「裕子、今すぐ診察室に戻ってきなさい。これからのことを話し合わないといけないだろう」。医者から余命三ヶ月と告げられた直後、夫は診察室を飛び出した。私はその背中を追いかけた。戻ってきた彼は、意外なほど落ち着いていた。「どこかで覚悟していたんだ。ずっと命を削って会社を大きくしてきたからな」。その夜、夫から届いた一本の電話が、私たち家族の日常を音を立てて崩していった。「実は……俺にはずっと愛人がい…

「裕子、今すぐ診察室に戻ってきなさい。これからのことを話し合わないといけないだろう」 妻の目は涙で腫れていた。医者から余命三ヶ月と告げられた直後、夫は診察室を飛び出してしまった。私はその背中を追いかけた。 「ごめんなさい。でも、そこまで取り乱すとは思わなかった」 戻ってきた彼は、意外なほど落ち着いていた。それがかえって辛かった。 「あなた、どうしてそんなに落ち着いていられるの? 余命三ヶ月よ。私には耐えられない」 「どこかで覚悟していたんだ。ずっと命を削って会社を大きくしてきた。おかげで大勢の社員を抱える大きな会社になった。でも、こんな生き方をしていたら長くはないだろうなと思っていたんだ。ずっとけだるさが取れなかった時、いよいよお迎えが来たかと思ったよ」 「私も、安明も、あなたともっと一緒にいたかった」 「そう言ってくれるのは本当に嬉しい。俺は素敵な家族に恵まれたと思っている」 「やめてよ。まだ諦めないで」 「末期だ。悪あがきはしたくない。医者からは延命治療か緩和ケアか、どちらか選べと言われている。俺は緩和ケアを選ぶつもりだ。数ヶ月延びても意味はない。残された時間をゆったりと、大切な人と過ごしたい」 「どうしてそんなに達観してるのよ」 「お前の気持ちは分かる。立場が逆なら同じように感じただろう。でも、自分のことは自分で決めたい。残された人たちのために時間を使いたい。お前には苦労をかけるかもしれないが」 「そんなこと言わないで。私はずっとあなたの妻なんだから。苦労なんてあるはずないわ」 「ありがとう。それじゃあ、会社のことやこれからのことを話し合う必要があるな」 「今から安明を病院に呼ぶわ」 「いや、あいつは仕事が忙しいだろう。こんなことで呼ぶ必要はない。LINEでいい。できれば俺も、あいつの辛そうな顔は見たくないからな。俺から直接伝える」 「いいの?」 「安心しろ。男同士でゆっくり話をするさ」 五時間後。家に帰ると、安明がキッチンで待っていた。 「安明、ご飯ができてるわよ。早く下で一緒に食べましょう」 「父さんは?」 「それが、用があるからって出かけたの。一緒に行くと言ったんだけど、まだまだ元気だから心配するなって」 「母さん、俺、辛いよ。どうして父さんがこんなことになるんだ?」 「安明……私も同じ気持ちよ。神様は本当に残酷なことをするわね」 「俺は父さんに親孝行の一つもしてあげられなかった。孫の顔も見せられなくて」 「あなたはお父さんの後継ぎになれるように仕事を頑張ってきた。結婚どころじゃなかったのはお父さんだって分かってる。そんなことを責めるような人じゃないでしょ」 「会社としては、次の社長を決めることになるよな」 「そうね。お父さんはあなたを後継にすると思うわ。昔から息子に継がせたいって話してたから」 「俺なんかに父さんの後釜が務まると思う?」 「あなたなら大丈夫よ。そのために勉強も仕事も頑張ってきたんだから。絶対になれると私は確信してる」 「そうか……分かったら、早く降りてきなさい。お父さんにも連絡して帰ってくるように言うから。家の中ではあまり暗い顔をしないようにしましょう。できるだけ明るく送ってあげるのがいいと思うから」 「そうだな。分かった」 それから少しして、夫の携帯が鳴った。出た瞬間、彼の表情が曇る。 「あなた、気分が悪いとかない?」 「いや、大丈夫だよ。何かあったのか?」 「もう晩御飯の時間だから、早くお家に帰ってきてよ。今日はあなたの好きなビーフシチューにしたから」 「悪いが、今日はちょっと帰らないでおくよ」 「え? 何かあったの?」 「本当は、大事なことだけを伝えて帰るはずだったんだ。だが、俺が余命三ヶ月だと伝えたら泣かれちゃってな」 「もしかして、お友達か何か?」 「実は……俺にはずっと愛人がいたんだ」 一瞬、言葉が出なかった。 「ずっと隠し通すつもりだったが、そういうわけにもいかなくなった。正直に話すから、落ち着いて聞いてほしい」 「どういうことなのよ」 「ナツキという人と、ずっと愛人関係だった。ナツキは俺が既婚者だというのを知った状態で関係を迫ってきた。それを受け入れて、ここまで続いた」 「ちょっと待って。混乱してて、分からない」 「頼むから、今は話を聞いてくれ。実は……俺とナツキの間には子供がいるんだ。直と言って、今年で二十六歳になる」 「二十六歳の子供? ずっと、あなたの子供だったの?」 「そうなんだ。大切な俺の息子だ。直はうちの子会社に入社させて、実務経験を積ませてある。その直を社長に据えることにする」 「何を言ってるの?」 「本当はもっと時間をかけて実績を積ませて、誰にも文句を言わせない状態で引き継ぎたかった。だが、こうなっては仕方がない。多少強引な方法を使わないとな」 「信じられない……そんなに長い間、私たちを裏切ってたの?」 … Read more

20 September 2026

哲夫から電話が来た時、私は新居のカーテンの色を選んでいた。「悪いけど、お前とは一緒に住めない。婚約破棄でいいか?」あまりに突然で、私は一瞬、冗談だと思った。でも彼の声は本気だった。十二年連れ添った婚約者。やっと手に入れた夢のマイホーム。それを全部、後輩のユリアに奪われた。「お前は嫁不合格だ」と彼は笑いながら言った。新居にはもう彼女と住むから、ローンの支払いだけは続けろと。私は静かに息を吸った…

