同窓会の会場で、高笑いが響き渡った。咲がグラスを掲げ、その中身をハミに浴びせたのだ。赤ワインがスーツを濡らし、床に滴り落ちる。
「ねえ、みんな覚えてる? ハミ君って高校の頃、本当に貧乏だったのよ。六畳一間のボロアパートで、お昼ご飯もパン一個だけだったの」
周囲の女子たちがクスクスと笑う。会場がざわめきに包まれた。
「どうしても、そのよれよれのスーツ。きっと今も大変なんでしょうね。ねえ、貧乏人さん、間違いだから帰ってくれない? 目障りなの」
ハミは唇を噛みしめ、拳を握った。爪が手のひらに食い込む。
絶対に仕返ししてやる。
数日後、緑山製薬の会議室で、咲はハミの姿を見て顔面蒼白になった。
「な、なんであなたがここにいるのよ」
「契約の話で来ました。私が桜場総合病院の副院長ですから」
ハミは冷たく微笑んだ。
「言いましたよね。俺は医者になるって」
ハミの人生は、貧しさとの戦いだった。五歳のとき、父親が借金を残して家を出た。それから母のさち子は、女手一つでハミを育ててきた。昼は工場で八時間、夜はコンビニで五時間。休日もパートに出る。それでも生活はギリギリだった。
小学六年生の冬、ハミは母に言った。
「俺も働きたい。少しでも楽させてあげたい」
母は疲れた顔で、それでも優しく笑った。
「だめよ。あなたは勉強しなさい。お母さんが何とかするから」
「でもお母さん、疲れてるじゃん」
「平気よ。あなたが立派になってくれれば、それがお母さんの幸せなの」
母の目には涙が浮かんでいた。ハミは何も言えず、ただ母の小さく荒れた手を握りしめた。
小学校では、ハミの家庭環境は恰好の標的だった。
「やい、貧乏人。お父さんに逃げられたんだって?」
教室でそんな言葉が容赦なく飛んでくる。ハミは黙って耐えた。言い返せば、もっとひどいことを言われるだけだ。それでも心の奥では叫んでいた。俺だって、好きでこんな生活をしてるわけじゃない。
中学一年の春、ハミは白田孝と出会った。体育の授業中、一人でいたハミに白田が声をかけてきた。
「お前、いつも一人だな。一緒に帰ろうぜ」
「いいよ。一人で」
「そう言うなって。俺も友達少ないし」
最初は警戒していたハミだったが、白田は他の子供たちとは違った。何度か一緒に帰るうちに、白田は自然な形でハミの状況を知った。
「お前んち、大変なんだって」
「うるさいな」
「別にいいじゃん。俺の親父も昔は貧乏だったって言ってたし」
白田はハミを見下さない。対等に、友達として接してくれる。それから二人は親友になった。
「お前、頭いいんだから自信持てよ」
「ありがとう」
白田の存在が、ハミの心の支えになった。初めて、本当の友達ができた。
中学三年の冬。ハミは母にこう告げられた。
「ここは行きなさい。お母さんが何とかするから」
「でも、お金が……」
「あなたは勉強しなさい」
母の表情には、疲労と決意が混じっていた。また無理をする。ハミにはそれが分かった。
ハミは県立高校に合格した。入学後すぐ、コンビニでアルバイトを始めた。週五日、放課後から夜の十一時まで働く。休日は朝から夕方まで。バイト代は全て母に渡した。ハミは勉強とバイトに明け暮れた。いつか母を楽にさせてやりたい。その思いだけが、ハミを支えていた。
高校一年の秋、ある出来事がハミの人生を大きく変えた。その日、母が過労で倒れた。学校から帰ると、母は床に倒れていた。心臓が凍りつく。慌てて救急車を呼び、病院に運ばれた。
「過労ですね。しばらく休んでください」
「休めないんです。仕事が……」
「このままでは、もっと体を壊しますよ」
ハミはベッドの上で困った顔をしている母を見つめながら考えた。母さんはずっと俺のために頑張ってくれた。今度は俺が母さんを守る番だ。ハミは心に誓った。母さんが健康でいられるように、医者になる。そして母さんを金銭的にも楽にしてやる。絶対に。
高校三年生になったハミのクラスには、無藤咲という女子生徒がいた。咲はクラスで最も目立つ存在だった。明るくて派手な彼女は、いつも最新の服を着てブランドバッグを持っている。週末は都会でショッピングや高級カフェに行く。そんな話を楽しそうにする咲の周りには、いつも女子たちが集まっていた。
「咲ちゃん、そのバッグ可愛い」
「ありがとう。お父さんに買ってもらったの。最新作なのよ」
咲は裕福な家庭の娘だった。父親は地元有力企業の役員で、母親は専業主婦。何不自由ない暮らしをしてきた彼女は、幼い頃から母にこう言われて育った。
「咲、将来はちゃんとお金持ちと結婚しなさいね。じゃないと大変なんだから」
「うん、分かってる」
