定休日の朝、いつも通り掃除の約束をしていたのに、ひ樹から「給料が入ったから今日はパスで」とLINEが来た。え、私一人で全部やれってこと?「若い職人にやらせればいい」「お前の仕事は楽だろ」——十五年、無休で働いてきた私の存在を、たった数行で否定された気がした。それでも私は店のためにと飲み込んだ。一時間後、店に一本の電話が鳴る。出た瞬間、背筋が凍った。受話器の向こうから聞こえたのは、忘れもしない…

「ひ樹、どこにいるの?今日は定休日でしょ。お店の清掃をやる約束だったじゃない。まさかもう店に行ってるの?」 「悪いな。ちょうど給料が入ったから今日はパスで。」 「え、ちょっと待って。私一人でやれって言うの?」 「若い職人が何人かいるだろ。あいつらに連絡してやらせておけばいいんだよ。」 「そんな急に呼べるわけないでしょ。一応休みってことになってるんだから。」 「休日出勤なんてこの業界じゃ常識だぞ。」 「それならあなただって働くべきじゃないの?」 「俺は毎日寿司を握ってるんだぞ。おかげで店は大人気だ。そんな俺に休みの日まで働けと言うのか。」 「私は十五年近く、無休で働き続けてるのよ。」 「それはお前の仕事が楽だからだ。接客と裏方だけだろ。簡単なもんだ。」 「そんなわけないでしょ。あなたは私の仕事を全然理解してないのね。」 「それはこっちのセリフだ。親父の潰れかけた店を立て直したのは俺だぞ。分かってるのか?」 「あなたもその一員だってことは分かってるわ。でも一員でしかないって自覚して。店はあなただけじゃない。私も含めて全員で立て直したんだから。」 「そんなわけあるか。俺以外が何人いても結果は変わらなかったさ。俺の味を求めて常連客がついてきてるんだ。」 「自信を持つのはいいけど、過剰になりすぎ。特に最近のあなたはね。」 「ようやく周りが俺を認めたんだ。これが当然のことなんだよ。」 「調子に乗りすぎないほうがいいわ。いつか足元をすくわれるから。」 「俺がそんなことになるわけがないだろ。なめるな。」 「お願いだから。お父さんが作ったお店の看板に泥を塗るようなことはしないで。」 「あんなやつはもうとっくに超えたよ。」 「それは大きな勘違いよ。」 「もう来ないのなら別に構わない。俺のことは放っておけ。」 「好きにしたらいいわ。でも、店の味を落とすようなことだけはしないでよ。」 「そんな真似をするわけがないだろう。」 一時間後、店の電話が鳴った。とみが出ると、懐かしい女性の声が聞こえてきた。 「とみさん、ちょっと予約を取りたいんだけど、いいかしら?」 「エリカさん、予約は公式ホームページからお取りいただけますって、前回もお伝えしましたよ。」 「だって、それだと取れないんだもん。あなたたちの店っていつも予約がいっぱいじゃない。」 「ありがたいことにそうなってます。ですが、直接私に連絡されても困ります。」 「だって、ひ樹がこのLINEで連絡すればいつでも予約を入れてやるって言ってくれたのよ。」 「ひ樹からそう言われてますが、あなたを入れるってことは他のお客様に迷惑がかかることになります。大学時代のお友達だったんですよね?」 「そうそう。とっても仲良しだったの。だから私の予約を断ったりしたら、ひ樹に怒られちゃうわよ。それでもいいの?」 「分かりました。今回は予約を入れておきます。ですが、これが最後だと思ってくださいね。」 「ええ、もちろん。これがきっと最後になると思うから。」 「そうなんですか。」 「うん。あなたにお願いするのは、これで最後よ。」 一週間後、とみは仕入れ先の前田に連絡をした。 「前田さん、お世話になっております。明日なんですけど、ご予約のお客様の中に白身魚がお好きな方がいるので、いつもより多めに仕入れさせてもらいたいのですが、大丈夫ですか?」 「そうだなあ。明日ならヒラメとかカンパチあたりを多めに入れられるよ。特にカンパチは旬だから、身が締まっていいと思う。」 「ありがとうございます。では、そのあたりを明日買い付けさせてもらいます。」 「分かった。すぐに出せるように準備しておくよ。いつもありがとうな。前田さんのところの魚はとにかく新鮮で、お客様たちからも評判です。」 「そこは自信を持ってやらせてもらってるよ。何せうちは歴史があるからな。漁師との繋がりもあるし。」 「本当にありがとうございます。でも、とみさんの店も繁盛してるって、俺のところまで噂が回ってくるよ。」 「本当ですか?正直、やっと黒字になったくらいですけど。」 「おお、そうか。ずっとあんたのところは大変だったからな。仙台の旦那は腕は一級品だったが、商売の才能はからっきしだったからな。」 「そのせいで、店が潰れかけたくらいですからね。でも本当に腕も人柄も素晴らしい人でした。私は今もお父さんの握ったお寿司が忘れられません。」 「それは俺も同じだ。あの人と一緒に仕事ができたことは誇りだった。でも、仙台の旦那が病気で倒れてから、ここまで立て直すとは思ってもみなかったよ。本当にあんたは腕のある女将さんだ。」 「いえ、私なんて大したことはありません。」 「旦那はどうしてるんだ?」 「一応、店には立ってくれてますけど、どんどん態度が横柄になっていきますね。周りからちやほやされて、調子に乗ってるようです。」 「まあ、そうなるだろうなとは思ってたよ。あんたも大変だな。」 「最初は真面目にお父さんの下で修行してたんですけど、どんどんおかしくなってます。問題が起こる前に対処したほうがいいですよ。じゃないと今度こそ店が潰れてしまうから。」 「そうですよね。なんとかしたいと思います。」 「まあ、あんたなら大丈夫だろうけどな。それじゃあ、明日よろしくな。」 「はい。よろしくお願いします。」 … Read more

20 September 2026

正月の昼下がり、玄関のチャイムも鳴らさずに息子の嫁が上がり込んできて、床の間に置いた重箱をいきなり抱え上げた。「あんな地味なおせち、誰が喜ぶのよ」そう言ったかと思うと、庭にぶちまけたんです。私は台所で手を止めて、ただ立ち尽くしました。そのおせちは予約が取れない名店のもので、夫が私の長年の願いを叶えようと内緒で用意してくれたものだったのに。「ちゃんと考えた上で捨てたわ」と笑う嫁に、私は何も言い…