綾音は電話口でため息をついた。哲夫が銀行のローンの契約日を指でなぞるように確認してくる。彼はいつもそうだ。大事なことは何度でも確認しないと気が済まらない。 「再来週の契約日、分かってるよな。休みはちゃんと取ってあるんだろうな」 「大丈夫よ。ちゃんと有給申請してあるから」 「そうか。なんか最近お前、忙しそうだったからさ」 「新しいプロジェクトを任されてるのよ。私はその主任だからね。そりゃあ忙しいわよ」 「でも将来のために大事なことだから、上司も快く了承してくれたわ」 「家を買うんだからな」 「そうよ。私たちの家を買うんだからね」 哲夫の声が少しだけ弾んだ。二人で長い間約束してきたことだった。ずっと夢に見てきた形だ。 「婚姻届はいつ出すことにしたんだ? 婚約者のまま家を買うことになるけど」 「私の誕生日に合わせようと思ってるの。記念日と一緒の方がいいでしょ」 「半年くらい先になるな」 「私は別にいつでもいいけどね」 「いや、こういうのは記念日と合わせた方がいいんだ。式は婚姻届を出した後だな」 「そうね。それがいいと思ってる。できれば早くお母さんに安心してもらいたいの。うちの母、もう七十歳を超えてるからね」 「俺も同じだよ。だから式はちゃんと挙げたい。でも順番は大事にしたいんだ」 「先に家を買うって時点で順番はめちゃくちゃだと思うけどね」 「それはいい条件の家が見つかったから仕方がないだろ。これを逃してたら他の人に買われてた」 「確かに、値段も立地も信じられないくらい素敵な家よね」 「だろ。だから家はもういいとして、それ以外は順番をちゃんとしたいんだ」 「そうなんだ」 「それにこれからずっと一緒にいるんだし、ちょっと式が遅れたって大したことじゃないだろ」 「そうね。本当に結婚するまで長かったしね」 「待たせて本当にごめんな。俺も仕事のこととか色々あってさ」 「分かってるわ。別に責めてるわけじゃないの。あなたが私のことを真剣に考えてくれてるのは分かってたから。それじゃあ仕事、頑張ってね」 「ああ、綾音もな」 その三日後、職場で後輩のユリアに声をかけた。 「ユリア、再来週なんだけど、私、有給を取るの。だからその日、私の代わりに任せたい仕事があるんだけど、いいかしら」 「ええ、別にいいですよ。でも先輩が有給を取るなんて珍しいですね。いつも上の人から取れって言われるまで取らなかったじゃないですか」 「確かにそうね。私が有給申請した時、部長が驚いてたわ。でも特別な理由なのよ。銀行に行って契約をしないといけないから」 「契約?」 「家を買うのよ。それで共同ローンを組むことになったから、その契約をしないといけなくて」 「なるほど。それってもちろん、アイノスってやつですよね」 「そうよ。哲夫と二人でそこで暮らすの」 「でも、結婚はまだされてないですよね」 「そうそう。プロポーズはされたから婚約関係ではあるけどね。式とか結婚の前に家かって、順番が変なんだけどね」 「いえいえ、そんなの関係ないですよ。二人で幸せになれるのなら、何でもいいじゃないですか」 「確かにユリアの言う通りね」 「でも哲夫さんも素晴らしいですね。若いのに家を買う決断をするなんて」 「昔から二人の夢だったのよ。いつか大きな家を買って暮らしたいねって、ずっと話してたの」 「へえ、なんだか羨ましいです。哲夫さんみたいな素敵な人が旦那様で、それで家を買って一緒に住むなんて」 「ユリアは何回か哲夫と会ったことあるもんね。そんなに哲夫を評価してるなんて思わなかったわ」 「いやいや、本当に素晴らしい人だと思ってますよ。先輩も勝ち組ですね」 「いや、別に勝つとか負けるとかそういう話じゃないから。でもようやく哲夫と結婚できるのは嬉しいかな。十二年も一緒にいたしね」 「本当に素晴らしい結婚ですよ」 「新しい家に引っ越したら、ユリアも招待するからね」 「本当ですか?」 「もちろんよ。きっと哲夫も喜ぶわ」 二週間後、母に電話をかけた。 「お母さん、無事にローンも通ったわ。これでいよいよ引っ越しすることになるから」 「そうかい。本当に良かったね。若くして家を買うなんて、最近じゃ珍しいと思うけど」 「二人で働いてローンを返していく予定だからね。そこまで無茶してる感じじゃないのよ」 「哲夫君とはもちろん結婚をするんだろうね」 「当たり前でしょ。私の誕生日に婚姻届を出すから」 … Read more

20 September 2026

毎週末、お姉さんの家でご飯を食べるのが当たり前だった。でもあの日、姉が突然「まゆちゃん、いい加減にしてくれない?」と言ってきた。「兄夫婦のお宅へご馳走になりに行ってるだけですよ」と返すと、姉は「8人分の食事を毎週なんておかしいでしょ」と怒り出した。私は「それってパワハですよ」と言い返した。すると姉は「じゃあまゆちゃんが面倒見ないで誰が見るの?」と、高校生の長女ナサに家事も育児も全部押し付けて…

