「ひろみ、もう終わりにしよう」
「え、何よ?急に。どういうこと?」
「俺たちはもう終わりだって言ってるんだよ。離婚だ。離婚届はリビングに置いてある。それにサインして役所に出してきてくれ」
「ちょっと待ってよ。何でいきなり離婚なんて話になるのよ」
「お前との生活は息が詰まるんだよ。いつも何かにお前から監視されてるような気持ちなんだ」
「ふざけないで。あんたに後ろめたいことがあるからそう思うんでしょ。普通の人はそんなこと思わないから」
「お前には何も分かってない」
「だったら何で私と結婚したのよ。っていうか、今さらそんな理由で離婚なんてありえないわ」
「もう我慢の限界なんだよ。家族のことだって、お前は全然構ってないだろ。俺はそんなお前との結婚生活はもう無理なんだ」
「何それ。みかとルナはあんたが引き取って育てなさいよ」
「家族のことを構ってないと言いながら、早速子供を放棄するのね。まあ、別にいいけど。私にとってはあの2人は宝物だから。あんたに言われなくても、離婚するなら親権は私がとるつもりよ」
「それなら早く離婚の手続きを進めてくれ」
「分かりやすいくらい焦ってるわね。何?愛人から結婚をせかされたりしてるの?」
「何のことだ」
「ごまかしても無駄よ。あんたの行動を見てれば離婚の理由なんてすぐ分かる。こんなタイミングでの離婚なんて不自然すぎるもの。どうせバレるんだから、今のうちに白状したら?」
「言っておくけど、私に嘘は通用しないからね」
「……ああ、そうだよ。もう結婚を決めてる相手がいるんだ」
「やっぱり不倫してたってこと?」
「俺はもっともっと仕事で成果を上げて、金を稼げるようになりたいんだ。そのためにはかなりのストレスの中で仕事をする必要がある。そんな俺には癒しが必要だったんだ」
「嫌らしいの間違いでしょ。訂正しなさい」
「とにかく、お前と一緒にいても何も楽しくなかった。このままじゃ成功は見込めない。だからお前とは離婚することにしたんだよ」
「はあ……随分と自分勝手な話ね。でもまあ、あんたがそれでいいっていうなら、離婚でも何でもしてあげるわ。ただし、慰謝料はきっちり払ってもらうからね。あと子供たちの養育費も」
「お前らに金なんて使いたくなかったが、まあ仕方ないな。損した気分だよ」
「あんたたちへの支払いを“損”とか言わないでよ。とにかく、さっさと離婚してくれる?」
「ああ、お前たちの要求は何でも飲んでやるから」
「そうさせてもらうわ」
5分後。ひろみは娘のルナに電話をかけていた。
「もしもし、ルナ?ちょっと大事な話があるんだけど、いい?」
「どうかしたの?」
「ルナにも連絡したんだけど、返事がなくてね。先にあなたにだけ伝えておこうと思って」
「ルナは多分、まだ部活だと思うよ」
「そう。あなたは勉強中?」
「うん。……て言っても、いい動画を見てるだけだけど」
「まあ、それも大事な勉強でしょ」
「うん」
「お母さんは家にいるの? それならすぐにでも帰るけど」
「ううん、まだ仕事中だから。だからそのままで聞いて」
「どうしたの?」
「私ね……お父さんと離婚することになったの」
「え? 何で?」
「ごめんなさいね。こんなことになってしまって。お父さんから急に離婚したいって言われたの」
「マジで……?」
「あなたももう高校生だから、ちゃんと話をするわね。お父さんには、他に付き合ってる女の人がいたのよ」
「……不倫じゃん」
「そうなるわね。それで、その人と結婚するんだって。だから私とは離婚するってなったのよ」
「……私たちはどうなるの?」
「もちろん、お母さんと一緒よ。あんな人のところに行く必要はないわ」
「ああ、良かった。マジで、あんな人のところになんて行きたくなかったもん」
「ルナも一緒かな?」
「一緒だって。私たち双子だから、気持ちは分かるよ。私たち2人とも、あいつのこと全然好きじゃなかったし。いっつも不機嫌でさ、私たちのことなんか全然気にかけてない感じで。頭の中は出世とか金のことしかないのが丸見えだったもん」
「そういうのは、やっぱり分かるのね」
「うん。だからお母さん、安心して」
「これからは、私たち3人になるってことね。できるだけあなたたちに迷惑をかけないように、お母さん頑張るから。協力してくれる?」
「当たり前でしょ。私たちはいつだってお母さんの味方よ。あんな人のことなんて、何も気にしなくていいからね」
「ありがとう。……ルナにも私から話しておくからね」
1年後。
「これはどういうつもり?」
「あれ? もしかして結婚式の招待状、届いた?」
「ええ、ばっちり届いてるわよ。こんなふざけたものをよく送れたわね」
