「ゆみ子、上からお前を別の部署に異動させるよう命令が来たぞ」——夫が人事部長として私に告げたその一言で、穏やかな日常が崩れ去った。総務部に来て三年、私はそれなりに頑張ってきたつもりだった。なのに彼は「お前は社長の娘っていう立場だから役職につけているんだ。普通なら、お前が出している結果じゃ無理だぞ」と冷たく言い放った。「もし俺が社長になったら、お前を会社には置いておけない。こすり社員なんて我が…

「ゆみ子、上からお前を別の部署に異動させるよう命令が来たぞ」 「あら、そうなの。総務部に来てもう三年も経つものね。時の流れって速いわね」 「危機感はないのか?」 「危機感?どういうこと?」 「お前くらいのキャリアの人間が、ここまで頻繁に部署を転々とするのは異常だぞ。どこでも結果を残せていない証拠じゃないか」 「そんなことないわよ。私なりに頑張って、結果も残してきたつもりよ。実際、会社の売上はずっと右肩上がりじゃない?」 「それは父さんの手腕によるものだよ」 「まあ、それはそうかもしれないけどね」 「父さんは一台の機械でこの会社をここまで大きくした、本当にすごい人だ。俺は心から尊敬している。でも父さんももう六十八歳で、定年が近づいてきているんだ。うちの取締役は七十歳で定年って規則で決まっているからな」 「だからこそ、俺たちがしっかり頑張って、父さんが安心して会社を任せられるようにすべきだと思うんだ」 「私もあなたと同じ気持ちよ。父にはゆっくりとした老後を過ごしてほしいわ」 「そう思うなら、もっと仕事を頑張ってくれ」 「私は頑張ってるって言ってるでしょ」 「もっと目に見える成果を出してほしいんだよ」 「それは確かに出せていないかもしれないけど、私は別のところで頑張っているのよ」 「そんなのいい訳だよ。お前は社長の娘っていう立場だから役職につけているんだ。普通なら、お前が出している結果じゃ無理だぞ」 「随分ひどいことを言うのね。私の仕事ぶりをちゃんと見たこともないくせに」 「俺は人事部として社員の評価をしているんだ。その上で、お前が活躍していないと言っているんだよ」 「別に、あなたにどうこう言われる筋合いはないわ」 「もし俺が社長になったら、お前を会社には置いておけないぞ。こすり社員なんて我が社には必要ないからな」 「私がこすりだって言いたいの?」 「この結果を見れば、そう思わざるを得ないよ」 「自分の妻に対して、ずいぶん嫌な言い方をするのね」 「俺は『家族だから』みたいな甘い考えは大嫌いなんだ」 「あら、そう。だったらあなたも、ちゃんと頑張らないとね」 「俺は人事部長としてしっかり仕事をしている。これから中途採用で入ってくる社員たちをちゃんと選ばないといけないんだ。今の会社に必要な人材を見つけるという、大事な仕事をしているんだぞ」 「そう。それじゃあ、頑張ってね。私は新しい部署に移動するために、引き継ぎをしないといけないから」 「頼むから、父さんの顔に泥を塗るようなことだけはしないでくれよ」 一週間後。 「お父さん、大丈夫?お母さんから連絡があって、風邪を引いたって聞いたわ」 「おお、そうなのか。お前には心配かけたくないから、黙っていてほしかったんだがな」 「何言ってるのよ。娘なんだから、心配する権利はあるわよ」 「ちょっと体がだるいだけだ。熱も三十七度あるくらいだからな」 「仕事は他の人に任せておけばいいからね」 「そうさせてもらっているよ。ありがたいことに、優秀な人間が周りにいてくれるからな」 「みんな、お父さんのために働きたいって思っている人たちの集まりだからね」 「まさか自分がこんな立場になるとはな。ただがむしゃらに仕事をしていただけだったんだが」 「お父さんは、とっても優秀な人だと思うわ。ただ頑張るだけじゃなくて、冷静に現状を踏まえて、将来のために行動できる人よ。私はそんなお父さんを見本に仕事をしているの」 「そうか。頑張ってくれよ。お前には期待しているからな。俺も何とか定年までは頑張ろうと思っているよ」 「私も、できる限り支えるから」 「俺がいなくなってからは、お前とかけると力を合わせて頑張っていくんだぞ」 「そうね。そうしたいんだけどね」 「なんだ、喧嘩でもしたのか」 「ちょっと仕事のやり方で揉めちゃってね」 「何を揉めることがあるんだ?」 「私がコロコロと部署を変わるのが気に食わないみたいなの。結果を残していないからだって、決めつけられちゃって」 「それは大きな誤解だよ。私がそうするように言っているんだからな」 「まあでも、そのうち分かってくれると思っているわ」 「それならいいんだが。もし二人の関係が悪くなるようなら、あのことを伝えてしまっても構わないからな」 「いや、ちゃんと手順を踏んで報告するから」 「そうか」 「お父さんはそんなことを気にしなくていいのよ。それよりも、自分の将来のことをちゃんと考えて。社長を退任してから何をするかとか、プランはあるの?」 「そうだな。母さんと海外旅行でも行こうかとは話しているんだ。新婚旅行でハワイに行ったきり、一度も海外には行っていないからな。しかも、その時はまだ金がなかった時だったし、満足に楽しめたものではなかったと思うから」 「素敵。今から、どこに行くか話し合っておかないとね」 「うん。そうしないとな。でもまずは健康に気をつけて、残りの任期を全うできるように頑張るよ」 … Read more