咲の人生にとって、金持ちイコール幸せという定義づけがされていた。一度も貧しさを経験したことがない彼女にとって、貧乏は無縁のものであり、蔑む対象でしかなかった。裕福で何もかも与えられて育った咲のクラスでの影響力は絶大だった。彼女に気に入られればクラスで居心地よく過ごせるが、嫌われれば地獄だ。誰もが咲の機嫌を損ねないように気を使っていて、周りにはいつも取り巻きが三人いた。
取り巻きたちは咲の調子に合わせて悪乗りすることもあったが、ただ咲に嫌われることを何より恐れていた。教師たちですら咲には強く言えない。父親の企業の影響力が学校にも及んでいたからだ。
高校三年の春、文化祭の準備が始まった。ハミのクラスは演劇をすることになり、グループに分かれて作業を進めることになった。ある日、グループのメンバーが集まって話し合いをしていた。
「グループで集まって小道具とか作りたいんだけど、誰かの家貸してくれない?」
「ハミの家が学校から一番近いよな。そこでいいんじゃね?」
ハミの心臓が跳ね上がる。慌てて首を横に振った。
「いや、俺の家は多分みんな入んないよ」
「このぐらいの人数なら大丈夫だろう。頼むよ。放課後すぐ作業始められるし」
「あら、ハミ君の家? 私も行ってみたいわ」
咲が興味心々と言った様子で言った。他のメンバーたちも賛成する。みんなの勢いに押され、ハミは断りきれなかった。
「分かった……」
こうしてハミは、咲を含む五人のクラスメートを自宅に招くことになったが、嫌な予感しかしなかった。
放課後、ハミの案内で一行は古いアパートに到着した。建物を見た瞬間、メンバーたちの表情が変わった。錆びた階段、剥がれた壁、古びた外観。明らかに年季の入ったボロアパートだった。
「ここ、二階だ」
階段を登り、ハミが鍵を開けると、そこには六畳間の部屋があった。古びた畳、小さな茶ぶ台、隅に積まれた段ボール箱。それだけだった。お風呂はなく、トイレも共用だ。
「マジかよ……」
クラスメートは凍りついたように立ち尽くした。咲の顔も明らかに引きつっていた。
「え、何? ここ……」
「そうだね」
作業中、誰もハミとまともに目を合わせようとしなかった。会話も弾まず、気まずい空気が流れる。特に咲は落ち着きなくそわそわしていた。
「ねえ、もうそろそろ帰らない?」
「そうだね。もう暗くなってきたし」
予定より早く作業は打ち切られた。帰り道、咲と取り巻きたちが小声で話しているのが聞こえた。
「マジでびっくりした……」
「ねえ、ちょっと……」
それ以上は聞こえなかったが、ハミには何を話しているのか想像がついた。やっぱりだ。だから呼びたくなかったんだ。ハミは後悔した。
翌日、教室に入った瞬間、空気が変わっているのを感じた。クラスメートたちがチラチラとハミを見ては、ひそひそと話している。昨日家に来たメンバーが、他の生徒たちに話したのだろう。
「ハミの家、マジでやばいらしいよ。六畳一間で、お風呂もないんだって」
「マジ?」
あっという間に噂は広まり、クラス中が、そして学年中がハミの家庭環境を知ることになった。
それから、咲による嫌がらせが始まった。ある日の朝、ハミが教室に入ると、自分の机の中が荒らされていた。教科書が消えている。周囲を見渡すと、ゴミ箱の中に濡れた状態で自分の教科書が捨てられているのが見えた。
「誰だよ、こんなことしたの……」
息を飲む。黙って教科書を拾い上げた。水が滴り落ちる。その様子を、咲と取り巻きたちがクスクス笑いながら見ていた。
「あら、落ちてたわよ」
咲はわざとらしい口調で言ったが、明らかに嘲りが混じっている。別の日には上履きに画鋲が入れられていた。机やロッカーには油性ペンで「貧乏」「臭い」「消えろ」と書かれていた。消しても、翌日にはまた書かれている。
昼休み、ハミはいつものように百円のコッペパン一個を食べていた。すると咲が近づいてきて、わざと大きめの声で言った。
「ねえ、みんな見て。ハミ君、今日もパン一個だけ」
クラス中の視線がハミに集まる。哀れむような視線だ。
「かわいそう。ちゃんとした食事もできないなんて。うちの犬の方がいいもの食べてるわ」
「やだ、それ言いすぎ」
取り巻きたちが咲に合わせるように言い放つと、クラス中からも苦笑いのような笑い声が聞こえた。ハミは黙ってパンを食べ続けた。小学生時代から貧乏をからかわれるのには慣れていたが、高校生にもなって、ここまで標的にされるとは思ってもみなかった。
別の日、咲は自分の豪華な弁当を持ってハミの机に近づいてきた。
「ほら、ハミ君、あげる」
咲は弁当から唐揚げを一つ取った。
「美味しいから食べなさいよ」
「いらない」
「遠慮しないで。かわいそうだもん。パンだけじゃ」
そう言って無理やりハミの口元に唐揚げを近づけてくる。隣に座っていた白田が立ち上がった。
「やめろって」