「今年の正月、実家に帰ってきてあげてもいいわよ。」 「あら、結構です。」 「え?可愛い息子と嫁に会いたくないの?」 「言葉遣いも礼儀も知らない上に、味付けから家の面積まで何から何まで文句を言われるのはごめんだもの。」 「なんてひどい親なの。信じられない。」 直美は義母の言葉を鼻で笑い飛ばした。今年は直美の実家で過ごすはずだったが、両親がハワイへ行くと言い出し、置いて行かれたのだという。 「一緒に行けばよかったんじゃない?」 「置いて行かれたんだから、暇してるんでしょ?」 「そうなのよね。でも今年は夫と二人で静かに過ごすつもりなの。」 「年寄り二人だけじゃ新聞が寂しいだけじゃないの。若いうちがいて盛り上げてあげるからさ。」 「うちにミラーボールなんてないわよ。」 「そんなもん、いらないし。ふざけてないで、ちゃんと表装しなさいよ。」 「そう言われても急には無理よ。」 「とりあえず条件だけ言っておくわ。私、寒いのは絶対無理だから、暖房ガンガンでよろしく。貸し布団もいいやつを置いておいてね。」 「あの古い布団は不潔だから、新品を買っておいて。」 「それから、料理はこだわってよ。松坂牛と特大のズワイガニはマストだから。分かった?」 「やった。じゃあ、まとめて請求書を送ればいいのよね?」 「はあ?なんでうちが払うのよ。」 「だって、それだけ揃えるお金なんてうちにはないもの。」 「貧乏すぎるでしょ。若くて最先端を生きてる私たちと触れ合えるんだから、そのくらい投資だと思って頑張りなさいよ。」 「投資先くらい自分たちで決めたいわ。」 「蒼太もたまには親孝行したいって言ってるのよ。息子の気持ちを無駄にする気?」 「まあ、息子が帰りたいって言うなら仕方ないけど、できればやめてほしいわね。」 「なんてひどい親なの。夫に言いつけてやる。」 数日後、蒼太から電話がかかってきた。 「母さん、直美から聞いたぞ。帰ってやるって言ってるのに、なんで断るんだよ。」 「直美さんの要求がひどすぎるからよ。」 「直美は実家が金持ちなんだから、少しはあっちのレベルに合わせろよ。」 「でも松坂牛に新品の布団なんて、うちにそんな余裕はないもの。」 「出し惜しみすんなよ。将来、俺たちに介護してもらうんだろう?直美に見捨てられたら知らねえぞ。」 「いつ誰があなたたちに介護を頼んだの?」 「そうやって強がってられるのも今のうちだけだぞ。いずれ泣きついてくるのは目に見えてるんだからな。」 「あなたも結婚して変わったわね。そんなことを言う子じゃなかったのに。」 「嫁の機嫌が一番いいのが一番だって、母さんが昔言ったんだぞ。」 「まあ確かにそうだけど。」 「だったら奮発してくれよ。」 「私は毎年、お父さんの好きなものだけを手作りしてるでしょ。それでいいじゃない。」 「そんな安物で満足するわけないだろう。とにかく直美の機嫌を損ねないでくれ。」 「親なら息子の幸せを一番に考えろよな。」 「あなたの幸せって、親に無理をさせることなの?」 「長年暮らしてきたんだから、へそくりの一つや二つあるだろう。」 「そんなものがあれば、もっと贅沢してるわ。」 「借金でもして、ちゃんと稼いでくれ。」 「…お父さんと相談してみるわ。」 翌日、今度は蒼太が直接家にやってきた。 「親父、正月に帰る前に確認したいんだが、和室の金庫ってまだあるよな?」 「あるけど、それがどうした?」 「暗証番号を教えてくれよ。」 「はあ?」 「今年から金の話で揉めたくないから、先に言っておくが、生前贈与してほしいんだ。」 「勝手なことを言うな。」 「俺、知ってんだぜ。母さんに黙って、あの中にへそくりを隠してることはよ。」 「だったらなんだ。お前には関係ない話だろ。」 「どっちみち全部、俺が相続するんだから、だったら今のうちに前渡ししても同じだろ。」 「俺が働いて、俺が貯めた金だ。」 … Read more

20 September 2026

「ねえ、たケイ、今どこにいるの?本来止まるはずだったホテルの近くに来てるんだけど、受付で名前を伝えたら、泊まってないって言われたんだけど。」結婚式当日、私は一人で海外のホテルのロビーに立っていた。仕事の都合で別便になった彼は、まだ国内にいるはずだった。なのに電話越しに聞こえたのは、「今日の結婚式、親と温泉に行くことになってリスケしてくれないかな」という言葉。嘘でしょ?ゲストはもう全員来てるん…