いやあ、お姉さんの家が近くて助かるわ。今日も夕飯ごちそうになるね。 「まゆちゃん、いい加減にしてくれない?」 「え、何がですか?」 「何がって、毎週末うちにご飯食べに来るでしょ。そんなのありえないよ」 「兄夫婦のお宅へご馳走になりに行ってるだけですよ。うち大家族なんで」 「まゆちゃんと子供7人で合計8人よ。それが毎週っておかしいでしょ」 「お兄ちゃんが出さなくていいって言ったんです」 「大輔が言ったことは忘れて。月1ならまだしも毎週はないよ。大人として食費は出すでしょ」 「あ、お姉さん、それってパワハですよ。上の立場の人が下の人にお金を要求するなんて、典型的なパワハじゃないですか」 「は?何言ってるの?そんなのパワハで通じるのはあなただけよ」 「言い訳は聞きたくありません。そういう考え方で普段どうしてるんですか?」 「普段って何?」 「7人の子供の母親でしょ。ちゃんと面倒見られてるんですか?」 「うわ、お姉さん最悪」 「え、何が?」 「今時そんな考え方ありえませんから。母親だから子供の世話をするのが当然とか、時代錯誤すぎてびっくりしました。ジェンダーハラスメント全開ですよ」 「全開?急に知らない単語出てきてびっくりした。何でもかんでもハラスメントって言うのやめてよ」 「知らないんですか?ハラスメントはされた側がそう思ったらそうなんです」 「都合のいい解釈ね」 「そういう時代なんで」 「ああ、そう。だから今の時代、母親だからとか関係ないんだ」 「そうです」 「じゃあまゆちゃんってシングルマザーよね」 「そうですけど」 「じゃあまゆちゃんが面倒見ないで誰が見るの?お母さんたちは北海道だし、頼れないでしょ」 「うちの長女のナサが見てくれてるので大丈夫です」 「ナサちゃん?あの子高校生よね」 「ピッチピチの16歳ですよ。バイトもしてますし、学校にバイトに下の子のお世話に家事も全部やってくれてます」 「それ、どやれる話じゃなくて、もう怖い話だから。16歳の子供にどれだけ負担かけてるの?」 「あ、だったらお姉さんが負担減らしてくださいよ」 「は?」 「明日から毎日食事の世話してください。これからは毎日ご馳走になります。ナサの負担も減って、お姉さんも嬉しいですよね?」 「バカ言わないで。ただでさえ大変なのに毎日なんて無理よ」 「家族8人でいつもごめんね。明日も行くからよろしく」 「ちょっと勝手に決めないで。聞いてるの?」 翌日、大輔が仕事から帰ってくると、リカ子は呆れた顔で言った。 「まゆちゃん、本当に今日も来たのよ」 「ああ、来るって言ってたもんな」 「言ってたけど、まさか本当に来るとは思わなかったわ。でもリカ子、念のためにって夕飯、まゆちゃんたちの分も作ってたじゃない」 「それはそうだけど、予定通り何も問題ないんじゃない?」 「問題しかないでしょ。私たちとまゆちゃんとこ合わせて10人分の食事よ。それを毎日なんて、うちは食堂か」 「大げさだなあ」 「どこが大げさなのよ。食材も全部うち持ちよ。こんなの破産するわ」 「しないって。食費だったらリカのパート代だけで足りるじゃん」 「全部使えってこと?私がパートで稼いだお金を全部?」 「そこまでは言ってないだろ」 「言ってるわよ。そもそも大輔は10人分の食事を甘く見すぎ。2人分作るのと10人分作るの、どれだけ違うか理解できないの?」 「いや、だから大げさだって。人数が増えるってことは食材を増やすだけだろ」 「それ本気で言ってる?」 「俺とお前の分を作るついでに、ちょっと量を増やすだけでいいんだから簡単じゃん」 「8人分をついでに終わらせる神経が怖いわ」 「そりゃ高級フレンチ作ってるなら分かるよ。けどリカ子の料理って適当な家庭料理じゃん」 「あ、適当って言った」 「食材を鍋にぶち込んでまとめて煮込むだけだろ。大した手間じゃないって」 「ねえ、大輔さ、料理作れたっけ?」 … Read more

20 September 2026

今日で俺が二十歳の誕生日だって、お前忘れてねえよな。お疲れ様でした。愛想も何もねえな。まあいいわ。単刀直入に言うぞ。離婚だ。三十年一緒に暮らして、もうお前には吐き気がしてるんだよ。顔も性格も、貧乏臭いとこも、お前の全部が大嫌いなんだ。「支える?笑わせんな。毎日茶色い煮物ばっかり食わせやがって。お前のせいで俺の人生はくすんでたんだよ」。私はサインしてないわ。勝手に書いて出すのは確か犯罪じゃなか…

今日で俺が二十歳の誕生日だって、お前忘れてねえよな。お疲れ様でした。愛想も何もねえな。まあいいわ。単刀直入に言うぞ。離婚だ。 はい? 三十年一緒に暮らして、もうお前には吐き気がしてるんだよ。顔も性格も、貧乏臭いとこも、お前の全部が大嫌いなんだ。 急にどうしたのよ。今日までずっとあなたを支えてきたつもりだけど。 支える?笑わせんな。毎日茶色い煮物ばっかり食わせやがって。お前のせいで俺の人生はくすんでたんだよ。 それはあなたの血圧や健康を考えてのことよ。 うるせえ。その押し付けがましさが一番嫌いなんだ。俺は本来もっと豪華な生活が似合う男なんだよ。お前みたいな底辺の味覚に合わせるのが本当に苦痛だった。 三十年もそんなふうに思ってたの?息子を育て上げて、やっとこれから二人でのんびりできると思ってたのに。 お前と地獄に落ちるかよ。俺はもう、お前の筆跡で離婚届を出しておいた。 え?勝手に出したの?そんなの無効よ。 世間知らずは黙ってろ。受理された以上、今日から俺たちは他人なんだよ。 私はサインしてないわ。勝手に書いて出すのは確か犯罪じゃなかった? お前が黙ってりゃ済む話だ。もし騒いだら、無一文で追い出してやるからな。 私にも財産をもらう権利はあるはずよ。 退職金のことなら残念だったな。俺の退職金が出るのはまだ先の話だし、今日離婚が成立した以上、今後俺の口座に入る金についてお前には一円も権利がない。会社の後輩で司法試験を目指してたやつに聞いたから、間違いないはずだ。 はあ。そんな三十年一緒にいて、最後がこれなの? お前との時間は人生の損失だった。これからは真実の愛に全力で投資する。 ひどいこと言うのね。私の人生は何だったのよ。 知らねえよ。俺にとっては無駄な時間だったけどな。もっと早く捨てればよかったわ。 真実の愛ってことは、浮気相手がいるのね。 浮気じゃねえよ。本気だ。彼女は俺の才能を愛してくれてる。お前みたいな無能な家政婦とは違うんだよ。 珍しい名前ね。なんて読むの? お前は教養もないんだな。マユって読むんだよ。二十九歳で独立して、エステサロンを経営してるんだぞ。すごいだろう。 そうね。すごいと思うわ。 お前みたいに年取ってないし、若くて綺麗だ。 私だっておしゃれくらいするわよ。 嘘つけ。お前の服は全部セール品だろ。彼女は銀座でエステを経営してて、全身ハイブランドだぞ。お前じゃ俺の格が下がるんだよ。 そんな素敵な女性が、どうしてあなたと? 悔しくて言葉も出ないか。別に不思議なだけよ。 強がりやがって。どうせ今頃泣いてるんだろう。 そうね。泣きそうだわ。 俺らはハワイに永住するつもりだ。 英語喋れないのに大丈夫?外国人が近づいてきたら逃げるくせに。 三ヶ月あればペラペラになるわ。 私はこれからどうしたらいいのよ。 彼女と俺の新居にするから、すぐに出ていけ。 そんな急に言われても無理に決まってるでしょ。 座ってる金は当面の生活費としてお前にくれてやる。 昨日銀行に行ったばかりだけど、残金は八万しかないわよ。 遠慮せず受け取れ。 八万じゃ家も借りられないわ。 知るか。あと、お前のカレー臭もちゃんと消して出ていけ。 私のはダメで、あなたのカレー臭はいいの? うるせえ。俺は臭くないんだよ。 分かったわ。もう何を言っても無駄みたいね。じゃあ、このまま出ていくわね。 なんだその態度は。別に出ていけと言われたから出ていくだけじゃない。 捨てられたのに土下座しろよ。 いやよ。離婚届が出てるなら、今更何をしても無駄でしょ。 可愛げのない女だな。最後まで俺をイライラさせるんだ。 あなたが望んだことに応じてるだけなのに、どうして怒られなきゃならないのよ。 お前に行く当てあんの?実家は弟が住んでて行くところないんだろ。 なんとかなる。 まともに仕事したこともないくせに、どうやって落ちていくか見物だな。 心配してくれてるの? してねえわ。ざまあみろって思ってんだよ。公園でダンボールハウスでも作って、鳩に餌でもやってればいいじゃん。 … Read more