「いや、これは俺なりの誠意のつもりなんだよ」
「どういうこと?」
「お前と娘たちを捨てて愛人と再婚することを、悪いと思ってるならこんなことしないで。私たちの視界に入らないところで勝手にやってなさいよ。あんたの存在を認識するだけでこっちは不快なんだから」
「そんなこと言うなよ。招待状を送ったんだから、来てくれよ。いい旦那になるからさ」
「そんなものに私たちが行くわけないでしょ」
「相手がいいところのお嬢さんでさ、結婚式もめちゃくちゃ豪華な感じになりそうなんだよ。だから、そこでうまい飯を食べさせてやりたいんだ」
「余計なお世話よ。こっちはそれなりにやってるから」
「お前1人の稼ぎなんて、大したことないだろう。言ったって公務員なんだからさ」
「それが何よ」
「子供にひもじい思いをさせるのはどうかと思うぞ。親として、そこら辺はちゃんとしろってことだ」
「どの口が言ってるのよ。あんたが稼いだ金を入れなくなったせいで、そうなってるんでしょ」
「だから、食材だって俺が届けてやるって言ってるじゃないか。俺がお前たちにうまい飯を食わせてやってるんだ。それで今回のことは水に流してくれよ」
「ふざけないで」
「前向きに考えてくれよ。待ってるからな」
3日後。
「ひろみさん、久しぶりね」
「……お母さん、どうされたんですか?」
「あら、まだそんな呼び方をするの? 今すぐにでもやめてほしいわ」
「すみません。この呼び方に慣れてるものですから」
「まあいいわ。でも、式場では呼ばないようにね」
「……お母さんは、私たちが来ることは反対ですよね?」
「あの子がいいと言ってるのなら、いいんじゃないかしら。あなたも、将来のために見ておいた方がいいと思うし」
「将来のため?」
「妻とはどういう存在かを見て学ぶべきよ。相手の女性は、いいところのお嬢さんでね。趣味は料理で、家事手伝いをやってるんだって」
「それって、つまり無職ってことですか?」
「親が金持ちだから、働く必要はないのよ。そして雪夫と結婚したら、専業主婦になるみたいだわ。これが本来の女のあるべき姿よ。家庭に入って男を支えるというのが女の仕事。それなのに、あなたはいつまでも三文以下の仕事を続けて」
「三文以下なんてありません。私は今の仕事に誇りを持ってます。そして、この仕事があったからこそ、子供たちを養うことができているんですよ」
「仕事をしてなかったら、離婚されることもなかったわ。あの子が仕事を頑張って稼いでるのに、あなたは無駄なことばかりやって。あなたのせいで、私がどれだけ親戚の笑いものになってたか分かる? 息子が稼いだ金で生活してるくせに、嫁が働かせないといけないほどだって……」
「……お母さん、ちょっとよろしいですか? 私は確かに、雪夫さんと離婚することになりました。でも、それは私が仕事をしてたからではありません。雪夫さんが不倫をして、私と子供たちを捨てたからです。私はこの仕事を続けます。子供たちを養うために。そして、私は自分自身の人生を歩みます。誰かに笑われるために生きてるわけじゃないんです」
「……ふん。まあ、好きにしなさい」
「そうさせてもらいます」
その後、ひろみは娘たちの前で、自分がどう生きるかを決めていた。あの日の、雪夫の言葉。あの日の、義母の言葉。それらはすべて、自分を否定するためのものだった。
「お母さん、大丈夫?」
ルナが心配そうに声をかけてきた。みかも隣に立っている。
「大丈夫よ。心配しないで」
「何かあったの? お父さんから何か言われた?」
「ううん。ただ、昔のことを思い出してただけ。……さあ、今日は何を作ろうかしら。みんなで美味しいものを食べましょう」
「やった! ハンバーグがいい!」
「みかは何でもいいの?」
「私はお母さんの作ったものなら何でも好き」
「ありがとう。……本当に、あなたたちがいてくれて良かった」
ひろみは冷蔵庫を開け、買い置きしてあった野菜を取り出した。包丁で玉ねぎを刻みながら、自然と涙が出そうになるのをこらえた。もう、あの人のために泣くのは終わりにしよう。自分は、この子たちのために生きていくんだ。
その日から、ひろみは仕事にさらに力を入れるようになった。子育てと仕事の両立は決して楽ではなかったが、娘たちがいるから頑張れた。みかとルナも、そんな母の姿を誇りに思っていた。
「お母さん、今日も仕事?」
「うん。みんなのぶんのご飯は作ってあるから、ちゃんと食べるのよ」
「分かってるよ。それよりお母さんこそ、無理しすぎないでよ」
「ありがとう。大丈夫よ」