19 September 2026

「お母さん、素材ゴミはご自分で処理してくださいよ。」その一言が、私の人生を大きく変えることになるなんて、あの時は思ってもみなかった。先月、私は第一子を出産した。退院して間もないある日、玄関に届いたのは着払いの荷物。開けてみると、錆びついた自転車だった。「これが出産祝い?不法投棄じゃなくて?」と問い詰めると、義母は平然と言った。「あなたのために近所のゴミ捨て場からもらってきたのよ」。しかも、長…

「お母さん、素材ゴミはご自分で処理してくださいよ。」 「はあ?素ゴミって何言ってるの、り子さん。」 「いや、この錆びた自転車ですよ。」 「ああ、それ。ほら、少し前に言ったでしょ、出産祝を送るって。」 「これがですか?不法投棄じゃなくて?」 「失礼ねえ。あなたのために近所のゴミ捨て場からもらってきたのよ。」 「ガチのゴミじゃないですか。しかもこれ着払いでしたよ。ゴミを受け取ってお金払うとか勘弁してください。」 「チェーンも錆びてて、フレームも曲がってて、詫び錆を感じるわよね。」 「錆しか感じてないんですよ。詫びはお家に落としてきました。」 「わがままな嫁ねえ。健一は文句なんて言わなかったのに。」 「お兄さんたちにも送ったんですか?」 「あんたと健一のとこ、出産日が一週間違いだったでしょ。だからまとめてお祝いしたのよ。」 「ちなみにお兄さんたちには何を?」 「健一、長男夫婦には六百万のワゴン車。まあ頭金の百万だけだけどね。普段からよくしてくれてるんだから当然よね。」 「私たちも相当よくしてません?冗談やめて。」 「やっぱり血のつながらない次男は頼りにならないわ。直樹、お父さんの連れなんでしたっけ?」 「実の健一と比べて役立たずなのも当然よね。」 「だから役立たずでケチなあんたらにはその自転車よ。それで十分でしょ、ケチ。」 「今、ケチって言いました?事実でしょ。毎月二十万の仕送りをしてますよね。それでケチってどこのセレブですか?」 「はいはい、知ってるわよ。」 「何をですか?」 「健一が言ってました。あの仕送り、実際は直樹と健一が共同で送ってるって。」 「はい?共同?そもそも中卒のり子さんと高校中退の直樹、あんたたちが毎月二十万も払えるわけないものね。」 「いや、あの、それ本気で言ってます?」 「健一が言うには、仕送りの半分以上が健一持ちだって。それでよくもまあ、そんな仕送りしてやってるって態度ができるわ。」 「そのお兄さん、先月うちに三万借りに来ましたよ。私が追い払ってやりましたけど。」 「負け惜しみを言うんじゃありません。負けてないんで死んでないです。」 「どけちな低学歴夫婦はすぐに嘘をつくわね。そんなにお金に困ってるならウーバーでも始めたら?私のあげた自転車使っていいわよ。」 「あんなの走り出した瞬間、地面とランデブーですよ。」 「ああ、もういいです。」 「あら、認めるのね。自分たちがどけちの低学歴嘘つき夫婦だって。」 「この件は一度直樹と話し合って、またご連絡させていただきます。」 「お好きにどうぞ。」 三十分後。 「お兄さん、いい加減にしてください。」 「り子さんじゃん。何怒ってんの?」 「お母さんから聞きました。うちからの仕送りを共同ってことにしてるって。」 「あっちゃー、聞いちゃった。悪い悪い。長男なのに仕送りしてないって母さん怒るだろう。」 「半分以上自分が出してるって嘘つく必要あります?」 「そこはほら、長男の威厳ってやつ。次男よりも金額が低いとかダサいじゃん。」 「低いってか、払ってないですからね。あと先月うちに三万借りに来た時点でダサいですよ。」 「たまたま手持ちがなかっただけだから。」 「お母さんが変な勘違いしてるんで、訂正してください。」 「嫌だよ。めんどくさい。」 「あのですね、人の善意に便乗するとか最低ですよ。」 「はいはい、悪い悪い。てか母さんから出産祝届いた?」 「錆びたボロボロの自転車が届きました。」 「うわあ、マジで送ったんだ。」 「は?あれ、俺が選んだんだよ。ゴミ捨て場で見つけたから、これ良くねって。」 「良くないですよね、どう考えても。」 「でもほら、さすがに自転車で痩せないとじゃん。」 「太ってません。てか、あれが自転車なら私の靴はフェラーリですよ。」 「まあまあ、そう怒んなって。俺たち家族だろ。困った時は助け合い。」 「法的に支えてるんですけど、もっと助けてもらっていいですか?」 「去年の母さんの誕生日を思い出せよ。」 … Read more

