昼時の休憩中、携帯が震えた。画面に妻の名前が表示され、私は一瞬ため息をついた。出張中は連絡するなとあれほど言ったのに。「もしもし、今は仕事中だぞ」と低い声で出ると、妻は静かに言った。「しばらく家を開けることになるわ。お父さんが倒れたらしいの。あなたが帰っても家にいないかもしれないから」私は苛立ちを隠さず返した。「勝手にやってくれ。染みったれた話で運が逃げるんだよ、仕事の邪魔をするな」。電話を…
妻からの電話は、昼時のわずかな休憩時間を縫ってかかってきた。健二は画面に表示された名前を見て、一瞬ため息をついた。出張中の連絡は一切するな。あれほど強く言い含めてあるのに、という苛立ちが先に立った。 「もしもし、今は仕事中だぞ。何の用だ」 「健二、しばらく家を開けることになるわ。もし出張が終わっても、すぐには帰れないかもしれないから。その時はよろしくね」 「は?どういうつもりだよ。俺は今、出張で必死にやってるんだぞ。それは分かってるよな」 「うん、もちろん。だからこそ、事前に連絡しておこうと思ったの。実はね、お父さんが倒れたらしいのよ。命に別状はないって母さんは言ってたけど、やっぱり心配だから、一度実家に帰るわ。あなたが帰ってきても家にいないかもしれないから、驚かせないようにと思って」 「そんなのは勝手にやってくれ。俺がたまたま携帯を触れたから良かったものの、LINEにでも残しておいてくれれば十分だったんだよ」 「それもそうね。でも、別にLINEに残しておくくらい問題ないはずよ。仕事中でも、後で見ればいいんだから」 「違うんだよ。そういうのが良くないんだ。染みったれた話のせいで、運が逃げる可能性があるからな」 「何それ?意味が分からないんだけど」 「仕事で成功するためには運も大事だろう。変なことをしてる場合じゃないんだ。俺は仕事に集中してる。そうやって実績を積むことで出世の道が切り開かれるんだ。お前には、そんな俺を支えてほしいんだよ」 「もちろん、必要なら何でもやるつもりよ。でもじゃあ、何?私は連絡をしなかったらいいわけ?出張中は一切連絡するなって、そういうこと?」 「出張っていうのはな、勝負の仕事なんだ。だからこそ、集中させてほしい。プライベートのことを仕事に持ち込みたくないんだよ」 「意味は分からないけど…まあ、それだけ仕事に本気だっていうことは伝わってくるわ。分かったわよ。そこまで言うなら、私も引き下がるわ。でも、後から文句を言うのはなしよ。私はしばらく帰れないかもしれないから、気にしないで」 「好きにやってくれ。俺は自分の信じた道を進むだけだからな」 「そう。じゃあ、今後はそうさせてもらうわ」 電話が切れた。健二は深く息を吐いて、気持ちを切り替えるようにスマホを机の上に置いた。そして、もう二度とこの日のことを考えないと決めたように、分厚い資料へと視線を落とした。 ――その10分後のことだった。 デスクに戻った健二のところへ、後輩の拓が声をかけてきた。 「先輩、ちょっとお願いがあるんですが」 「どうした?急に改まって」 「実は、しばらく家庭の事情で家を空けることになったんです。もし何かあったら、連絡先として頼れる人がいたらと思いまして。身近で一番仲がいいのは、先輩だなと思ったんです」 「ああ、なるほどね。いいよ。もし何かあったら、俺に言ってくれ」 「本当ですか?ありがとうございます。あ、でも、心配しなくて大丈夫です。命に関わるような話じゃないんで。父が庭先で足をひねって、年齢的に母一人に任せるのが不安で、少しの間だけ世話をしに帰るだけなんで」 「足をひねっただけか。それは大変だな。でも、何かあったら遠慮なく言ってくれよ」 「ありがとうございます。……そういえば、先輩、またお世話になろうかなと思ってるんですけど、奥さんから新玉ねぎを分けてもらったらしくて。よかったら食べに来ませんか?天ぷらとかサラダとか、たくさん作ってくれるみたいなんで」 「ああ、それなら、ちょっと後になりそうだ」 「あ、そうなんですか?お仕事が忙しいんですか?」 「いや、そういうわけじゃないんだ。今、家のことをやることになってて。妻がしばらく実家に帰ってるんだ」 「あ、そうだったんですか。それはお気の毒に。……でも、そういえば奥さんから聞いてませんでしたよ。てっきり一緒にご飯を食べに来れるものかと思ってました」 「ちっ、あいつ、そういうこと言ってなかったのか」 「え?」 「いや、なんでもない。気にすんな」 「はあ、そうですか。……あ、じゃあ、こうしませんか?今度、新玉ねぎを家に届けますよ。調理ができなくても、サラダとかにして食べられるんで」 「いや、それは大丈夫だ。あいつが事前に用意してくれてるから。……それより、俺が呼ばれてたのって、いつだ?」 「え?ああ、そうですね。連絡もなしに押しかけるのもあれなんで、段取りだけでもと思ったんですが。……でも、考えてみれば、先輩はお仕事が大事なお立場ですからね。そんな遊びの話で引き止めてしまって、申し訳ないことをしました」 「気にするなよ。お前がそう言ってくれると助かる」 「いえいえ。それに、奥さんが『拓さんは本当に仕事熱心で、尊敬しちゃいますよ』って言ってましたよ。私なんて、その足元にも及ばないですけどね」 「……そう言われてるんだ」 「はい。本当に、先輩はすごい人ですよ。私の憧れの先輩ですから。……じゃあ、お邪魔しました。また何かあったら、いつでも言ってくださいね」 少し話をして、拓は去っていった。健二は閉められたドアをしばらく見つめたあと、パソコンの画面へと意識を戻した。胸の奥で何かが引っかかるような、もやもやとした気持ちは、しかし、これ以上考えることではないと、頭を振って追いやった。 ――あれから一ヶ月。 仕事は順調だった。いや、順調すぎるほどだった。大きな契約もいくつか成立させ、上司からの評価も上がっている。部下からの信頼も厚い。健二はこの一ヶ月、一度も家庭のことを考えなかった。いや、考えないようにしていた。 そんなときだった。 携帯が震えた。画面には、妻からの着信履歴が十几件も積もっている。 「はあ、今度は何の用だ」 健二は舌打ちをして、コールに応じた。 「健二!ようやく出てくれた!お願い、どうして電話に出てくれなかったの?」 「今、仕事中だって言ってるだろ。何度言ったら分かるんだ。あれだけ連絡するなって言ったよな?」 「それは……ごめん。でも、本当に大変なことがあって。あなたにどうしても話しておかないといけないことがあるの。ちょっと今から時間、大丈夫?」 「何だよ。手短にしろ。これから大事な打ち合わせがあるんだ」 「……分かった。じゃあ、手短に言うわね。お願い、今すぐうちに帰ってきて。いても立ってもいられないの。このままじゃ、あなたのこと、嫌いになりそうなの」 「はあ?どういう意味だよ、一体」 「ああ、もう、うまく言えない!とにかく、帰ってきて!木刀でぶん殴ってやってもいいってくらい、腹が立ってるんだから!」 電話は一方的に切られた。健二は、しばらく無言のまま、切れた画面を見つめていた。 「……ふん、何を言い出すかと思えば」 … Read more