「ねえ、たケイ、今どこにいるの?本来止まるはずだったホテルの近くに来てるんだけど、受付で名前を伝えたら、泊まってないって言われたんだけど。」 「ああ、ごめん。それなんだけどさ、今日の結婚式の件だけど、親と温泉に行くことになってリスケしてくれないかな。」 「は?ちょっと待って。今日、結婚式なんだけど。」 「いや、母さんが急に温泉行きたいって言い出してさ。せっかくだから親孝行しておこうと思って。」 「せっかくって、意味が分からないんだけど。仕事で一緒の便に乗れないからって、私が先に来たのに。あなた、まだこっちに来てないの?」 「来てない。まだ国内にいる。」 「信じられない。私を騙したってこと?」 「騙してないってば。ただリスケしようとしてるだけだって。」 「リスケって、来月とかでいいんじゃない?適当に調整しといてよ。」 「ふざけないでよ。そんな簡単にできるわけないじゃない。たケイ、お願いだから今からでも来て。今ならまだなんとかなるかもしれないし。」 「え、無理無理。もう温泉入っちゃったし。個室に露天風呂が付いてるんだけど、これがすごく良くてさ。」 「そんな自慢、聞いてないんだけど。」 「なんでそんなに怒ってるの?落ち着けって。リスケなんて、いろんな場面であるだろう。会議とか面談とかさ。」 「それと結婚式を一緒にしないでくれない?」 「なら、明日の便で必ず来て。」 「明日?明日も観光する予定だし、無理だって。ていうか、みはしつこくない?」 「しつこいって…。これ、私たちの結婚式なんだけど。」 「だから来月やればいいじゃん。なんでそんなに切れてるの?俺の知り合いだって、結婚式がリスケになったことあったって言ってたし。母さんも昔はドタキャンなんてよくあったって言ってたよ。昔と違って今の人は我慢が足りないとか言われるけど、こういう時に焦るのは良くないぞ。」 「ふざけないでよ。何なの?とにかく来てよ。」 「無理。」 「じゃあ、温泉楽しんでくるわ。」 「待って。それならせめて、みんなにちゃんと説明して。ゲストはもうこっちに来てくれてるのよ。」 「ああ、そうか。まあ、なら体調不良とかって言っとけばいいんじゃない?」 「体調不良?あなた、今温泉にいるんだよね。」 「細かいことはいいんだよ。どうせみんな納得するだろう。」 「私たちの結婚式なのに、あなたはそんな適当でいいの?」 「みは真面目すぎ。もっと柔軟に考えろよ。式なんていつやっても同じだし。」 「ふざけないでよ。嫌なら結婚の話もなしにしてもいいんだぞ。けど、そうなって困るのはお前の方じゃん。」 「何ですって?」 「俺の家は裕福だから、最悪、金目当ての女なんていくらでもいるんだぞ。でもお前は一般家庭だし、そこまで自分で稼いでるわけでもないよな。ていうかさ、海外挙式ってやっぱ無駄だよ。今思ったけど、こんな金かけるなら国内で安く済ませればよかったわ。」 「無駄?豪華な海外挙式をやりたいって言ったのは、そっちじゃなかった?」 「ああ、それ、母さんが言ってたんだよね。母さんが海外挙式なら見栄えがいいって言うからさ。でもやっぱ金の無駄だわ。母さんも国内がいいって。」 「お母さんが言ったから?」 「そうだよ。母さんの意見だし。まあ、来月は国内で安く済ませようぜ。その方が現実的だし。」 「ねえ、待ってよ。初耳だわ。金の無駄って、私のことそんなに気にしてたの?」 「そりゃそうだろう。お互いの親に支援してもらってるんだから。」 「もらっておいて、ドタキャンするって頭おかしくない?」 「ドタキャンじゃなくてリスケだってば。全然意味が違うだろ。」 「とにかく式は延期だ。変な勘違いを起こすなよ。全く。」 その三十分後。 「み、大丈夫?たケイ、本当に来なかったんだね。」 「うん。信じられない。」 「でも、これで確信が持てたでしょ。」 「そうだね。ありがとう。」 「あら、予定通りお願いできる?」 「大丈夫だよ。それより無理してない?」 「無理はしてるかな。これから色々あるし。あいつからまたLINEが来てるから、ちょっと話してくる。」 「無理しないでね。何かあったらすぐ言ってよ。私はあなたの味方なんだから。」 同時刻。 「あ、み?やばい、大事な話をするの忘れてたわ。」 「大事な話?」 「そうね。しないといけない話はたくさんあるわ。」 「分かってるじゃん。やっぱりちゃんと話さないとな。来月の式のこと。」 「はい。」 「来月どこでやろうかとかは、また決めるだろう。今度はちゃんと俺の意見も聞けよ。」 … Read more

20 September 2026

母さん、俺、ナミと結婚することになったんだ——そう伝えた瞬間、母は「え、そうなの?」と少しだけ目を細めた。東京の小さなマンションで、二人分のお茶を入れる音だけがやけに響いた。父が亡くなってから、母は女手一つで俺を大学まで出してくれた。その母に、俺は一つだけお願いをした。「母さんの仕事の話は、なしにしてもらっていい?聞かれても、適当にごまかしといてくれないか」。母は「いいのよ、そんなこと」と笑…

母さん、俺、ナミと結婚することになったんだ。 え、そうなの? ああ、昨日プロポーズしたんだ。ナミも受けてくれて、婚約したよ。 へえ、そうなんだ。あなたが結婚するなんてね。なんだか変な感じだわ。私の中じゃ、ついこの間までランドセル背負ってたんだから。 いや、さすがにそれはないって。俺との思い出がまるでないみたいじゃないか。 そんなことないわよ。でも、それだけあっという間だったってことね。 まあ、本当に怒涛の日々だったからな。 うん、そうね。お父さんも天国で喜んでくれてると思うわ。 そうだといいんだけどな。 絶対にそうよ。あの人は息子の幸せを自分のことみたいに喜べる人だったから。 それで、両家の顔合わせとかもしないといけないんだけど。 そうね。ちゃんとした服を買っておかなくちゃね。 母さんなら山ほど持ってるだろ。 だめよ。あなたに恥をかかせないように、ちゃんとした格好をしないとね。 それで、ひとつお願いがあるんだけど。 何? 母さんの仕事の話は、なしにしてもらっていい?聞かれても、適当にごまかしといてくれないか。やっぱり、母さんの仕事が知られるのは嫌なんだ。 ごめんな。俺のしょうもないプライドのせいで。 いいのよ、そんなこと。 いや、母さんが悪いわけじゃないんだよ。ただ、俺がずっと隠してきたことだから。 私のことは、ナミさんも知らないのよね。 ああ、まだ話してない。でも、そのうち話さないといけないとは思ってる。 そうね。奥さんになるんだから、ちゃんと話したほうがいいわ。 それともう一つ、話しておきたいことがあるんだ。 何? 向こうの家って、ナミしか子供がいないんだって。うちと一緒だな。でも、なんか血筋とかそういうのを気にしてるみたいで、結婚するなら養子縁組しないとダメなんだ。 ああ、そういうこと。 まだ正式に向こうの両親から言われたわけじゃないんだ。でも、ナミは小さい頃からそう言われて育ったらしい。 だから、多分、養子になるかどうかは聞かれると思う。母さん的に、それはどうかな? 私は全然気にしてないわよ。苗字がどうなろうと、あなたはあなたで、私の大事な息子よ。それが変わらないなら、他はどうでもいいわ。それよりも、あなたが幸せになれないほうが嫌よ。 本当か? ええ。だから、あなたがナミさんと一緒になれるなら、養子でも何でも気にしないからね。 ありがとう。息子らしいことは、何一つできなかったけど。 あら、もう息子をやめるつもりなの?それは困ったわね。 違うよ。後継ぎとか、そういう話だよ。 そんなこと、あなたが考えることじゃないわ。私のことなんて気にせず、幸せになりなさい。それが私の一番の望みだから。 ありがとう。本当に、母さんの息子でよかったよ。 今度、ナミさんも連れてきて、一緒にご飯でも食べましょう。 ああ、必ず連れてくるよ。 二週間後、顔合わせの日。ナミの母、日高美穂が現れた。 初めまして。ナミの母の日高美穂です。 どうも、初めまして。ヨシの母の立花トコです。 いきなりの連絡、ごめんなさいね。 いえいえ、全然気にしないでください。ヨシから、私に話があると聞きましたけど、何でしょうか? いいえ。まずは、養子縁組を受け入れてくれたことへの感謝をお伝えしたくて。 ああ、そのことですか。お気遣いありがとうございます。ただ、こちらとしては全く問題ありませんでしたので、わざわざお礼なんて、良いのに。 ごめんなさいね。うちって、それなりの名家でね。この血筋を絶やすのは良くないって、姑から口酸っぱく言われてたんですよ。 そうだったんですか。 でも、本当にヨシ君って素晴らしい人ですよね。有名大学に進学して、今は大手商社の営業マンですから。こんな素晴らしい人が、ウチに来てくれるなんて、本当に嬉しいんですよ。 ありがとうございます。少し頭でっかちなところもありますが、性格は優しい子なので。 そういえば、ナミさんも同じ大学を卒業されてるんですよね。二人は大学のゼミで知り合って、仲良くなったと言ってましたよ。 そう、そう。うちの家系って、みんな名門出身者ばかりなんですよ。私も関西の方の大学を卒業して…。 ええ、立派な方たちばかりで。ナミにもその辺は厳しく言って、しっかり勉強させたので、無事に有名大学に進学してくれてよかったですよ。少しだけ、肩の荷が下りた感じがしてたんです。 色々と重圧があるんですね。 そうなんです。あとは結婚だなって思ってたんですけど、まさかあんな素晴らしい人を連れてきてくれるなんて、もう本当に嬉しかったんですよ。 … Read more