「何よ、白田君。せっかく親切で」
「白田君、空気読めないね」
白田は苛立ちを抑えながらハミを見た。ハミは小さく頷く。大丈夫だと。しかし本当は大丈夫じゃない。表情を浮かべて強がっていた。
秋になり、期末テストが近づいてきた。ハミは毎日バイトと勉強に明け暮れていた。深夜まで働き、帰宅してから勉強する。睡眠時間は三、四時間ほどだ。それでもハミは諦めなかった。医者になる。母を楽にする。そのためなら、どんなに辛くても頑張れる。
そして期末テストの結果が廊下に張り出された。ハミの名前は、なんと学年一位に輝いていた。それを見ていた咲がハミに近づいて、嫌味を言ってきた。
「へえ、すごいじゃん、ハミ君。でもさ、遊ぶお金もないから勉強するしかないんでしょ。ガリ勉って感じ」
「勉強が好きなだけだ」
「ふうん。で、将来は何になるの?」
ハミは少し間を置いてから、はっきりと答えた。
「医者になる」
咲の顔が一瞬で歪んだ。目を見開く。
「はあ? 医者ですって」
周囲の生徒たちが振り返る。咲の声は廊下中に響いた。
「あなたみたいな貧乏人が医者? 医学部って何千万かかると思ってるの? 六年間でどれだけお金がかかるか分かってるのよ。無理、無理。夢見すぎ。現実見なよ」
クラス中の生徒たちが集まってきた。ハミは心臓が激しく脈打つのを感じながら、冷静に答えた。
「奨学金がある。バイトもできる。なれない理由はない」
「奨学金って借金でしょ。返せるわけないでしょ」
「なって見せるよ」
「なれるもんならなってみなさいよ。絶対無理だから。あなたは一生貧乏なままなのよ」
咲は捨て台詞を残して去っていった。取り巻きたちも後を追う。クラス中が笑っている。ハミは黙って拳を握りしめた。なんでこんなに馬鹿にされなきゃいけないんだ。
翌日の昼休み、咲がハミに話しかけてきた。
「ねえ、ハミ君、昨日お母さんが働いているところ見たわよ。あんなに疲れた顔しててかわいそうよね。ずっと働いてるんでしょ? うちの母なんて毎日優雅にランチよ」
咲は笑いながら続けた。
「そういえばお母さん、何歳? もう結構いってるわよね。大丈夫?」
ハミの中で何かが弾けた。拳を強く握りしめる。
「母さんの話はするな」
声が震えている。自分でも分かる。
「何怒ってるの? 事実でしょう」
取り巻きたちがクスクス笑う。ハミの中で血が沸騰した。母さんをバカにするな。絶対に許さない。絶対に医者になって見返してやる。
それから数日後、白田がハミの味方をし続けていることに、咲が苛立ちを見せ始めた。ある日の放課後、咲が白田に声をかけた。
「白田君、いい加減にしたら? 何がハミ君なんかと仲良くして、恥ずかしくないの?」
「恥ずかしくないよ。友達だから」
「ふうん」
咲は不機嫌そうに去っていった。その日から、白田もターゲットになった。白田のロッカーにも「貧乏の仲間」と張り紙が貼られ、机にも落書きがされた。クラスで白田を避ける空気が流れ始める。
昼休み、白田がハミに声をかけた。
「気にすんな、ハミ」
「ごめん。巻き込んで」
ハミの声は沈んでいた。
「俺が勝手にやってることだから。白田は笑顔で言った。お前は諦めるなよ。絶対に医者になれるから」
「ありがとう」
白田の存在がハミを支え続けた。白田がいなければ、ハミはとっくに挫けていただろう。
そして卒業式の日がやってきた。式が終わり、クラスで記念写真を撮ることになった。みんなが教室に集まり、カメラの前に並ぶ。その時、咲が言った。
「ねえ、ハミ君と白田君は入らないで」
「言えてる。写真に貧乏が映りそう」
「やだ、それ言いすぎ」
取り巻きたちはそう言いながらも笑っている。クラスメートたちはさすがに気まずそうに沈黙した。でも誰も咲に逆らえない。
結局ハミと白田は、記念写真を撮ることなく、何も言わずにその場を去った。廊下を歩きながら白田が言った。
「咲のやつ、最後まであれかよ」
「いいんだ。もう会わなくなるから。精生するよ」
そう言ってハミは、心の中では静かに燃えていた。母さんや白田のことまで笑ったことは、絶対に忘れない。絶対に見返してやる。
高校を卒業したハミは、国立大学医学部に合格した。奨学金を受け、バイトをしながらの六年間。深夜まで勉強し、休日も働いた。何度もくじけそうになりながら、教科書を開いても頭に入らない日もあった。バイトで疲れ果て、机で寝落ちすることもあった。そんな時は、ハミは母の顔を思い浮かべた。母さんは俺のためにずっと働き続けてくれた。俺が諦めたら、母さんの苦労が無駄になる。そして白田の言葉も思い出した。お前は諦めるなよ。絶対に医者になれるから。
六年後、ハミは医師国家試験に合格した。合格発表の日、ハミはすぐに母に電話をかけた。手が震える。