19 September 2026

「ハワイの結婚式、日程が決まったよ。おばあちゃんも来てほしいんだけど、大丈夫かな。」電話の向こうで孫の声が弾んでいた。費用は全部ばあちゃんが出すと伝えると、ユミは「ありがとう、絶対に幸せな顔を見せるからね」と言った。なのに数日後、見知らぬ女が家に来て「孫に見え張って、倒れたりしたら大変ですからね」と笑った。数日後、式場の控え室でユミは白いドレスを着て待っていた。開始十五分前、スマホが光った。…

「ハワイの結婚式、日程が決まったよ。おばあちゃんも来てほしいんだけど、大丈夫かな。」 電話の向こうで、孫の声が弾んでいた。娘の嫁であるユミが、今はまるで自分の孫のように可愛く思える。パスポートはあるから大丈夫よ、と答えると、ユミはほっとしたように笑った。本当に良かった、と。 「すごく楽しみなの。それにしてもハワイなんて、お金がかかるわね。全く贅沢だわ。」 「そうだよね。」 「だから費用は、ばあちゃんが出す。その分、貯金しなさい。」 「え? いやいや、何言ってるの? 結婚式なんて私たちの自己満足なんだし。」 「あんたは昔からお年玉ももらおうとしなかったでしょうが。ばあちゃんは金を出したいのよ。経済回してるんだから、いいでしょ。」 「でもさすがに全額は。」 「そんなに気になるなら、結婚式で目いっぱい幸せな顔をして、ばあちゃんを悔しがらせてみせな。」 「本当にいいの? 」 「金は持ってるやつが使えばいいのよ。大体、ばあちゃんが金を持ってても、医療費に消えていくだけなんだから、少しくらいめでたいことに使わせなさい。」 「もう、大きなお金の使い道なんて、葬式くらいしかないんだから。」 「演技でもないこと、言わないでよ、もう。」ユミの声が少し潤む。「でも、ありがとう、おばあちゃん。私が何を言っても、おばあちゃんは止まらないよね。」 「なんだい、分かってるじゃない。」 「だから、ありがたくもらうよ。」ユミは言った。「その代わり、絶対に幸せな顔を見せるからね。」 「せいぜい楽しむんだよ。」ばあちゃんは言った。「結婚式なんて、人生に一度しかないんだから。」 数日後、ばあちゃんの家に見知らぬ女が現れた。白いブラウスに上品なスカート、髪をきっちりとまとめた、いかにも気位の高そうな中年の女だった。 「鶴子さん、お久しぶりです。」 「ああ、みちこさんかい。」ばあちゃんは渋い声で応えた。「小ぶだね。なかなかお会いする機会がありませんでしたね。」 「それで、何かようかい。」 「その。」女は口元に手を当て、品良く微笑んだ。「息子から聞いたんです。式の費用、全額負担してくださるそうで。」 「ああ、その話か。」ばあちゃんは軽く手を振った。「私が勝手にやったことだよ。そちらが引け目を感じることもないし、後から引き合いに出すつもりもない。」 「あまり、そちらと関わる機会もないもんだからね。」 「それにしても、式の費用全額だなんて。」女は目を細めた。「まあ、お金持ちは違いますわね。」 「別に、ばあちゃんの義務だからそうしてるだけだよ。」 