20 September 2026

「はあ、そのことかよ。焦って損したわ」——仕事中に母から何度も着信が入り、緊急事態だと言うから慌てて出れば、泥棒に入られて俺の部屋が荒らされただけだった。母が震える声で言う。「あの人の形見の指輪まで盗られたのよ」。俺は思わず笑った。だって犯人は俺と嫁のミカだからだ。「ミカがブランドのバッグ欲しがっててさ、金がないから母さんの部屋のものを売ればって言ったんだよ」。母は絶句し、やがて絞り出すよう…

母さんからの着信が仕事中に何度も入ってきて、俺はイライラしながら電話を取った。緊急事態だと言うから、何事かと思えば泥棒が入ったらしい。俺の部屋が荒らされて、服やアクセサリーが盗まれた。あの人の形見の指輪まで。 「はあ、そのことかよ。焦って損したわ」 「え? どういうこと? シ太、あなた何か知ってるの?」 「ミカがブランドのバッグ欲しがっててさ。金がないから、母さんの部屋のものを売って買えばって言ったんだよ。もう売ってバッグになったんだろう。母さんがパートに行ってる間に」 「嘘でしょ? あれは私とお父さんの思い出の指輪だったのよ」 「思い出で飯が食えるか。むしろ感謝してほしいわ。断捨離だよ。古臭いゴミを持っててもしょうがないだろ。部屋も片付いて、嫁も喜んで、SDGsってやつだな」 「あなたって子は一体どこまで……これは窃盗犯罪よ」 「はいはい。そうですね。警察に行けば捕まるのよ。行く気もないくせに」 「お母さんはお父さんの遺体に言ったのよ。これからはお父さんの分も自分がシ太を見守るって。見守ってる息子が警察のお世話になるとか、お父さんもあの世で泣くわ」 「母さんの不憫さに親父も泣くよ。でも黙ってろよ。こと言うしか能がないんだから」 「こと言うだけのバカに支えられてるのは誰? あなたたちの借金含めて、毎月50万払ってるのは私よ」 「そうだな、ご苦労さん」 「ご苦労さんって……あなたたちのせいで払ってるのよ。泣きつくから仕方なく払ってるのに」 「だから支えてもらってる側がそれかよ。LINEもうるさいし、ババアだな。来月で借金返済は終わりだろ。ならもういいじゃん」 「そういう問題じゃないでしょ」 「そんなに嫌なら家から出てけば。この家は親父が残したんだから、すぐに俺のもんになるんだ。借金返済が終わったらもう用済みだし」 「もういいわ。話にならない。出ていくわ。少しの間、親戚の家にでも止まります。今あなたたちと顔を合わせたら手が出そうですから」 「ババアのへなちょこパンチとか怖くないわ。ま、その間は広々使わせてもらいます」 「二度と帰ってこなくてもいいからね」 数日後、母さんが親戚の家から戻ってきた。俺は頭を下げた。 「母さん、この間はごめん」 「は? シ太が私に謝罪? 明日は空から槍でも降ってくるの?」 「かするなよ。母さんが親戚の家に行ってからさ、俺たちも反省したんだ。ミカもさすがに親父の形見を売ったのはやりすぎだったって。母さんが怒ったのも無理ない」 「それで、謝って終わりにする気? お父さんの形見はもう帰ってこないのよ」 「分かってる。けど、このままってのも後味悪いだろう。だから罪滅ぼしをさせてほしい。母さんの将来のことをミカと真剣に話し合ったんだ。母さん、もうそろそろ限界だろ。働きながら家のことも全部やって、家も無駄に広いし。母さん、施設に入ったらいいんじゃないか」 「は? 施設? 私はまだ病気もないし、健康なのよ」 「そういう人の方が危ないんだって。いつも元気だったのに、急に……っていう話はよく聞くだろ。これから先、介護が必要になるかもしれない。素人がやるよりプロに任せた方がいい」 「だとしても早すぎるでしょう。いずれ入るにしても、今じゃなくてもいいはずよ」 「俺は母さんが心配なんだ。この提案だって母さんのためにしてるんだぞ」 「単純に私を家から追い出したいだけでしょ」 「そんなわけあるか。今まで母さんには迷惑かけたから、だからこそ今のうちに親孝行がしたいんだ」 「じゃあ、その施設代はどこから出るの?」 「それは母さんだろう。親孝行なのに私が払うの?」 「その代わり、施設を見つけたり手続きはこっちでやる。ほら、親父の親友だった健一さん、覚えてるか? 不動産を経営してる。その健一さんが、うちを売るのを手伝ってくれるんだ。土地や家込みで1億以上の値がつくって」 「ああ、そういうこと。つまり、お金が欲しいってことね」 「違う、俺は母さんを心配してるだけだ」 「家の名義人は母さんなんだから、金は母さんのものだろう。健一さんなら信用できるわ。分かりました。少し考える時間をちょうだい」 「了解。前向きに検討してくれよ。あ、そうそう、ミカが仲直りに三人で食事したいってさ」 「それも検討しておくわ」 数日後、母さんから連絡があった。 「母さん、施設と家の件だけど、そろそろ前向きな答えが決まった?」 「まだ考えてるわ。というか、どうして前向きな答え限定なの?」 「いや、限定ってことじゃないけど、いくら何でも時間かけすぎだろう」 「まだ数日よ。人生の一大事を決めるんだから、短いわよ」 「急いだ方がいいんだって。健一さんが言ってたんだけど、早めに売らないと家の価値が下がるんだって」 … Read more