「母さん、受かったよ。医者になれた」
「本当に? 本当なの?」
電話の向こうで、母が泣いている声が聞こえた。
「よかった。本当に良かった」
「母さん、ありがとう。母さんのおかげだよ」
「あなたが頑張ったからよ。母さん嬉しい。本当に嬉しい」
ハミも涙が溢れてきた。やっと母を楽にできる。
その後、ハミは桜場総合病院に就職した。下積みとして働き始めたハミは、どん底から這い上がった経験から、人の気持ちが分かる医者になっていった。患者に寄り添い、丁寧に話を聞く。不安を抱える患者の手を握り、励ます。そんなハミの姿勢は、患者や同僚から信頼を得ていった。数年後、ハミは副院長に就任した。三十八歳の時だった。母は今も元気で、働きながらハミが建てた小さな家で心豊かに暮らしている。
一方、咲は短大を卒業後、派遣社員として働いていた。彼女の目標は一つ。お金持ちと結婚すること。合コンやパーティーに通い続けた咲は、三十二歳の時ついに目標を達成した。緑山製薬の社長、無藤正隆と出会い結婚したのだ。正隆は四十四歳のバツイチだったが、咲にとっては関係なかった。彼は社長でお金持ち。それだけで十分だった。結婚後はセレブ生活を謳歌した。高級マンション、ブランド品、海外旅行。SNSで派手な生活を発信し、高校時代の取り巻きたちとも交流を続けていた。咲は自分を勝ち組だと自信していた。一度も落ちたことがない。これからもずっとこの生活が続く。そう信じていた。
白田はと言うと、薬学部を卒業し、薬剤師として製薬業界で働いていた。ハミとは月に一度会い、近況を報告し合う仲を続けていた。
ある日、ハミの自宅に一通の封筒が届いた。高校の同窓会の案内状だった。ハミは封筒を見つめたまま、しばらく動けなかった。あの時のことがフラッシュバックのように思い出される。迷った挙句、親友の白田に相談した。
「咲は欠席らしいって聞いたぞ。久しぶりにクラスメートにも会おうぜ」
「なら行くよ」
咲は来ない。安心したハミは、二十年ぶりの同窓会に出席することを決めた。
同窓会当日の朝、ハミは桜場総合病院にいた。午前中だけ勤務して、午後は同窓会に出席する予定だった。ところが午前八時頃、研修医の一人が慌てて駆け込んできた。
「副院長、VIP患者の緊急手術なんですが、ご家族が副院長先生にお願いしたいと」
「今日は午後から予定があるんだが」
患者は地元選出の国会議員だった。急制の心臓疾患で、筆刻を争う状態だという。
「お願いします。この手術、副院長先生以外にできる人がいないんです」
ハミは計算した。手術が順調に進めば、午後六時開始の同窓会には間に合うだろう。
「分かった。すぐ準備してくれ」
結局、会場に到着したのは午後六時十分。十分の遅刻だ。慌ててきたため、スーツは少し着崩れていて、髪もボサボサだ。会場は高級ホテルの宴会場だった。入り口に立つと、白田が待っていた。
「遅かったじゃないか。どうしたんだ、その格好」
「手術が長引いて、直前まで病院にいたんだ」
「それは大変だったな」
その時、会場から声が響いた。
「皆様、本日はお忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます」
ハミの体が固まった。会場には司会として咲が立っていた。
「咲? すまん、俺もついてから知ったよ。急遽出席に変更したらしい」
咲は二十年前とはさすがに年を重ねた印象だったが、身につけているものは明らかに高級品だった。派手なドレス、きらめくアクセサリーをこれ見よがしに付けている。しかしあの頃のふてぶてしい態度は変わっていなかった。実は咲の取り巻きの一人が幹事を務めていたのだが、咲は名簿を確認し、ハミの出席が分かった瞬間に自身も出席に変更したのだ。あの頃と同じ笑みを浮かべて。
「帰ろう」
「ああ」
二人はこっそりと会場を出ようとした。だが、その時咲がハミを見つけた。
「もしかして、ハミ君?」
ハミは固まった。咲が司会の席から降りて近づいてくる。逃げられない。
「久しぶり。どこ行くの?」
咲の声は明るかった。だが、その目は冷たく光っている。まるで獲物を見つけた猫のような目だ。ハミの背筋に悪寒が走る。
「いや、用事があって」
「せっかく来たのに帰るの? もったいないわよ」
取り巻きたちも集まってきた。三人の顔には不気味な笑みが浮かんでいる。
「久しぶり。座ってってよ」
「ねえ、一緒に飲もうよ」
何かを企んでいる。ハミにはそれが分かった。白田がハミの袖を引いた。
「いや、俺たち……」
「いいじゃない。少しくらい」
咲の声には、うむを言わさない強さがあった。取り巻きたちもハミと白田を囲むように立っている。二人は仕方なく席に座った。酒が喉を通らない。