「義務ですか? 随分と余裕がおありで、羨ましいですわ。」女の声に、わずかに棘が混じる。「引退されても、そんなに余裕があるなんて。」 「人生を引退したつもりは、まだないよ。」ばあちゃんは呑気に言った。「ま、社会的には引退してるけれどね。」 「でも、鶴子さんももうお年ですし、あまり無理なさらない方がいいですよ。」女は微笑みを保ったまま言った。「孫に見え張って、倒れたりしたら大変ですからね。」 「ご心配なく。」ばあちゃんは淡々と返した。「うちは庶民ですから。そんな贅沢はできませんけどね。」 「成り上がりの方は、派手好きで大変ですわね。」 ばあちゃんはその言葉を、何も聞こえなかったかのように流した。 その頃、ユミの家では。 「ねえ、ちょっと聞きたいんだけど。」義母が、茶碗を置いて言った。「なんで結婚式、ハワイまで行く必要あるの? 」 「え、それはまあ、国内でもできるけど。」夫のケン太は、スマホから目を上げた。「でもユミが楽しみにしてるし、もう入籍したんだから、式なんてただのパフォーマンスよね。」義母は鼻で笑った。「それなのに、ハワイだなんて。」 「母さんもハワイがいいって言ってたじゃん。」 「場所じゃなくてよ。」義母の声が尖る。「あのババアの金で、贅沢するなんて恥ずかしくないの? 私、あの人嫌いなのよ。金持ちって性格悪いし、見下されてるみたいでね。しかも、自分のこと『ババア』とか言うのよ。きっとひん曲がった性格してるわ。」 「それはまあ、癖は強いよね。」ケン太は苦笑した。「確かになんか、山ん場みたいだしさ。」 「そうよ。」義母は頷いた。「きっと影で、私たちのこと『貧乏人』に行って笑ってるに違いないわ。」 「でも、もう決まっちゃったし、さすがに今からは。」 「ちょっとそこを、なんとかするのがあなたの仕事でしょ。」 「無茶言わないでくれよ。」 その日の夜、ユミからばあちゃんに電話がかかってきた。 「おばあちゃん、あのさ、ちょっと愚痴というか、相談なんだけど。」 「なんだ。」 「お母さんと、仲良くやっていけるか不安なんだ。」ユミの声は、昼間の弾んだものとは打って変って、沈んでいた。「なんていうか、ほら、やっぱり母親だし、自分の子供が大切なのはみんなそうじゃん。私は、よそ者だから。」 「そうね。」ばあちゃんは、ゆっくりと言った。「嫁姑問題は、あるでしょうけどね。」 「ま、悪い人じゃないんじゃない? 」 「そうかな。」ユミは不安げに言った。「怖いんだけど。」 … Read more

19 September 2026

「ちょっと、弘樹、どこにいるの?今日は定休日でしょ。お店の掃除をやる約束だったじゃない。」そう電話で言った瞬間、私は十五年近く連れ添った夫が、まるで別人のように冷たい声で「給料が入ったから今日はパスだ」と返してきた。私は一人で店の掃除をしながら、これまで無休で働き続けてきた日々を思い出していた。なのに彼は「お前の仕事は楽だからだろ。接客と裏方だけだし、簡単なもんだ」と笑い飛ばした。その一言で…