20 September 2026

母から一本の電話が来た。「軽井沢の別荘、あんたに譲るわ」。長年、認知症の義父母の介護を一手に引き受けてきた私への、ようやくの報いだった。その夜、妻の佳代子が不安そうに言った。「ねえ、二人で老後を過ごす約束でしょ?」私は鼻で笑った。「約束?あれは考えてただけだ。お前はもう不要なんだよ」。翌日、母に呼び出され、鬼のような形相で詰められた。「佳代子さんを捨てるなんて、あんた正気か」。それでも私は取…

健二は、母から届いた一本の電話で浮かれていた。長年介護を続けてきた母たちが、その労いに応えて軽井沢の別荘を譲ってくれるという。十八年もの間、誰よりも尽くしてきたのは自分だという自負があった。この機会に、自分もようやく自由になれる。そんな思いが頭の中を支配していた。 「ねえ、健二。私、あなたと離婚するつもりはないわよ。二人でゆっくり老後を過ごそうって約束したでしょ」 妻の佳代子が、不安そうな顔で問いかけた。しかし健二は、鼻で笑うように答えた。 「約束? ああ、そんなことも言ったな。でも俺は考えてただけだ。必ずそうするとは言ってないだろう」 「だって、お義母さんたちだって、そのために別荘をくれるんじゃないの」 「だから何だって言うんだ。俺は一人でやっていける。お前はもう不要なんだよ」 健二の言葉は、容赦なかった。佳代子の顔色が、見る見るうちに曇っていく。 「ちょっと待ってよ。今までずっと一緒にやってきたじゃない。約束を守ってくれるって信じてたのに」 「約束? よく言うよ。お前、自分の顔、鏡で見たことあるか? 介護とパートの疲れで、まるで老婆だぞ。一緒に歩くのも恥ずかしいんだよ。俺は今もバリバリのビジネスマンだ。お前とは釣り合わないんだよ」 健二は、佳代子が必死に言葉を紡ぐのを遮り、一方的に離婚を突きつけた。佳代子が何か言いかけるのを、彼は無視して立ち上がった。 「そういうことだから、出ていけ。十八年間、ご苦労さんだったな」 佳代子は、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。 翌日、健二は昼休憩中に、母から呼び出された。母は鬼のような形相で、息子を睨みつけた。 「健二、これはどういうことだ。佳代子さんと離婚するんだって?」 「母さんには関係ないだろ。これは俺たち夫婦の問題だ」 「あんた、正気か? 十八年間、佳代子さんにどれだけ苦労をかけてきたと思ってるんだ。親の介護を全部押し付けて、挙げ句に追い出すような離婚とは、あんまりだぞ」 「苦労をかけたのは母さんたちだろう。俺じゃない。介護が必要になったのは、俺のせいじゃないんだからな」 「よくもそんな白々しいことが言えるな。介護は本来、子供のするものだろう。佳代子さんは、あんたの代わりにやってくれていたんだぞ」 「嫁が夫の代わりにやるのは当然だろう。何の問題があるんだよ」 母は、息子の心がすっかり冷め切っていることを悟った。そして、佳代子のことを想い、深い悲しみに暮れた。それでも健二は、母の言葉を聞こうとはしなかった。 「それより母さん、軽井沢の別荘のことだが、約束は確かだな。生前贈与で俺に譲ってくれるんだろう?」 「ああ、確かに言ったわ。名義は、あんたにするつもりだった」 「ならいいんだ。佳代子がいなくても、俺はやっていける。今度、連れてくる人間がいるんだ。楽しみにしていてくれ」 母は、その言葉に何も答えられなかった。ただ、呆れたように、そして悲しそうに、息子の顔を見つめていた。 数日後、健二は役所で離婚届を提出した。佳代子は、最後に一つだけ確認したいことがあると言った。 「覚えてる? 私がまだ介護に慣れてなかった頃、お母さんを怪我させちゃったことがあったでしょ。親戚中が騒いで、私を責めたの。あの時、健二は言ってくれたよね。『俺の嫁に文句があるなら、俺に言え』って」 「ああ、そんなこともあったな」 佳代子の目に、うっすらと涙が浮かぶ。 「あの言葉が、本当に嬉しかった。あれ以来、親戚の人たちも何も言わなくなったし、私ももっと頑張ろうって思えた。そして、あなたが言ってくれた老後の約束。その二つを頼りに、私は十八年間、辛くても頑張ってこられたんだよ」 健二は、面倒くさそうに答えた。 「ああ、あれか。そうだな。あの時は本心だったさ。でも、あれからもう十年以上経つんだぞ。俺はいろんな経験をして、気づいたんだ。お前みたいな老婆と一緒にいるのは、人生の損失だってな」 「損失? 時間の無駄って言うの?」 「そうだよ。お前はもう、賞味期限が切れたゴミなんだよ」 佳代子は、一瞬だけ悲しそうな顔をしたが、すぐにフッと笑った。 「なるほどね。よくわかったわ。あなたの本心が聞けて、良かった。これで私も、未来を生きられるわ」 「納得できたなら、良かったんじゃないか」 「でも、少し寂しいわね。私には、あなたの同僚の佐藤さん夫婦みたいに、将来を語り合う時間がもうないんだなって」 「佐藤? ああ、あいつのことか。そんな未来は、もう来ないぞ。じゃあな」 健二は、それだけ言って、佳代子の前から姿を消した。二度と連絡をしてくるな、という言葉だけを残して。 それから二週間後、健二は引っ越しの準備で忙しくしていた。軽井沢の別荘に行くための家具や家電を次々と注文し、新しい人生に胸を膨らませていた。そこへ、佳代子から一本の電話が入った。 「大事な話があるの」 「あ? 二度と連絡してくんなって言っただろう。俺は今、引っ越しで忙しいんだよ」 「そう。引っ越し、おめでとう。それでね、健二。あなたに慰謝料を請求します」 「はあ? 慰謝料? 俺たちは円満に離婚しただろうが」 「あれを円満だと言うなら、世の中は円満離婚だらけよ。それに、あなたは爪が甘いのよ」 … Read more