咲は自分の席に戻ると、取り巻きたちと小声で何か話し始めた。時よりハミの方を見てはニヤニヤと笑っている。
「ねえ、みんな聞いて。私、すっごく幸せなの」
咲はわざと大きな声で言った。まるで周囲の注目を集めるように。
「知ってる。咲の旦那さん、社長なんでしょ?」
「そうなの? 緑山製薬の社長。すごいよね。セレブじゃん。羨ましい」
白田はその会話を聞いて、顔色が変わった。緑山製薬。それって何かを思い出しそうになった。だが、そのタイミングで料理が運ばれてきた。会場は各々の会話で空気が温まってきた。
そして咲は、転合いと見るやハミのところに、わざとらしくゆっくりと近づいてくる。
「ハミ君、その格好、相変わらずね。もしかして仕事帰り?」
ハミを頭から足先までじっくりと見る。嘲るような、品定めするような目だ。
「ああ」
「何の仕事してるの?」
咲の目がさらに細くなる。何かを確認するような目だ。
「普通の仕事だよ」
正直に答えても良かったが、ハミはあえて曖昧に答えた。
「へえ。どんな会社?」
「普通の会社だよ」
「ふうん。そう」
咲は意味深に笑いながら、取り巻きたちへと目配せをした。何かの合図だ。
咲は突然マイクを手に取り、会場に響く声で言った。
「皆さん、ちょっといいですか? ステージにお呼びしたい方がいます」
ハミの心臓が跳ね上がる。嫌な予感が的中した。
「三年二組のハミ君です。久しぶりに来たので、みんなに姿を見せてもらいましょう」
会場から拍手が湧き起こる。
「おい、無視しろ」
白田がそう言ってくれるが、周囲の視線がハミに集まっていて逃げられない。
「ハミ君、照れてるの? さあ、ステージへ」
ハミは仕方なく立ち上がり、ステージへと向かった。足が重い。一歩、また一歩。咲の不気味な笑みがどんどん近づいてくる。咲はニヤニヤと笑いながら、ハミの隣に立った。
「皆さん、ハミ君です」
会場から拍手が上がる。
「その前に、ハミ君の高校時代をご紹介したいと思います」
え? やっぱりだ。嵌められた。ハミの体が震える。心臓が激しく打っている。
「ハミ君のお家にお邪魔した時、とても驚きました。六畳一間のボロアパートで、お風呂もなくて、お昼もパン一個だけで、お小遣いももらってなかったそうですよ」
会場がざわめき出した。ハミの拳が震えている。
「そしてお母さんは、昼も夜も働いててすごく大変そうだったわ」
ハミは母のことを言われて、表情が変わった。血が込み上げる。
「あの頃はハミ君、医者になるって言ってたのよね。でも結局、普通の会社員になったんですって」
取り巻きたちがステージ近くに集まってきた。
「努力したのにね。かわいそう」
「まあ、仕方ないわよね」
会場はどん引きしているが、誰も止めない。咲の影響力は今も絶大だった。
「貧乏人がノコノコ来て、間違いなのよ」
咲はハミを見て冷たく笑った。その目には明確な悪意があった。
「ねえ、貧乏人さん、帰ってくれない? 目障りだから」
そう言って咲は高笑いした。取り巻きたちも、タイミングを合わせたように笑っている。ハミの中で怒りが湧き上がる。結局は、最初からこれが目的だったのだ。わざわざ出席を変更して、わざわざ呼び止めてステージに上げて、大勢の前で嘲笑する。それが咲の狙いだった。
その時、咲が通りすがった会場スタッフから赤ワインのグラスを取った。ゆっくりと、わざとらしく。
「あ、そうだ。これあげる」
咲はグラスをハミに近づける。ハミが手を伸ばそうとした、その瞬間。次の瞬間、咲はワインをハミにバシャっとかけた。冷たい液体が顔やスーツにかかり、滴り落ちる。
「どう? 普段飲めないワイン、美味しいでしょ?」
ハミのスーツの上着はワインレッドに染まった。会場が総然となった。
「おい、何やってるんだよ」
白田が決然と立ち上がり、ステージに駆け上がってくる。
「え? 美味しそうなワインを飲ませてあげただけよ」
「ふざけるな」
「こんな貧乏人にワインなんて、もったいなかったわね」
咲はゲラゲラと笑い、取り巻きたちも一緒になって笑った。しかし、さっきまで賑やかだった会場には、やりすぎだという空気が漂っている。
ハミは怒りで全身が震えていた。もう限界だ。唇を噛む。拳を握る。爪が手のひらに食い込む。母さんのことまで大勢の前で侮辱されて、ワインまでかけられて。
「早く来い」
白田がハミの腕を掴んだ。ハミは逃れるようにステージを降り、白田と一緒に会場を出た。背後で咲の高笑いが響いていた。
二人はトイレに駆け込み、ワインで濡れたスーツを拭く。ハミは深く息を吐く。手が震えている。
「あそこまでやるとは……。取り巻きまで。母さんのことまで言いやがった。ワインまでかけられた」
ハミの声は低く震えていた。