「ちょっと、弘樹、どこにいるの?今日は定休日でしょ。お店の掃除をやる約束だったじゃない。」 「悪いな。給料が入ったから今日はパスだ。」 「え、ちょっと待ってよ。私一人でやれって言うの?」 「若い職人が何人かいるだろ。あいつらに連絡してやらせておけばいい。」 「そんな急に呼べるわけないでしょ。一応、休みってことになってるんだから。」 「休日出勤なんてこの業界じゃ常識だよ。」 「それならあなただって働かないといけないんじゃないの?」 「俺は毎日寿司を握ってるんだぞ。おかげで店も大人気だ。そんな俺が休みの日まで働く必要があるのか?」 「私は十五年近く、無休で働き続けてるのよ。」 「それはお前の仕事が楽だからだろ。接客と裏方だけだし、簡単なもんだ。」 「そんなわけないでしょ。あなたは私の仕事をちっとも理解してないのね。」 「それはこっちのセリフだ。親父の潰れかけた店を立て直したのは俺だぞ。そのことを分かってるのか?」 「あなたもその一員だってことは分かってるわ。でも、一員でしかないって自覚してよ。店はあなただけじゃない。私も含めたみんなで立て直せたんだから。」 「そんなわけねえだろうが。俺以外が何をしようが結果は変わらなかったさ。俺の味を求めて、たくさんの常連がついてきてるんだ。」 「自信を持つのはいいけど、過剰になりすぎよ。特に最近のあなたは。」 「ようやく周りが俺を認めてくれたんだよ。」 「あんまり調子に乗らないほうがいいわ。いつか足元をすくわれるから。」 「俺がそんなことになるわけがないだろ。なめるな。」 「お願いだから。お父さんが作った店の看板に泥を塗るようなことはしないでよ。」 「あんなやつ、俺はとっくに超えてる。」 「それは大きな勘違いよ。」 「もう来ないって言うなら、別にいいさ。俺は行かないから。」 「じゃあ好きにしたらいいわ。私一人で掃除はやっておくから。でも、店の味を落とすようなことだけはしないでよね。」 「そんなことするわけがないだろう。」 一時間後、店の電話が鳴った。 「とみさん、ちょっと予約を取りたいんだけど、いいかしら?」 「エリカさん、予約は公式ホームページからお願いしますって、前回もお伝えしたはずですよ。」 「だって、それだと取れないんだもん。あなたたちの店っていつも予約がいっぱいでさ。」 「ありがたいことにそうなってます。ですけど、直接私に連絡されても困りますよ。」 「だって弘樹が、このLINEで連絡すればいつでも予約入れてやるって言ってくれたんだもん。」 「弘樹からそう言われて…二度ほどお受けしましたけど、さすがにもう無理です。あなたを入れるということは、他のお客様にご迷惑がかかるので。」 「大学時代の友達だったんでしょ?とっても仲良しだったんだから。」 「そうみたいですね。」 「だから、私の予約を断ったりしたら、弘樹に怒られちゃうわよ。それでもいいの?」 「分かりました。予約は入れておきます。ですが、これが最後だと思ってくださいね。」 「ええ、もちろんよ。これがきっと最後になると思うから。」 一週間後、とみはいつもの鮮魚店に足を運んだ。 「前田さん、お世話になっております。明日のご予約のお客様に白身魚がお好きな方がいるので、いつもより多めに仕入れさせていただきたいんですが、大丈夫ですか?」 「そうだなあ。明日ならヒラメとカンパチあたりは多めに入れられるぞ。特にカンパチは旬だから、身が締まっていいと思う。」 「ありがとうございます。では、その辺りを明日買い付けさせてもらいます。」 「分かった。すぐに出せるように準備しておくよ。」 「いつもありがとうございます。前田さんのところの魚はとにかく新鮮で、お客様からも評判ですよ。」 「そこは自信を持ってやらせてもらってるよ。何せうちには歴史があるからな。漁師との繋がりもある。」 「本当にありがとうございます。」 「でも、とみさんの店も繁盛してるんだって、俺のところまで噂が回ってくるよ。」 「本当ですか?正直、ようやく黒字になったくらいですけど。」 「おお、そうか。ずっとお前のところは大変だったからな。仙代さんは腕は一級品だったが、商売の才能はからっきしだった。そのせいで店が潰れかけてたくらいだからな。」 「でも、本当に腕も人柄も素晴らしい方でした。私、今もお父さんの握ったお寿司が忘れられません。」 「それは俺も同じだよ。あの人と一緒に仕事ができたことは誇りだった。でも、仙代さんが病気で倒れてから、ここまで立て直すとは思ってもみなかった。本当にお前は腕のある女将さんだよ。」 「いえ、私なんて本当に大したことでは…」 「旦那はどうしてるんだ?」 「一応、店には立ってくれてますけど、どんどん態度が横柄になっていってますね。周りからちやほやされて、調子に乗ってるようです。」 「まあ、そうなるだろうなとは思ってたよ。お前も大変だな。」 「最初は真面目にお父さんの下で修行してたんですけど、どんどんおかしくなって…」 「問題が何か起こる前に対処したほうがいいよ。じゃないと、今度こそ店が潰れてしまうからな。」 … Read more