20 September 2026

「お母さん、その住所、河川敷ですよ」——そう言った瞬間、義母は「低学歴は住所も読めないの?」と鼻で笑った。三ヶ月前から夫と義両親が私たちのタワマンに引っ越してくるはずだった。でも夫からは何も聞かされていなかった。「F大卒の低学歴嫁に伝える必要ない」と義母は言った。私は年収一億超えのコスメ会社社長なのに、夫は「俺が養ってる」と嘘をつき続けていた。しかも私たちは先月離婚していた。それなのに義両親…

「はるかさん、明日から私と夫は息子と一緒に暮らすわ」 「はあ、そうですか。お母さんたちは物好きなんですね」 「うちの旦那が部屋を開けておけってさ」 「部屋は……うん、まあ、開いてると思いますよ」 「何その反応?」 「そう言われましても……達也とクラスって本気ですか?」 「本気も本気よ。実は前々から思ってたのよね」 「思ってた? 同居ですか?」 「息子の稼ぎでいい生活してるあんたが許せないって」 「え、あ、そっちですか? というか、私が達也の稼ぎでいい暮らしをしてるんでしょ」 「私、知ってるんだからね」 「知ってるって……達也がよく愚痴ってたんですか?」 「あんたは稼ぎも低いくせに、家のこともしないダメ嫁だって。達也が」 「うー……そうなんですね」 「そうなんです。それにね、お父さんの同僚の山田さんね」 「山田さん? 誰ですか?」 「その人が早期退職するの」 「それはおめでとうございます」 「おめでたくないわよ。息子夫婦と同居するんですって」 「それで?」 「そう、達也やちゃんは有名大学卒で大企業勤めのエリート。山田さんとこの息子よりも顔も稼ぎも上よ」 「顔は関係ないんじゃないですか」 「あそこの息子夫婦にできるなら、達也やちゃんにもできる。お父さんも最近は年で仕事が辛いって言ってたしね」 「だといいですね」 「ん? あれ、ってことは達也は知ってたんですか? 同居のこと」 「当然でしょ。三ヶ月前に伝えて承諾を得てるわ」 「三ヶ月前……ああ。ふーん。そういうこと」 「何? 何の納得それ?」 「こっちの話です。ていうか、私は何も聞いてませんよ」 「F大卒の低学歴嫁に伝えるわけないでしょう」 「学歴って関係あります?」 「達也やちゃんに養われてるだけの嫁に言う必要ないってこと。相変わらずの学歴至上主義、痛み入ります」 「ってことで、明日から私と夫も暮らす。息子の家だし当然よね」 「それは別にお好きにどうぞ。ところでお母さん」 「何よ?」 「お母さんって虫とか平気ですか?」 「は? 虫? だけど」 「なら虫除けスプレーは忘れずに」 「タワマンの最上階でしょ。虫なんて入ってこないわよ」 「ああ、というか住所、知ってます?」 「知ってるわよ。引っ越し祝いで行ったことあるじゃない」 「じゃあ改めて送っておきますね。ご確認をお忘れなく。それじゃあ、いい休日を」 その日の昼過ぎ、義母から電話がかかってきた。 「お母さんすみません。お昼の時、伝え忘れたことがあって」 「何よ、はるかさん。こっちは引っ越し作業で忙しいのよ」 「引っ越しですよね。細かい荷物をまとめてるの」 「それで、伝え忘れたことって何?」 … Read more

20 September 2026

食卓を囲む家族の団らん、その真っただ中で私は店の外に締め出されていた。受付の女性が申し訳なさそうに「お名前が予約リストにございません」と言った瞬間、背中が凍りついた。母に電話をかけると、信じられない言葉が返ってきた。「あんたの席なんて予約してないわよ。他人は水道水で十分でしょ」。え、他人? 私はあなたの娘よ?…

お母さん、すみません。ちょっと困ったことになってしまって。 あらあら。今日は家族での食事会だというのに。何があったの? こっちはもう店に入って注文をしているところよ。 すみません。私も今来たばかりなんです。仕事が立て込んでしまって。 そうなの? それで? 店に入ろうとしたんですけど、予約リストの中に私の名前がないと言われてしまって。 ああ、それで? お母さんの方から受付に説明してもらえませんか? お母さんが予約をしてくれたんですよね。 私じゃなくて、元々は部長さんが予約を取っていたのよ。でも急に行けなくなったから、部長さんが代わりにこのレストランを提案してくれたの。本来の店は予約なんてできないから。 そうなんですか。 あなたは本当に何も知らないのね。ここのオーナーは本場フランスで腕を振るったすごい料理人だったの。その人が日本に帰国して店を出すってなったから、ものすごく人気なのよ。味も確かで三つ星を獲得しているんだから、普通に予約を取ったら三年待ちなのよ。 そんな店を部長さんはどうして私たちに? あの子が営業部のエースで、部長さんにとっても気に入られているからよ。それで私たちも美味しいご飯を食べられる貴重な機会をいただいたってわけ。今日は三年待ちの三つ星レストランで家族で食事って、楽しみにしていたのよ。 それなのに、あなたは遅れてきて。 すみません。でも私の予約がされていないと言うんです。どうにかできませんか? 私にできるわけないでしょ。 すみません。お母さんが予約をしてくれたと勘違いしていました。もうそちらにいますよね。 だったら何よ? 渡に受付に来るように言ってもらえますか? どうして私があなたの伝言役をしないといけないの? それくらい自分でやりなさいよ。 どうしてそんなに突っかかってくるんですか? 同じテーブルにいるんだから、声をかけるくらい。 私はあんたの命令なんて聞く理由がないと言っているの。 命令とかじゃないですよ。 とにかく自分でなんとかしなさいよ。 わかりました。 三分後。 渡、ちょっと話があるんだけどいい? なんだよ。 お店に入ったら私の予約がされていないみたいなの。だから今から受付に来て話をしてくれないかしら。多分、手続き上のミスだと思うから。 いや、ミスとかじゃないだろう。ここの店は味はもちろん、ホスピタリティも完璧なんだ。何か不備があるとか、そういうのはないと思うぞ。 でも実際に私の分の予約がされていないの。 そりゃそうだろ。 え? お前の席は予約していない。他人は水道水で十分だ。 何を言っているの? 他人? そうだよ。今日は家族での食事会だ。実際に部長は二人分しか予約していなかったからな。となると利用するのは俺と母さんだけ。そもそもお前の分の席なんてなかったんだよ。 ねえ、どういうこと? お母さんがフレンチに行くと言ってくれたのよ。なのに予約を取っていないなんて。 お前、今日は車で来ているだろう。 ええ、私は今日はお酒を飲むから運転ができないの。だからちゃんと今日はここまで電車で来ているわ。 お前は俺たちの家までの送り要因だよ。つまり、あっしだってわけだ。 それ、本気で言っているの? 当たり前だ。俺たちの食事が終わるまで、近くの公園で水道水でも飲んで時間を潰しておけ。 信じられない。どうしてそんなことをするのよ。最近のあなたは変よ。結婚するまではとっても優しかったのに。結婚してから、お母さんと二人で私に対して厳しく当たってくるの。どうしてそんなことをするのよ。 俺は大手企業のエース営業マンだぞ。こんな俺と結婚できるだけでもすごいことだろ。最近、そのことへの感謝がないと思っていてな。ちゃんと自分の立場をわきまえさせないといけないと思ったんだ。 何それ? 意味がわからない。 お前にとって俺がどれだけ偉大な存在かを理解しろと言っているんだよ。俺ほどの男と一緒になるチャンスは、そうそうないぞ。 それ、自分で言ってて恥ずかしくないの? 本当のことだから仕方ないだろ。 … Read more