「最初からあれが目的だったんだ」
「ああ。わざわざ出席を変更して、俺が来るのを待ってた。そして大勢の前で嘲笑する。それが咲の狙いだった」
「絶対に許さない。仕返しする」
ハミの目には、怒りの炎が燃えていた。
同窓会の翌日、白田からハミに電話がかかってきた。
「昨日はひどかったな。大丈夫か?」
「ああ、なんとか」
声は平静さを保っているが、怒りは消えていなかった。
「あのさ、昨日の同窓会で聞いたんだけど、咲の旦那、緑山製薬の社長らしいぞ」
「緑山製薬?」
「お前の病院と契約予定の会社だろう」
ハミは痛いところを突かれた。確かに来週、緑山製薬との大型契約の話し合いが予定されている。
「ああ、そうだ」
「どうする?」
ハミは少し考えてから答えた。
「仕事と私情は別だ。ちゃんと契約内容を見て判断しないと」
「お前らしいな」
電話を切った後、ハミは葛藤していた。咲への怒りはある。でも医療従事者として、患者のことを第一に考えなければならない。私情で契約を破棄するわけにはいかない。そう自分に言い聞かせた。
その日の夕方、再び白田から電話がかかってきた。
「緑山製薬のことなんだけど」
「何?」
「俺、薬剤師で製薬業界にいるから色々聞くんだけど、あまりいい噂聞かないんだよな」
「いい噂じゃない?」
「うん。データが怪しいとか、誇大広告じゃないかとか、業界内でちょくちょく言われてる」
「そうなのか」
ハミの声のトーンが変わった。
「それに、副作用の報告も隠してるんじゃないかって噂もある」
「副作用を?」
「ああ。知り合いの薬剤師も言ってたんだけど、緑山製薬の薬、効果が宣伝ほどじゃなかったって。患者さんからクレームが来て、病院側が困ってたらしい」
ハミは真剣な表情になった。ペンを握る手に力が入る。
「それは問題だな。もしかしたら、ちゃんと調べた方がいいかもしれない。分かった。調べてみる」
電話を切ったハミは、すぐに調査を始めることにした。白田の協力を得て、白田の製薬業界のコネを使い、他の病院や薬剤師から情報を集めた。
数日後、ハミは白田と喫茶店で会った。
「色々調べたんだけど、やっぱり緑山製薬、怪しいぞ」
「どんな情報があった?」
「まず、臨床試験データが異常に良すぎる。普通、多少ばらつきがあるのに、完璧すぎて逆に怪しいって言われてる」
「データ改ざんの可能性があるのか」
「ああ。それに誇大広告の苦情も出てるらしい。劇的に効くとか、即効性とか。医学的根拠が薄いのに宣伝してる。広告だけでも薬機法に抵触している可能性があるな」
ハミはうつむいた。
「あと、副作用の報告が表に出てこないんだよ。普通は報告されるはずなのに。隠蔽してるんじゃないかって」
ハミは深刻な表情で頷いた。
「もっと詳しく調べよう」
その後も調査を続けたハミは、同期の医師から決定的な情報を得た。
「緑山製薬、本当に不正をしてた」
「マジか」
「実際に俺の同期の勤めている病院も被害を受けてる。患者さんが苦しんでるんだ。これは許せないな」
もう迷わない。咲もあの会社も潰す。白田はそれを聞いて、ハミに伝えた。
「これ言うか迷ったんだけど……この前の同窓会の時」
「ああ」
「同級生の一人が、あの時の様子を動画で撮ってたらしくて、俺にデータを送ってくれたんだ」
「動画?」
「ああ。ワインをかけられたシーンも、ステージの公開処刑も、全部映ってる」
ハミは息を飲んだ。証拠が残っている。
「その同級生は、ひどすぎるって怒ってて。もし必要なら使ってくれって」
「そうか」
「データ、お前にも送るよ」
「ああ、頼む」
ハミの声には強い決意が込められていた。これは私情だけではない。医療者としての正義のためでもある。患者を守るため、不正を許さないため。
「俺も協力する。証拠を集めよう」
「ああ、頼む」
それから数日後、ハミと白田は証拠を集め続けた。内部告発者からも資料を入手した。データ改ざんの記録、社内メールのやり取り、誇大広告の証拠。決定的な証拠が揃った。
そして、緑山製薬との契約の日がやってきた。ハミは二つの資料を鞄に入れた。一つは同窓会の動画。もう一つは緑山製薬の不正の証拠だ。深く息を吸い、ハミは緑山製薬の本社に向かった。
会議室に入ると、社長の無藤正隆が待っていた。
「桜場総合病院の副院長先生がいらっしゃるとのことで、お待ちしておりました」
その時、ドアが開き咲が入ってきた。咲は社長夫人であり、正隆の秘書にもなっていた。
「あら、副院長先生が……」
咲はハミの姿を見た瞬間、驚きで固まった。
「なんであなたがここに?」
「契約の話で来ました」
ハミは冷静に答えた。
「え? 今日は桜場総合病院との契約だったはずよね。あなたは、どこかの普通の会社の人でしょう」