20 September 2026

ハワイの式場で、私は一人ドレスを着て待っていた。「ケン太、来ないの……?」電話の向こうで彼は「急に仕事が入った。また今度にしよう」とだけ言って、一方的に切った。昨日「先に行ってて」と送り出したのは、私を置き去りにするためだったなんて。その日、彼と義母は温泉旅行に行っていた。入籍しているから式は無駄、私のおばあちゃんが全額出すのが気に入らなかっただけ。おばあちゃんは静かに言った。「おばあちゃん…

おばあちゃんがハワイで結婚式をやりたいと言い出したとき、私は本当に驚いた。でもそれ以上に嬉しかった。おばあちゃんは昔から私と仲が良くて、私の結婚を誰よりも喜んでくれていた。 「おばあちゃん、ハワイ式の日程が決まったよ。おばあちゃんも招待したいんだけど、大丈夫?」 「そう、よかったわね。パスポートはあるから大丈夫よ」 「本当?良かった。すごく楽しみなの」 「それにしてもハワイなんてお金がかかるわね。全く贅沢だわ」 「そうだよね」 「だから費用はおばあちゃんが出す。その分、あんたたちは貯金しなさい」 「え?いやいや、何言ってるの?結婚式なんて私たちの自己満足なんだし」 「あんたは昔からお年玉ももらおうとしなかったでしょうが。おばあちゃんはお金を出したいのよ。経済を回してるんだからいいでしょ」 「でもさすがに全額は」 「そんなに気になるなら、結婚式で目いっぱい幸せな顔をしておばあちゃんを悔しがらせてみせな」 「本当にいいの?」 「お金は持ってるやつが使えばいいの。大体、おばあちゃんがお金を持ってても医療費に消えていくだけなんだから、少しくらいめでたいことに使わせなさい。もう大きなお金の使い道なんて、葬式くらいしかないんだから」 「もう、縁起でもないこと言わないでよ。でもありがとう、おばあちゃん。私が何を言ってもおばあちゃんは止まらないよね」 「なんだい、分かってるじゃない」 「だからありがたくもらうよ。その代わり、絶対幸せな顔を見せるからね」 「せいぜい楽しむんだよ。結婚式なんて人生に一度しかないんだから」 数日後、おばあちゃんのもとに一人の女性が訪ねてきた。夫の母親、みち子だった。 「鶴子さん、お久しぶりです」 「ああ、みち子さんかい。久しぶりだね。なかなかお会いする機会がありませんでしたね」 「それで、何か用かい?」 「その、息子から聞いたんです。結婚式の費用を全額負担してくださるそうで」 「ああ、その話か。私が勝手にやったことだよ。そちらが引け目を感じることもないし、後から引き合いに出すつもりもない。あまりそちらと関わる機会もないもんだからね」 「それにしても、結婚式の費用全額だなんて。まあ、お金持ちは違いますわね」 「別に、おばあちゃんの義務だからそうしてるだけだよ。お金を持ってる老人がお金を落とす方が世間のためだ」 「義務ですか?随分と余裕のあるお言葉で、羨ましいですわ。引退されてもそんなに余裕があるなんて」 「人生を引退したつもりはまだないよ。ま、社会的には引退してるけれどね」 「でも鶴子さんももうお年ですし、あまり無理なさらない方がいいですよ。孫に見栄を張って倒れたりしたら大変ですからね」 「ご心配なく。うちは庶民ですから、そんな贅沢はできませんけどね」 「成り上がりの方は派手好きで大変ですわね」 おばあちゃんは黙って、その言葉を受け流した。 その頃、家では母が息子に詰め寄っていた。 「ねえ、ケン太。ちょっと聞きたいんだけど」 「何、母さん?」 「本当に結婚式はハワイまで行く必要あるの?」 「え、それはまあ国内でもできるけど。でも弓が楽しみにしてるし、もう入籍したんだから結婚式なんてただのパフォーマンスよね」 「それなのにハワイだなんて」 「母さんもハワイがいいって言ってたじゃん」 「場所じゃなくてよ。あのババアの金で贅沢するなんて恥ずかしくないの?私、あの人嫌いなのよ。お金持ちって性格悪いし、見下されてるみたいでね。しかも自分のことを『ババア』とか言うのよ。きっとひん曲がった性格してるわ」 「それはまあ、癖は強いよね。確かになんか山ん場みたいだしさ」 「そうよ。きっと影で私たちのこと『貧乏人』って言って笑ってるに違いないわ」 「でももう決まっちゃったし、さすがに今からは変えられないよ」 「ちょっとそこをなんとかするのが、あんたの仕事でしょ」 「無茶言わないでくれよ」 おばあちゃんに相談した。 「おばあちゃん、あのさ。ちょっと愚痴というか相談なんだけど」 「なんだい」 「お母さんと仲良くやっていけるか不安なんだ。なんていうか、ほら、やっぱり母親だし、自分の子供が大切なのはみんなそうじゃん。私はよそ者だから」 「そうね。嫁姑問題はあるでしょうけど。ま、悪い人じゃないんじゃない?」 「そうかな。怖いんだけど」 「大丈夫よ。何かあったらおばあちゃんに言いなさい。年上だから、まあ話は聞いてくれるわ」 「うん、ありがとう」 翌日、母はまたケン太に迫った。 「ねえケン太、やっぱりハワイの結婚式はやめなさい」 「え?今更無理だよ。何言ってんの?」 … Read more