20 September 2026

「俺、優の成人式には行かないから。」——妻が皿を洗う手を止めて振り返った。信じられないものを見る目だった。優香はもうすぐ二十歳。家族写真もこれが最後かもしれないから、ちゃんと記念に撮りたいと、妻は言っていた。なのに俺は、同じ日に成人式を迎える妹の娘のみつに行くと言った。妹は俺に頼ってきていた。断れなかった。「優香はお前に似て地味だよな」——そう口にした時、妻の目が変わった。あの子がどんな思い…

「俺、優の成人式には行かないから。」 妻の恵理が、皿を洗う手を止めて振り返った。信じられないものを見るような目だった。 「は? 何言ってるの? 娘の成人式よ。行かないってどういうこと?」 「だから、パスだって言ってるんだよ。晴れ姿を見るのはお前一人で十分だろ。俺はみつの式に行くって決めたから。」 「冗談でしょ。今、冗談言ってるんだよね?」 「本気だよ。妹に頼まれてるんだ。断れないだろ。」 優香は、もうすぐ二十歳になる。家族写真もこれが最後になるかもしれないから、ちゃんと記念に撮りたいと、恵理は言った。 「楽しみにしてたんだよ、あの子は。あなたに全部見てもらうつもりで、ずっと楽しみにしてたんだ。」 「俺は聞いてないけどな。でも、写真ならみつの方が絶対いいだろ。みつはダンサーだし、スタイルもいいし、成人式映えするんだよ。優香は地味だから、写真も別にって感じだし。」 「ひどい。娘のことをそんな風に言う? あなた、本当に父親なの?」 「事実だろうが。娘に嘘ついてどうすんだよ。みつはその分、努力してるんだ。メイクもダイエットも。優香は……まあ、お前に似て地味だよな。」 恵理は、キッチンのシンクに手をついた。声が震えていた。 「あなた、本当にそう思ってるの?」 「思ってるから言ってるんだよ。妹の式の方が楽しみなんだ。みつも俺が行くのを喜んでる。優香はお前がいれば満足だろ。あの子の気持ちはどうでもいいのかよ?」 「うるさいな。もう決めたんだ。みつの式に行く。妹に約束したし、今更変えられない。」 「少しでも……こっちに来る気はないの?」 「無理だ。朝から晩まで付き合わないといけないし、優香の式なんて行ってる時間はないって。みつにはもう父親がいないんだから、俺が行ってやらないと可哀想だろ。本当の父代わりは俺しかいないんだよ。」 「あなたは何を言ってるの? 娘のために、一生に一度の日よ。写真を撮って、後で送ってくれればそれで十分だろ? 大げさすぎるんだよ。」 「あの子はあなたに似てないし、俺にもあまり懐いてない。みつの方が俺に懐いてるし、可愛がりがいがあるっていうか。俺だって優香が嫌いなわけじゃないけど、向こうから遠ざかったら、仕方ないじゃないか。」 「懐いてないのは、あなたの行動のせいでしょ。……そういえば、あなた、前もこういうことあったわよね。優香の入学式のとき、みつちゃんが熱を出したからってそっちを優先して遅刻したじゃない。」 「あの時は仕方なかっただろ。みつが頼ってきてて、他に出せる人がいなかったんだ。それに、遅刻はしたけど行っただろ。今回は最初から行かないだけだ。何回も同じ話をしてくるなよ。」 「理解してる?」 「ああ、理解してるよ。」 「娘より、妹の義理を優先することを?」 「そういう言い方すんなよ。高が成人式だろ。そんなに騒ぐことか?」 「高いのじゃないわ。低いのよ、あなたの中で。一生に一度の、娘の大切な日よ。それすら、あなたの中で妹に負けてるのよ。俺が見られなくても、別に問題ないって?」 「信じられない。本気で言ってるの?」 「ああ、本気だ。」 翌日、恵理は義妹の恵里に電話をした。 「恵里さん。大輔が、みつちゃんの成人式に行くって言ってますけど。優香の成人式と、同じ日なんです。ご存知でしたか?」 「ああ、知ってましたよ。お兄ちゃんが来てくれるって言ってくれたので、みつき、すごく楽しみにしてるんです。お姉さんも、わかってくださいますよね?」 「わかる……? 優香のことは、考えないんですか?」 「ゆ香ちゃんには、お姉さんがいるじゃないですか。みつには、お父さんがいないんです。離婚したのは数年前で、みつもまだ不安定でした。だからせめて、成人式くらいはお兄ちゃんに来てほしいんです。それがダメですか?」 「でも、大輔は優香の父親なんですよ。」 「だから何ですか? お姉さん一人いれば十分でしょ。みつは本当に誰もいないんです。お兄ちゃんだけが頼りなんです。それに、みつきはお兄ちゃんのことを、『パパ』って呼んでるんですよ。」 「パパ……?」 「そうですよ。小さい頃からずっと、お兄ちゃんが本当のパパみたいに可愛がってくれてたから。まあ、パパは冗談ですけど。それくらい、みつも懐いてるってことです。お兄ちゃんも、みつのことは実の娘みたいに思ってるって言ってましたし。ゆ香ちゃんより可愛いって。」 「何それ。私は聞いてないんだけど。」 「あら、言ってませんでしたか。お兄ちゃん、いつも、みつの方が素直で可愛いって褒めてくれるんです。ゆ香ちゃんは反抗期なのか、最近冷たいらしいですね。そんなこと、大輔が言ってたの?」 「はい。ゆ香ちゃんとは会話も減ってつまらないけど、みつとは楽しく話せるって、喜んでましたよ。だから、成人式もみつの方を選んだんでしょうね。」 「離婚して大変なのはわかるけど、だからって、うちの家庭のことを考えないのはどうかと思います。大体、父親がいなくて大変だからという理由なら、あなたのせいで優香は成人式に父親がいない状態になるんですよ。」 「こっちだって大変になるの、わかってます? 私だって好きで頼ってるわけじゃないし。お姉さんには、私の気持ちなんてわかりませんよ。」 「分かりたくもないんだけど。」 「ひどい。お姉さんは恵まれてますもんね。一人で子供を育てるのがどれだけ大変か、知らないからそんなこと言えるんですよ。それに、この際だから言っておきますけど、もっと家族のこと考えてくださいよ。お兄ちゃんも、私たちのために来てくれるって言ってるんです。本人の意思を尊重した方がいいですよ。」 「家族? 私たちも家族ですけど。」 「お兄ちゃんの本当の家族は、私とみつきなんですから。ゆ香ちゃんは、お姉さんの連れ子でしょ。」 … Read more