ひろみは自転車に乗って家を出た。春の朝の風が気持ちよかった。もう、あの頃の苦しさはない。自分は今、ちゃんと自分の足で立っている。それだけで、十分だった。
数ヶ月後。ひろみは職場で新しいプロジェクトを任されることになった。ベテラン社員として、後輩の指導も頼まれた。最初は戸惑ったが、自分を必要としてくれる人がいることが、純粋に嬉しかった。
「ひろみさん、これ、明日までにまとめてもらえますか?」
「いいわよ。任せて」
「いつもすみません。助かってます」
後輩の田中さんは、ひろみより10歳近く若い男性だった。気遣いができて、仕事も丁寧で、何よりまっすぐだった。
ある日、残業が続いた夜のこと。外はすっかり暗くなっていた。
「ひろみさん、遅くまでお疲れさまです。よかったら、これ」
田中さんが差し出したのは、缶コーヒーだった。
「あら、ありがとう。でも、どうして?」
「いや、ひろみさん、最近ずっと遅くまで仕事してるじゃないですか。子供さんもいるのに、無理しちゃいけないですよ」
ひろみは缶コーヒーを受け取りながら、少し驚いた。自分を気遣ってくれる人がいる。それは、かつての夫では決してなかったことだった。
「……ありがとう。田中さんは、優しいのね」
「え? いや、そんな。普通のことですよ」
田中さんは照れくさそうに頭をかいた。ひろみはその姿を見て、どこか温かい気持ちになった。
「でも、家に帰ると娘たちが待ってるから。私は大丈夫よ」
「そうですか。……でも、たまには自分のことも大事にしてくださいね」
「……自分のこと?」
「はい。ひろみさんは、誰かのためにすごく頑張る人だから。たまには、自分の幸せを考えてもいいと思いますよ」
その言葉が、ひろみの胸に静かに響いた。自分の幸せ。考えたこともなかった。ずっと、誰かに捨てられないように、誰かのために必死で生きてきた。でも、今は違うのかもしれない。
「……そうね。たまには、考えてもいいのかしらね」
「ええ。きっと大丈夫ですよ」
田中さんはそう言って笑った。次の日、ひろみは思い立って、長く行っていなかった美容院の予約を入れた。
「お母さん、あれ? 髪切ったの? なんか雰囲気変わったね」
「そう? ちょっとイメージを変えたくなって」
「似合ってるよ! ねえ、ルナ」
「うん、すごくいい感じ。なんか最近のお母さん、いい顔してるよね」
「そうかしら」
ひろみは鏡の中の自分を見た。髪を少し短くしただけなのに、ずいぶんと変わるものだ。もっと早くやればよかった。
「さて、今夜は何を作ろうかしら。何か食べたいものある?」
「唐揚げ!」
「昨日も唐揚げだったでしょう」
「じゃあ、カレー! お母さんのカレーが食べたい!」
「みかはしょっちゅうカレーでいいんだから。ルナは?」
「私もカレーがいいな。お母さんのカレー、具が大きくて好きだもん」
「じゃあ、カレーね。ついでに、唐揚げも作ってあげようか」
「やった! お母さんサイコー!」
ひろみはエプロンをつけ、冷蔵庫の中の野菜を手に取った。玉ねぎ、人参、じゃがいも。何気ない、いつもの光景。でも、今日はいつもより少しだけ、自分に素直になれた気がした。
その夜、みかとルナと3人で食卓を囲みながら、ひろみはふと思う。離婚は、決して幸せなことではなかった。でも、この選択は間違っていなかった。あのままあの人のそばにいたまま、自分を殺して生きてきたかもしれない。
「お母さん、どうしたの? 泣いてるの?」
「え? ……泣いてないわよ。カレーが熱くてね」
「嘘だ。カレーなんて10分は経ってるよ」
「もう、うるさいなあ。ほら、早く食べなさい」
「はいはい。あ、でもお母さん……ありがとう。いつも私たちのために頑張ってくれて」
ルナが突然、真剣な顔で言った。隣ではみかも、小さくうなずいている。
「ルナ……みか……」
「私たち、お母さんには幸せになってほしいの。だから、たまには自分のことも大事にしてね。私たちは大丈夫だから」
「……ありがとう。お母さん、頑張るわ」
ひろみの瞳から、涙がこぼれ落ちた。うれしかった。この子たちがいてくれるから、自分は幸せでいられるんだ。
「さあ、食べましょう。冷めちゃうわ」
「うん! いただきます!」
「いただきます!」
その夜、部屋に戻ったひろみは、スマホを手に取った。田中さんから届いていたメッセージには、こう書かれていた。
「今日もお疲れさまでした。おやすみなさい。いい夢を見てくださいね」
ひろみはその文字を見て、少しだけ微笑んだ。そして、自分に言い聞かせるように、小さくつぶやいた。
「……私、私の人生を生きていいんだわ」
そう言って、彼女は静かに部屋の明かりを消した。窓の外では、新しい夜が静かに始まっていた。