「私が桜場総合病院の副院長ですから」
「な、なんですって」
咲は驚愕で言葉を失い、口をパクパクと開閉させている。
「何を驚いてるんですか? 高校の時言いましたよね。俺は医者になるって」
「はあ? だってあなた、同窓会では普通の会社員って……」
「ええ。普通の病院で働いている医師ですが」
咲は驚きを隠せず、凍りついた。そんなやり取りが行われる中、正隆が話に入ってきた。
「あなた方、知り合いなんですか?」
「ええ。高校の同級生です」
ハミは正隆に向き直った。
「改めまして、桜場総合病院副院長のハミです。よろしくお願いいたします」
「こ、こちらこそ、よろしくお願いいたします」
正隆は怪訝に思いながら、ハミを席に座らせた。咲は事態が飲み込めず、手が震えている。
「ところで、ご契約の前に確認したいことがあります。社長は、契約を交わす際に何を重視されますか?」
「そうですね。将来性と信頼関係でしょうか」
「信頼ですか? ハミは少し間を置いてから、スマートフォンを取り出した。お二人に、是非見てただきたいものがありまして」
「何でしょうか?」
ハミはスマートフォンを操作し、テーブルの上に置いた。画面には同窓会の動画が流れ始めた。咲がハミにワインをかけるシーン。公開処刑のシーン。母親を侮辱するシーン。全てがはっきりと映っている。
「これは、一体……」
正隆の顔が徐々に青ざめていく。
「先日の同窓会です。私は咲さんに、高校時代も、そして今も、侮辱されました」
「ちょっと、そんなの今する話じゃないでしょ」
「いえ、今だからこそです。これは私の同級生が撮影したものです」
「お前、こんなことしたのか?」
「違う。これは、これは……」
咲は何も言い返せなくなった。唇が震えている。
「社長の奥様がこのような言動をされる方では、私どもとしても信頼関係を築くことができません」
ハミはそう言うと、テーブルに置かれていた契約書をゆっくりと手に取った。そしてビリビリと、引き裂くような音を立てて破った。
「ちょ、ちょっと待ってください。大事な契約書を」
「申し訳ございません。今回の契約は見送らせていただきます」
「そんな。この契約は、うちにとって大事な契約なんです。考え直してください」
ハミは鞄から、別の資料を取り出した。
「考え直す必要はありません。この動画とは別に、もう一つ、貴社の不正についてお話があります」
「え?」
資料を手に取った正隆の顔が、みるみる青ざめていく。その手が震え始めた。
「不正? そんなの知らないわ」
咲が慌てた様子で反論してきた。
「臨床試験データの改ざん、誇大広告、安全性試験の不正、薬機法違反。これらの証拠を、私は入手しました」
「い、いや、待ってください。これは……」
「これらは全て、行政機関に告発させていただきます」
「ちょっと待って。お願い」
咲は顔が蒼白になって焦り、椅子から立ち上がる。
「証拠は揃っています。別の病院の証言もね。待ったは効きませんよ」
「そ、そんな……ごめんなさい。謝るわ」
咲は涙を流し始めた。
「高校の時も同窓会の時も、全部悪かったわ。だから許して」
ハミは立ち上がり、冷たい目で咲を見下ろした。
「何が一番許せないか、分かりますか? あなたは私の母を侮辱した。母は昼も夜も働いて、私を育ててくれた。その母を、あなたは笑いものにした。それにワインもかけられた。同窓会で大勢の前で侮辱された」
「ごめんなさい。ごめんなさい」
咲は額を床に擦りつける。
「私がどれだけ苦しんだか、母がどれだけ苦労したか、あなたは分かっていない。あなたは自分が困った時だけ謝っている。本当に反省などしていない」
「反省してる。本当に反省してる」
「いえ、あなたは一度も落ちたことがない。だから人の気持ちが分からない。だから、容赦しません」
正隆も立ち上がり、ハミに下げた。
「お願いします。その証拠は、待ってください」
「貴社の従業員の方々には同情します。ですが不正は正されるべきです。あなたがたは、自分たちの行いの報いを受けるべきです」
ハミは資料を持って、会議室を出た。背後で、咲が床に崩れ落ちて泣き続ける声が聞こえた。
桜場総合病院との契約が破談になった緑山製薬は、大量の在庫を抱えることになった。新たな納品先を探したが、なかなか見つからない。さらに既存の取引先も契約更新を断り始めた。緑山製薬の経営は急速に悪化していった。
数日後、ハミの病院に咲から電話がかかってきた。
「どうしてくれるのよ。うちの会社、大変なことになってるの」
電話口から咲の金切り声が聞こえる。
「それはあなたの行いの結果ですよね。申し訳ないですが、大事な会合がありますので」
ハミは一方的に電話を切った。
