始まっていた。

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