20 September 2026

義母から電話が来たのは、母の危篤を告げた直後のことだった。「葬式なんて行けるわけないでしょ。今すぐ帰ってきなさい」。専業主婦の私が、たった一日だけ許された実家への帰省。その夜、母は息を引き取った。悲しみに暮れる私に、義母はさらに追い打ちをかけた。「これで足かせが一つなくなったんだから、これからは私たちの世話に集中できるでしょ」。私は震える手で夫に電話をかけた。「葬儀、来れるわよね」。返ってき…

「ゆい、今すぐ実家に戻ってきてくれ」 「え? もしかして母さんに何かあったの?」 「そうだ。母さんの容体が急変したんだ」 「嘘でしょ? だってこの前、お見舞いに行った時はすごく元気そうだったのに」 「本当に綱渡り状態なんだよ。とにかく今すぐ病院に来てくれ」 「助かるのよね?」 「わからない。でも、二人で母さんが元気になるように祈ろう」 「分かった。すぐにそっちに行くから」 電話を切った後、ゆいは夫のたやに連絡を入れた。たやは仕事中だと言い、迷惑そうな声をあげた。 「たや、ちょっと話があるの」 「なんだよ。こっちは仕事中だぞ。仕事中の私的な連絡は禁止だって言われてるんだ」 「お願い。大事な話だから聞いてよ」 「何?」 「母さんの容体が急変したの」 「え? この前、元気だったとか言ってなかったか?」 「そうなの。すごく元気そうだったのに。さっき父さんから連絡があって。もともと入院してたのよ。白血病になっちゃってね。それでも治療を受けて、ちゃんとよくなるはずだったのに」 「それで話って何だよ」 「今から実家に帰るから、夜は自分でご飯を買ってくるかなんかしてほしいの」 「ああ、そういうことか。俺は別にいいけどさ」 「じゃあお願いね」 「ちょっと待てよ。これは母さんには伝えてるのか?」 「いいえ。あなたに伝えておけば、別にいいでしょ」 「だめに決まってるだろう。母さんはお前に家事を任せてるんだから。急にいなくなったら怒るに決まってる」 「前に実家に帰った時は、母さんも普通に許してくれたじゃない」 「それはたまたまだよ。さすがにこんな連続で帰るってなったら、母さんだって怒るはずだ。だからその前に、母さんにも事前に連絡をしておけよ」 「分かったわよ」 ゆいは義母に電話をかけた。義母は化粧品メーカーを一人で大きくした女性で、たやもその会社で働いていた。夫婦は義母が建てた家に住み、生活のすべてを義母に頼っていた。 「お母さん、突然の連絡申し訳ありません」 「何? 忙しいから手短にして。こっちは今、大型プロジェクトの準備をしてるの。あなたに割く時間はないわよ」 「実は母の容体が急変したので、実家に帰らせてもらいます」 「あなたの母親は確か白血病だったわよね」 「はい。そうです」 「それだけ重い病気なら、容体が変わることもあるでしょう。なのに、それでいちいち帰ってたら、我が家のことがおろそかになるでしょ」 「それは帰るなってことですか?」 「そうよ。この間帰ったばかりなんだから、今回はだめよ」 「ですが、危険な状態なんですよ」 「それだけ重たい病気なのよ。これからいくらでもあるわ」 「あなたは医者か何かですか?」 「はあ?」 「どうして何も知らないのに、そんな偉そうに言い切れるんですか?」 「私に逆らうの? 誰のおかげで生活ができてるか分かってる?」 「お母さんには感謝してますよ。でも私をここまで育ててくれたのは、私の母ですから。その母が危険な状態なら、私はそばにいてあげたいと思ってるんです」 「それこそあなたは医者かなんかなの? そばにいて病気がよくなったりするのかしら?」 「もしかしたら、もう会えないかもしれないんですよ。それでも行くなと言うんですか?」 「私は仕事をおろそかにするなと言ってるの。あなたの仕事は我が家の家事よ。専業主婦ってことは、家事をしないといけないの。それをサボるなんて許されることじゃないわ。帰ってきたらちゃんとやりますから」 「これがあなたのわがままを聞く最後だと思いなさい。そしてことが済んだのなら、すぐに帰ってきなさいよ。今日一日だけ特別に休みにしてあげるから」 「できるだけ早く帰ります」 五時間後、ゆいは義母に再び連絡を入れた。 「お母さん、先ほど母が天国へと旅立ちました」 … Read more

19 September 2026

玄関のドアを開けた瞬間、義母が仁王立ちで待っていた。靴を脱ぐ暇もなかった。「ご飯とかはいいから、まず最初に部屋の荷物をまとめてもらっていいかしら」。あまりに突然で、私は何も言えなかった。リビングには夕飯の支度をする途中の私のエプロンが、まだ椅子にかかっていた。「もういい加減にして欲しいのよね。あんたと一緒に生活するなんて。私はうんざりだから」。立ち尽くす私に、義母は冷たい目を向けたまま続けた…