その後、ハミは行政機関に不正を告発した。マスコミにも情報を提供した。数日後、行政機関が緑山製薬に強制調査に入り、データ改ざんと薬機法違反が確定した。ニュースで大きく取り上げられた。
「緑山製薬、データ改ざんで告発。誇大広告で消費者を欺く」
咲と正隆の顔写真も報道された。緑山製薬には業務停止命令と役員の刑事告発が行われ、当然の如く取引先は全て撤退し、銀行も融資を打ち切られ、従業員の大半が解雇されることになった。だがハミは白田の協力で、従業員の再就職を支援した。白田の知り合いの製薬会社が、多くの従業員を受け入れてくれたのだ。
「従業員に罪はないからな」
「ああ。不正をしていたのは経営者だけだ」
こうして、ハミの復讐は完了された。
緑山製薬の不正が報道されてから、咲の生活は一変した。高級マンションは手放さなければならなくなった。これまで集めてきたブランド品を全て売却し、咲が手に入れた華やかな生活はあっという間に崩れ去った。咲と正隆は、質素なアパートに引っ越した。セレブ生活は完全に終わった。
「全部、お前のせいだ。お前がああしなければ、契約はすんなり進んだはずだ」
「私のせいじゃないわ。あの人が……」
「言い訳するな。お前が同窓会であんなことしたから、全てが狂ったんだ」
二人は毎日喧嘩をした。正隆は咲を攻め続け、咲は自分を正当化し続けた。怒鳴り声がアパートに響く。数週間後、咲と正隆は離婚した。慰謝料はなく、咲は実家に戻った。両親も失望し、咲は派遣社員として働き始めた。
同級生たちや咲の取り巻きたちも、咲の転落をニュースで知ることになった。同時にハミが医者だったこと、副院長まで務めていること、咲に同窓会で侮辱されていたことも知った。三人は自分たちの行いを悔い、ハミに連絡を取り、直接会って謝罪をした。喫茶店で三人は深々と頭を下げた。
「ハミ君、本当にごめんなさい」
「高校の時も同窓会でも、ひどいことした」
「咲に流されてたけど、それは言い訳にならない」
ハミは静かに頷いた。
「分かりました。きちんと謝罪してくれて、ありがとう」
一方、咲は最後まで反省しなかった。一度も落ちたことがなかったから、自分が悪いとは到底認められない。同級生たちや取り巻きたちも咲とは連絡を取らなくなり、咲は何がいけなかったのか気づかないまま、孤独になっていった。
桜場総合病院は経営順調で、ハミは患者から信頼される医師として日々を送っていた。ある日の診察室、高齢の患者がハミの手を握った。
「先生、本当にありがとうございました。先生のおかげで、また孫に会えます」
「いえ、当然のことをしただけです。これからも無理せず、ゆっくり過ごしてくださいね」
「先生は優しいですね。また来月見てもらえますか?」
「もちろんです。お待ちしています」
患者は涙を浮かべながら、深々と頭を下げた。ハミは患者を見送りながら、心から思った。医者になってよかった。
ハミの母は今も元気に暮らしていた。仕事はやめず、好きで働き続けている。ハミが建てた小さな家の庭には、母が育てた花が咲いていた。ある休日、二人はリビングでお茶を飲んだ。母が入れた温かいお茶の香りが、部屋に広がる。
「最近忙しいんでしょ?」
「まあね。でも充実してるよ」
「そう。よかった」
母は優しく微笑んだ。
「あなたがこんなに立派になって、お母さん幸せよ」
ハミは母の手を握った。小さくても、温かい手だった。
「母さん、今まで本当にありがとう」
「こちらこそ。あなたは私の誇りよ」
母の目に涙が浮かぶ。ハミも目頭が熱くなった。
「これからも元気でいてね」
「ええ、もちろん。あなたも無理しないでね」
二人は抱き合った。長い年月を経て、ようやくたどり着いた幸せだった。
その夜、ハミは白田と久しぶりに会った。いつもの居酒屋で、二人は向かい合って座った。
「お前、最近本当に幸せそうだな」
白田は嬉しそうに笑った。
「そうか?」
「ああ。昔のお前とは全然違う」
「白田のおかげだよ。あの時お前がいなかったら、俺は諦めてた」
「何言ってんだよ。お前の努力の結果だろう」
「いや。高校の時も今も、お前はずっと支えてくれた。本当にありがとな」
白田は照れたように笑った。白田とは、この先もずっと親友でいられるだろうと思った。
その夜、ハミは帰り道に夜空を見上げた。星が綺麗に輝いている。ハミの人生は決して平坦ではなかった。貧しさ、嘲笑、屈辱。数えきれない苦しみがあった。でも諦めなかった。母のため、自分のため、そして誰かの役に立つため。その思いがハミを支え続けた。
そして今、ハミは幸せだった。愛する母がいて、信頼できる親友がいて、自分を必要としてくれる患者たちがいる。ハミは心の底から思った。生きていてよかった。