20 September 2026

まゆちゃんが毎週末、7人の子どもたちを連れてうちに夕食を食べに来るようになったのは、ほんの小さな親切からだった。最初は「大変だね」の一言で済んでいた。でもそれが毎週になり、食費も出さず、ついに私は「大人として食費は出しなさいよ」と言った。するとまゆちゃんはこう言い放った。「あ、お姉さん、それってパワハですか?」そして翌日には「明日から毎日食事の世話してください」と笑顔で言ってきた。夫の大輔は…

「まゆちゃん、そろそろ何とかならない?毎週末うちに来てご飯食べてさ。」 「何がですか?兄夫婦の家にご馳走になりに行ってるだけでしょ。」 「まゆちゃんと子ども7人、合わせて8人でしょ。それが毎週ってありえないでしょ。」 「うち大家族なんで。」 「そういう問題じゃないの。そもそも食費も出さないってどういうこと?」 「お兄ちゃんが出さなくてもいいって言ったから。」 「大輔が言ったことは忘れて。月1とかならまだしも、毎週なんだから。大人として食費は出しなさいよ。」 「あ、お姉さん、それってパワハですか?上の立場の人が下の人にお金を要求するなんて、典型的なパワハですよ。」 「は?何言ってるの?それでパワハが通るのは正規軍だけよ。」 「言い訳は聞きたくありません。そういう考え方、普段からどうしてるんですか?」 「普段って何?」 「7人の子どもの母親でしょ。ちゃんと面倒見られてるんですか?」 「うわ、お姉さん最悪。」 「何が?」 「今時そんな考え方ありえないんですけど。母親だからって子どもを世話するのは当然とか、時代錯誤すぎてびっくりしました。ジェンダーハラスメント全開です。」 「全開?急に知らない言葉が出てきてびっくりしたわ。何でもハラスメントって言うのやめてよ。」 「知らないんですか?ハラスメントは、された側がそう思ったらそうなんですよ。」 「都合のいい解釈ね。」 「そういう時代なんで。今の時代、母親だからとか関係ないんです。」 「まゆちゃんってシングルマザーよね。」 「そうですけど。」 「じゃあ、まゆちゃんが面倒見ないで誰が見るの?お父さんお母さんは北海道で頼れないんでしょ?」 「うちの長女のナサが面倒見てくれてますから、大丈夫です。」 「ナサちゃんって確か高校生よね。」 「ピッチピチの16歳ですよ。バイトもしてるし。学校にバイトに下の子のお世話に、家事も全部やってくれてます。」 「それ、自慢できる話じゃなくて、もう怖い話よ。16歳の子にどれだけ負担かけてるの?」 「あ、だったらお姉さんが負担減らしてくださいよ。明日から毎日食事の世話してください。」 「は?」 「これからは毎日ご馳走になります。ナサの負担も減って、お姉さんも嬉しいですよね?」 「バカ言わないで。ただでさえ大変なのに、毎日なんて無理よ。」 「家族8人でいつもごめんね。明日も行くからよろしく。」 「ちょっと、勝手に決めないで。聞いてるの?」 翌日、大輔が仕事から帰ってくると、まゆと子どもたちがリビングで夕飯を食べていた。 「まゆちゃん、本当に今日も来たのよ。」 「来るって言ってたんだろ。それにリカ、念のためってまゆんとこの分も作ってたじゃん。」 「それはそうだけど。私たちとまゆちゃんとこ合わせて10人分の食事よ。それが毎日続くって、うちは食堂か。」 「大げさだなあ。食費だって全部こっち持ちじゃん。こんなの破産するわ。」 「しないって。食費くらいリカのパート代だけで足りるだろ。」 「全部使えってこと?私がパートで稼いだお金を、全部まゆちゃんたちに注ぎ込めって?」 「そこまでは言ってないだろう。」 「言ってるよ。そもそも大輔は10人分の食事を甘く見すぎ。2人分と10人分でどれだけ手間が違うか分かってないんでしょ?」 「大げさだって。人数が増えるってことは、食材を増やすだけだろう。」 「それ本気で言ってるの?」 「俺とお前の分を作るついでに、ちょっと量を増やすだけだから簡単じゃん。8人分をついでに終わらせる神経が怖いわ。」 「そりゃ高級フレンチを作ってるなら分かるけど、リカの料理って適当な家庭料理じゃん。」 「適当って言った?」 「食材を鍋にぶち込んで煮込むだけだろ?大した手間じゃないって。」 「ねえ、大輔さ、料理作ったことある?」 「俺は作れないけど。」 「現実の料理はそんな単純じゃないの。ゲームと違って、煮込んで終わりなんてないんだよ。」 「そんな怒んなよ。まゆもシングルで大変なんだぞ。ちょっと助けるくらい、いいじゃないか。」 「助けてるのはあんたじゃなくて、私ね。」 「分かってるって。」 「分かってないから、そういう態度なんでしょ。一緒にやってみたら?」 「俺は無理。仕事忙しいし、料理なんて作ったことないもん。」 … Read more

20 September 2026