仕事から帰ってきた瞬間、そう告げられた。玄関で靴を脱ぐ暇もなかった。 「ご飯とかはいいから、まず最初に部屋の荷物をまとめてもらっていいかしら」 「え……何かありましたか」 「もういい加減にして欲しいのよね。あんたと一緒に生活するなんて。私はうんざりだから」 立ち尽くす私に、義母は冷たい目を向けたまま続けた。 「あんたって本当にどういう神経をしてるのかしら。自分の立場ってものを全く理解してないよね」 「立場、ですか」 「あんたは弘樹のおかげでご飯が食べられてるんでしょ。弘樹は超有名大学を卒業して大手企業で働いてるわ。給料だってすごいし、出世してもっと稼げることは間違いないわよ」 「それはもちろん理解しています。本当に弘樹のようなすごい人と結婚できて、とても幸せだと思っています」 「それで今は私たちの家で生活をしているのよ」 「そうですね。本当に感謝しています」 「感謝? そんな風に思ってもないくせに」 「思ってますよ」 「だったらどうして私の言うことを聞けないわけ? 私がお願いしたことを何一つ聞いてくれないじゃない」 「何一つというのは大げさです。ただ、この前みたいにいきなり『バラ寿司を作れ』みたいな要求をされても、難しいから断ることはありますよ。もう晩ご飯を作り終えた後だったのでね」 「私が食べたいと言ったものが作れないのなら、あんたはシフトは呼べないわ」 「お母さんがわがまますぎるんですよ。こちらも仕事をしながら家事をやっているので、何でもかんでもできるわけじゃないです」 「そうやっていつも口答えするわよね」 「お母さんの要望を全部叶えていたら、こちらは体も精神も持ちませんから」 「弘樹と結婚してるくせに、図々しいのよ」 「お母さんが弘樹のことを誇りに思ってるのは分かります。ですけど、私だって仕事をして頑張っているんです。それなのに、よく『結婚してるくせに』なんて言えますね。そんなひどい言葉を人に言えるなんて、お母さんはどうかしてますよ」 「私は事実を言っただけよ。実際、あんたの稼ぎなんて弘樹の半分以下なんだから」 「だとしても、私はお母さんのわがままに全部付き合うつもりはありません。それに何度も弘樹から注意をされてるでしょう。私の意見は聞けなくても、弘樹の言葉には耳を貸してください」 「あの子はあんたに気を遣って言ってるだけよ」 「そうですか。そう思ってればいいです」 「じゃあ、さっさとこの家から出て行ってちょうだい」 「だから荷物をまとめろとか言ってたんですね」 「今がいい機会よ。弘樹が海外出張中に離婚しなさい。今すぐ出ていけ」 「それ、弘樹は知らないでしょ」 「当たり前よ。あの子はまだ何も理解してないから。でも、海外出張であんたと距離を取ったことで、いかにあんたが不必要な存在か分かると思うわ。あの子はもうすぐ出張先から帰ってくるんだから。それまでにあんたの存在を消しておかないとね。だから今のうちに離婚だけでもしておきなさい」 「どうしてそうなると思えるんですかね」 「親子なんだから分かるのよ。あの子は私が愛情をかけて育てたの。だからあの子の考えなんて手に取るように分かるわ」 「申し訳ないですけど、そんなことできません」 「はあ。また口答え」 「当たり前じゃないですか。離婚は夫婦が決めることです。あなたに何を言われて決めることじゃない」 その日の夜、弘樹に電話をした。 「ちょっと大変なの」 「何かあった? もしかしてまた母さんか」 「ええ。しかも今までとはちょっと違うのよ」 「何があったんだ」 「いきなりあなたと離婚して家を出て行けって言われたの」 「はあ……マジで?」 「本当よ。ついさっきそんなこと言われてさ。今から帰らないといけないのに、本当に気が重いわ」 「母さんが千明きに対してきついのは知ってたけど、そこまでのことを言ってくるなんて、今までなかったよな」 「うん。さすがにこんなことは……本当にごめんな。あの人は俺に対して思い入れが強すぎるんだ」 「理解はできるのよ。弘樹は自慢の息子だからね。しかも性格だって優しいし。私だって自慢の旦那だって思ってるわ。そういう部分では理解できるんだけど、私に対してどうしてあそこまできついのか分からないわ」 「確かにそれはひどすぎるよな。俺も何度も母さんを注意したんだけど、さすがに離婚まで要求されるのは許せないよ。しかも、あなたが海外出張中ってのがやり方として汚いわ。止められる存在がいない時にやろうなんて」 「どうする?」 「あの案を進めてもいいんじゃないか。さすがにもう俺は限界だよ」 「そうね。でも、もう少しだけ様子を見るわ。なんかちょっとイライラしてて八つ当たりをしてきただけかもしれないし」 「だとしても許されることじゃないよ。俺の気持ちも無視してさ」 「でも、とりあえず帰って話をしてみるわ。それでも改善しなかったり、同じようなことを言ってきたりしたら、もうやっちゃっていいかもしれない」 … Read more

19 September 2026

「お母さん、助けてください」。久しぶりに響いた電話の向こうで、エリカの声は切羽詰まっていた。台所の時計は夜の八時を回ったばかりで、私は夕飯の片付けの手を止めて受話器を握り直した。「生活費が足りないんです。月に十万でいいんで、仕送りしてください」。あまりに突然の要求に、私は一瞬言葉を失った。先月渡した三十万はもう消え、カードも危ないという。夫の一也は収入が悪くないはずなのに、家計を考えずに使う…

「お母さん、助けてください」 電話の向こうで、エリカの声が焦っていた。久しぶりの連絡がそれかと思いながら、私は受話器を握り直した。 「え? エリカさん、急にどうしたの?」 「生活費が足りないんです。月に十万でいいんで、仕送りしてください」 「十万? 何言ってるのよ。そんなことできるわけないでしょう」 「そんな息子夫婦を見捨てるんですか?」 「そうじゃなくて。そもそも一也の収入は悪くないはずでしょ。二人で生活する分には問題ないんじゃないの?」 「一也が家計のことを考えずにお金を使うんです」 「だったら一也に直接言いなさいよ。お金の管理をしてるエリカさんが言うなら、聞くわよ」 「聞いてくれてたら、こんなことになってません。いいから仕送りしてください」 私は一つ息をついた。 「あのね。先月、私が渡した三十万はどうなったの?」 「もうなくなりました。カードもそろそろやばくて」 「バカを言うんじゃありません。そんな調子でお金を使う人に仕送りなんてできるわけない」 「そっちだって、お父さんの高級時計を認めてましたよね。自分は良くて、私はダメってどういうことですか?」 「お父さんは何十年もお金を貯めて買ったんだもの。しかも家計の範囲内でね」 「あの時計、三千万するらしいじゃないですか。知り合いの質屋に写真を見せたら、驚いてましたよ。それだけ欲しかったみたいで。亡くなった後も資産になるからって言ってたわね」 「じゃあ、その資産を売れば仕送りくらいできますよね」 「なんでお父さんの品を売らないといけないの?」 「息子夫婦よりも、亡くなった夫の形見のほうが大事なんですか? ああ、冷たい母親だ」 私はしばらく黙った。そして、冷たい声のまま言った。 「わかりました。月二十万でいいのね」 「やった! さすがお母さん!」 「調子のいいことばかり言って。仕送りはしてあげるけど、一也にも言うからね」 「え、なんでですか? 原因は一也にあるんでしょ? なら事情を伝えて、自分で直させないと意味ないわ」 「ダメです。ダメ」 「何がダメなのよ。このままってわけにはいかないでしょ」 「お母さんだって知ってますよね。一也はプライドが高いんです。お母さんから仕送りをもらって、説教までされるなんて、きっと仕送り自体を断りますよ」 「いくら何でも、状況を見るでしょ」 「いいえ。一也なら断ります」 「そうは言ってもね」 「そうなったら生活できないんで、一也には黙っててください。そこは私からきつく言っておきます」 「さっき、意味なかったって言ったわよね」 「とにかくそういうことです。なので、これ以上は干渉しないでください」 「ああ、まあいいわ。それじゃあ数ヶ月くらいは仕送りするから。これが最後だからね」 数ヶ月後、一也が苛立った声を上げた。 「マジでさあ、エリカ。ふざけてんの?」 「何が?」 「今日の会社の飲み会、お前が小遣いをくれないせいで行けなかったんだけど」 「しょうがないでしょ。お母さんへの仕送りで余裕がないんだから」 「そもそもなんで仕送りなんだよ。母さんって、そんな生活に困ってたっけ?」 「知らないよ。向こうが仕送りしてくれって泣きついてきたの」 「息子夫婦相手に金をせびるとか情けないな。俺がこんなに苦労してるってのに」 「はいはい。仕事、お疲れ様」 「趣味のマウンテンバイクも我慢してるんだぞ。最新のやつを買おうと思ってたのに。しかも飲み代まで減ってるし」 一也がため息をついたそのとき、私のほうがにこやかに切り出した。 「実はね、一也。一年くらい前から投資を始めてたの」 「投資? お前さ、専業主婦のくせに何勘違いしてんだ? … Read more

