「結婚記念日の旅行はキャンセルしろ。」 三十年間、毎年欠かさず続けてきた私たちの大切な日。朝の食卓で、夫が箸を置いて言った。その目は、これまで見たことのないほど冷たかった。 「もう三十年もお前と暮らして、うんざりだ。」 「顔もしわしわで、ケツも地面につきそうだ。化け物みたいなお前を見てると虚しくなる。」 「今すぐ離婚してくれ。」…
「結婚日の旅行はキャンセルしておけ。」 妻のみよ子が、朝の食卓でそう言われたのは、三十年間欠かさず続けてきた結婚記念日の旅行を目前にした日のことだった。 「急な仕事でも入ったの?」 「いや、行く気分じゃないだけだ」 「新婚旅行でお世話になった旅館に、毎年欠かさず行ってたじゃない。あなた、いつもいやいやながらでも行ってたじゃない」 「お前と言っても楽しくないんだよ」 「それはこっちのセリフよ。いつもむすっと不機嫌なのはあなたでしょ」 「じゃあ、なんで毎年行きたがるんだよ」 「結婚前ってだけで、主婦にとっては魅力なのよ」 「じゃあ、一人で行け」 どうしちゃったのよ、とみよ子が言いかけたとき、夫の龍一は箸を置いた。顔を上げると、その目はこれまで見たことのないほど冷たかった。 「三十年もお前と暮らして、もううんざりしてるんだよ」 「え?」 「顔もしわしわで、ケツも地面につきそうなほど垂れてるし。何だ? 自分は二十代のままだって言いたいのか? 俺も年は取ったさ。でも、化け物みたいなお前を見てると虚しくなるんだ」 「ちょっと、言いすぎじゃないかしら」 「ずっと考えてたんだ。もうすぐ六十になるのに、このまま染みったれたばあさんと暮らすのは辛い」 みよ子は声を失った。彼がここまで残酷な言葉を口にしたことは、三十年間で一度もなかった。 「言いたい放題ね」 「老後も一緒とか無理だから、今すぐ離婚してくれ」 「はあ?」 「子供たちも育ったんだ。もういいだろ」 「この年で家を追い出されて、どうしろって言うの?」 「それは知らん。自分で考えろ」 「それはあまりにも無責任すぎない? 三十年もこの家や家族のために尽くしてきたのに、身一つで追い出すっていうの?」 「親父が亡くなったら、その時はいくらかくれてやる」 「なんて不謹慎なことを言うのよ。お父さんは施設で元気にやってらっしゃるのに」 「あのじいさんは、もうすぐあの世に行くだろう。施設に入ったら、どんどん体も脳も弱ると聞いた。あとは時間の問題だ」 「あなた、全く面会に行ってないでしょう。たまには顔を出してあげたらどうなの?」 「うるさい。変に顔を見せて元気になられちゃ困るんだよ」 「そんなこと。自分の子供に言われたら悲しいわ」 「成人するまで育てたら、親の役目は終わりだ。あとはお互い迷惑をかけずに生きていくのが筋だ」 「支え合って生きていくものだと、私は思うけどね」 「お前とは価値観まで違うな。やっぱり俺たちは離婚すべきだ。出ていってくれ」 みよ子は深く息を吸い、静かに言った。 「はい、わかりました」 「二度と連絡しないでくれ。貯金から半分はくわよ」 「だめだ。通帳も印鑑も隠してある。お前が持っていっていいのは、臭い服と今月の生活費だけだ」 「あんまりよ」 「子供たちには円満離婚だと言っておけ。俺の好感度が下がるのは困る」 「最低すぎて言葉もないわ」 「なんとでも言え。離婚が決まって最高の気分だ。さようなら」 みよ子は小さなキャリーケースに着替えを数枚と通帳のない財布を詰め込むと、古い一軒家を出た。雨は降っていなかったが、足取りは重かった。 一時間後、彼女は娘のあみに電話をかけていた。 「あみ、今日泊めてくれない?」 「お母さん、どうしたの?」 「ちょっと色々あってね」 「お父さんとお喧嘩でもした?」 「まあ、そんな感じ」 「泊まるのは全然いいんだけど、今日日本にいないんだよね。友達と韓国に来てるの」 「そうなの? 旅行中だったのね。ごめん、勝手に使ってほしいけど鍵も渡してないし」 「いいの。急に言った私が悪いんだから。今日はホテルにでも泊まるわ」 … Read more