19 September 2026

「この女と結婚すると言ったら、お前を勘当する。清掃員の娘が調子に乗るな。顔をもう一発殴ってやるぞ」義父の怒号が、披露宴会場の廊下に響き渡った。つい五分前まで、彼は満面の笑みでゲストに頭を下げていたのに。私が「銀行で清掃員として働いています」と自己紹介した瞬間、その顔は鬼に変わった。「掃除ババアの娘が、うちの息子にふさわしいわけがないだろう」私は震える手を握りしめて言い返した。「仕事に上も下も…

「清掃員の娘との結婚を認めると思ったら大間違いだ。底辺が調子に乗るな。娘にもう一発平手打ちを食らわせてやるぞ」 義父の怒号が響く。私は一歩も引かずに言い返した。 「娘は妊娠しているんですよ。そのこともご存知でしたよね」 「だからなんだ。関係あるか。顔合わせでも随分な挨拶だったな。結婚式まで済ませたのに、まだ文句が足りないのか」 「あの一撃で娘の顔が腫れ上がりました。これ以上何をなさるおつもりですか」 「掃除ババアの娘がどうなろうと知ったことか」 「私の職業を明かすまでは穏やかに話していたのに、突然怒り出しましたね」 「当たり前だろ。お前みたいな家庭の娘をもらってやるだけで、こっちは一億円も譲ってやってるんだ。それなのに清掃員だと?ふざけんなって話だ」 「清掃員の何が悪いんですか。あなたが普段使うトイレだって、誰かが掃除しているんですよ」 「あんなものは底辺のする仕事だ。そんな奴の娘が身内になるなんて冗談じゃない」 「仕事に上も下もないと思いますが」 「あるだろう。俺は立派な銀行員だぞ」 「あら、自分で立派だとおっしゃるんですか。随分と自己肯定感が高いことですね」 「底辺が生きるなよ。お前の体からはトイレ用洗剤の匂いしかしないんだよ」 「だとしたら誇りです。恥じることはありません」 「とにかく結婚は認めん」 「でしたら、なぜ結婚式が終わった後に反対なさるんですか。式の途中はニコニコと愛想を振りまいていましたよね」 「まだ入籍してないからだ。式は思い出にやらせてやったが、入籍は許可しない」 「それはあなたが決めることではありません。結婚は成人した男女であれば、本人同士の同意のみですることが可能ですから」 「俺の息子は許可なく結婚するような親不孝者じゃない。俺が駄目と言えば絶対に従うんだよ」 「それだけ高圧的に育ててきたなら、お父様が怖いのかもしれませんね」 「お前、その余裕の態度はなんだ。強がってるのか」 「あなたのような立派な方に強がったところで、清掃員の私がどうなるというんですか。ただ、私は人間的にあなたに負けているとは思っていません」 「はあ?」 「ステータスと人間性は別だという話をしただけです。銀行員の犯罪者もいれば、清掃員の善人もいる。それが言いたかっただけです」 「エリートの私をババア呼ばわりするとはな」 「私をババアと言うには、あなたは若すぎますよ」 「お前はああ言えばこう言う」 「そうでもありません。会話は大事なコミュニケーションですから」 「田舎のばあさんが外国語みたいに難しい言葉を使うな」 「私の出身地をご存知なんですか」 「知らないが、どうせ山育ちだろう」 「はい。山でも海でも結構です。あなたにお願いしたいことは一つだけです。若い二人の幸せを邪魔しないでください」 「黙れ。お前の指図は受けん」 「お前という言葉はやめていただけますか」 「お前はお前だろうが。女は根に持つ生き物だということを忘れるな」 「うるさい女だな」 数分後、病院の待合室に大地が駆けつけた。 「どうだった?MRIまで取られたけど、何ともなかったよ」 「良かった。びっくりしたわね」 「うん。精神的ショックの方が大きいかな。この世には言葉が通じない人間が一定数いる。そういう人と分かり合おうとするのは時間の無駄だよ」 「でも大地のお父さんでしょ」 「大地君はあなたのために怒鳴ってくれたでしょ。あれが答えだと思うけど」 「そうだね。二次会はどうする?せっかく集まってくれてるし、顔だけは出そう。具合が悪くなったらすぐ帰るから」 「無理しないでね」 数日後、大地が謝りに来た。 「母さん、うちの父が本当にすみません」 「あなたが謝ることじゃないわ。気にしないで。検査の結果も異常なかったみたいだし」 「僕がもっと早く止めに入っていれば、ナナに痛い思いをさせずに済んだのに」 「ええ、あの瞬間私も目を疑ったわ。娘の方をフルスイングで叩くなんてね」 「親父は剣道部だったんです。手癖が悪くて」 「だから急所に当たったのね。本当に許せない。すぐに警察に行きましょう。傷害事件です。絶縁して治療費と慰謝料も請求します」 「気持ちは嬉しいけど、少し待ってちょうだい」 「なぜですか。あんな奴を許せません」 「警察沙汰にしたら、あの子の傷に塩を塗るわ。まずは心のケアを優先したいの」 … Read more

19 September 2026

「ねえ、ひろ。今度の休みにお見舞いに行きたいんだけど、具体的な曜日を言ってくれない?」その一言から、私の日常は音を立てて崩れ始めた。夫がくも膜下出血で倒れて二週間、意識が戻ったと聞いて駆けつけたいだけなのに、義理の娘は「土曜日ならいいけど、その日はダメよ」と冷たく言い放った。「どうして私が夫のお見舞いに行くのに、あなたの許可をもらわないといけないの?」と問い返すと、彼女は「勝手なことをしたら…

「ねえ、ひろ。今度の休みにお見舞いに行きたいんだけど、具体的な曜日を言ってくれない?」 「土曜日ならいいけど、その日はダメよ。別の日にしてもらえる?」 「ねえ、これってやっぱり変だよ。どうして私が夫のお見舞いに行くのに、あなたの許可をもらわないといけないの?」 「そういう約束をしたでしょ。お見舞いは週に一回、私が許可した日だけって。あなたがそうしないと許さないって言うから、そうしたんでしょ。だったら約束を守りなさいよ。勝手なことをしたら本当に許さないからね。お父さんがくも膜下出血で倒れたのは、あんたのせいなんだから。本当なら、あんたなんかにお父さんを合わせたくもないわ」 「そんなこと言われても困るわよ。くも膜下出血は誰にでも起こり得るもので、具体的な原因があるわけじゃないの。私が原因だっていうのは間違ってるわ。お医者さんだってそんなことは言ってなかったし」 「あんたが家で何もせずにだらだらしてるから、お父さんがあんたの分まで働かないといけなくて、そのストレスで倒れたに決まってるでしょ。それなのに、あんたは全然反省もしてないし」 「専業主婦をしてるのは、お父さんと話し合って決めたことよ」 「そんなの関係ないわ。私はここまでお父さんを追い詰めたあんたを許さない。それに、まだ意識が回復したばかりで、喋るのも疲れるんだから。家族しか会わせないようにするべきなのよ」 「それは私だって説明を聞いてるから分かってるわよ。だからこそ、私だって会う資格があるわ」 「あんたは家族なんかじゃないの。途中から我が家に横入りしてきたくせに、偉そうなことを言わないで」 「横入りって、そんな言い方はないでしょ。確かにあなたたちにとって私は再婚相手かもしれない。でも、結婚したんだから家族で間違いないわよ」 「どうせ家事をするからって理由でお父さんに近づいたんでしょ。お父さんは離婚してから、家事と仕事で大変そうにしてたからね」 「そうね、私も力になれればいいなと思ってたわ。でも、二人の大変そうな状況を利用して入り込んだみたいに言われるのは嫌よ。そういうつもりじゃなかったんだから」 「よく言うわよ。働かないで生活するために、私たちに近づいてきたくせに」 「そんなことないって言ってるでしょ」 「仕事もしてない人間に何の価値もないのよ。そのことは自覚してもらいたいわね」 「私は家事をして家庭を支えたいと思ってるのよ」 「そんなの不要よ。誰にでもできることなんだから。とにかく、私の言いつけを守って、勝手にお見舞いに行かないでよね」 「分かったわ。また別の日を提案させてもらうわ」 翌日。 「マナ、弘樹君は意識が戻ったんだろ?もう会いに行ったのか?」 「ええ、意識が戻った日に病院から連絡があって、その時には会ってるわ。でも、そこからはお見舞いに行けてなくてね」 「あれ?なんでだ?専業主婦なら時間の融通は利くんだろう」 「ひろがダメだって言うのよ」 「ダメってどういうことだ?」 「なんか急に、お見舞いに来るなら自分の許可を取れって言い出したのよ」 「なんだそれは。そんなの聞く必要はないよ。妻なんだから、お見舞いに行っていいはずだ」 「私も何度もそう言ったんだけど、全然聞いてくれなくて。勝手に行ったら縁を切るとまで言われちゃってるのよ」 「なんでそこまで?」 「私のことが嫌いみたいね」 「嫌いって…一緒に生活するようになって5年だろ」 「そうなんだけど、やっぱり多感な時期に再婚したし、いきなり母親だと言われても受け入れられないと思うのよ。私も無理やり母親って言わせたりはしてないんだけどね。でも、関係性は全然築けてなくてさ」 「だとしても、お見舞いに自由に行かせないなんてな」 「私だって、意識を取り戻した夫と会いたいわ。でも、ひろとの関係が今以上に悪くなるのも嫌だし。全く合わせてくれないわけでもないのよ。ちゃんと指定したら合わせてはくれるから」 「それもそれで変な話だな」 「そうね。もしかしたら反抗期みたいな感じなのかも」 「だとしても、お前は母としての務めはしっかり果たしてるんだろ」 「自分なりにはやってるつもりよ」 「それにお前は、二人を支えるために仕事だってやめてるしな」 「それは別に関係ないわ。私自身もやめどきかなって思ってたところだったから。バリバリ仕事をしたいわけじゃなかったけど、プライベートな部分は充実してなかったし、やめどきとしてもいいタイミングだと思ってるの。だから、そこは全然気にしてないわよ。見返りも十分すぎるくらいもらったし。それに、やっぱり家に帰って一人は寂しいからね」 「お前が納得してるなら、それでいいんだが」 「いつかはひろと仲良くできたらいいなと思ってるんだけどね。そんなに家族のために尽くしてるのに伝わらないのは辛いわ」 「そうだな」 「いつかはお父さんとも同居できたらいいなって思ってるんだけど、まだまだ難しそうね」 「そんなのは気にしなくていいんだよ」 「だって、一人ぼっちは寂しいよ。今回の弘樹の件だってあるしさ。いきなり倒れるなんて、本当に恐ろしいなって思ったの。だから、お父さんにも近くにいてほしいのよ」 「でも、何度か行かせてもらったが、そっちの家は俺が住めるほど広くはないだろう」 「ここはそうだけど、いいところがあるのよ。向かいにいい感じの家があってね。弘樹もあんなところに住めたらいいなって言ってたから」 「そうか。まあ、でもそっちはあまり考えなくていい。マナは自分の幸せのことだけを考えておけばいいんだよ」 「家族みんなが仲良くできるのが、私の幸せなのよ」 二週間後。 「ひろ、これはあんたの仕業でしょ?」 「何がよ。馴れ馴れしく連絡してこないで。こっちは友達と楽しく遊んでるんだから」 「私の部屋にあった荷物を、家の外に捨てておいたでしょ。どうしてこんなことするのよ。嫌がらせだとしても悪質よ」 「嫌がらせじゃないわ。お父さんに近寄るだけのバカの荷物だから、捨てといたの」 … Read more

19 September 2026