19 September 2026

「ねえ、たつや、今どこにいるの?約束したホテルの近くまで来てるんだけど、受付で名前を伝えても、まだチェックインしてないって言われたんだけど。」そう電話口で言った瞬間、私はハワイのホテルのロビーで、式まであと三時間しかないことに気づいた。なのに、返ってきたのは「ああ、ごめん。それなんだけどさ、今日の結婚式、親と温泉に行くことにしてリスケしてもらえないかな」という、あまりにも平然とした一言だった…

「ねえ、たつや、今どこにいるの?約束したホテルの近くまで来てるんだけど、受付で名前を伝えても、まだチェックインしてないって言われたんだけど。」 「ああ、ごめん。それなんだけどさ、今日の結婚式、親と温泉に行くことにしてリスケしてもらえないかな。」 「ちょっと待って。今日が結婚式なんだけど。」 「いや、母さんが急に温泉行きたいって言い出してさ。せっかくだから親孝行しとこうと思って。」 「せっかく?意味わかんないんだけど。仕事で一緒の便に乗れないから、私が先に来たのに。あなた、まだこっちに来てないの?」 「来てない。まだ国内にいる。」 「信じられない。騙したってこと?」 「騙してないってば。ただリスケしようとしてるだけだよ。」 「リスケっていつ?来月とかでいいんじゃない?適当に調整しといてよ。」 「ふざけないでよ。そんな簡単にできるわけないじゃない。たつや、お願いだから今からでも来て。今ならまだなんとかなるかもしれないから。」 「え、無理無理。もう温泉入っちゃったし。個室に露天風呂が付いてるんだけど、これがすごく良くてさ。」 「そんな自慢、聞いてないんだけど。」 「なんでそんなに怒ってるの?落ち着けよ。リスケなんて、いろんな場面であるだろ。会議とか面会とかさ。」 「それと結婚式を一緒にしないでくれない?」 「なら明日の便で必ず来て。」 「明日?明日も観光する予定だし、無理だって。ていうか、ちょっとしつこくない?」 「しつこいって……これ、私たちの結婚式なんだけど。」 「だから来月やればいいじゃん。なんでそんなに切れてるの?俺の知り合いだって、結婚式がリスケになったことあったって言ってたし。母さんも昔はドタキャンなんてよくあったって言ってたよ。昔と違って今の人は我慢が足りないとか言われるけど、こういう時に焦るのは良くないぞ。」 「ふざけないで。なんなの?とにかく来てよ。」 「無理。」 「じゃあ温泉楽しんでくるわ。」 「待って。それならせめて、みんなにちゃんと説明して。ゲストはこっちに来てくれてるのよ。」 「ああ、そっか。まあ、なら体調不良とかって言っとけばいいんじゃない?」 「体調不良?あなた、今温泉にいるんでしょ。」 「細かいことはいいんだよ。どうせみんな納得するだろ。」 「私たちの結婚式なのに、あなたはそんな適当でいいの?」 「お前は真面目すぎ。もっと柔軟に考えろよ。式なんていつやっても同じだし。」 「ふざけないで。嫌なら結婚の話もなしにしてもいいんだぞ。けど、そうなって困るのはお前の方だろ。」 「なんですって?」 「俺の家庭は裕福だから、最悪、金目当ての女なんていくらでもいるんだぞ。でもお前は一般家庭だし、そこまで自分で稼いでるわけでもないだろ。」 「それは……ていうかさ、海外挙式ってやっぱ無駄だよ。今思ったけど、こんな金かけるなら国内で安く済ませればよかったわ。」 「無駄?豪華な海外挙式にしたいって言ったのは、そっちじゃなかった?」 「ああ、それ、母さんが言ってたんだよね。母さんが海外挙式なら見栄えがいいって言うからさ。でもやっぱ金の無駄だわ。母さんも国内がいいって。」 「お母さんが言ったから?」 「そうだよ。母さんの意見だし。まあ、来月は国内で安く済ませようぜ。その方が現実的だし。」 「ねえ、待ってよ。初耳だわ。金の無駄って、そんなにお金のこと気にしてたの?」 「そりゃそうだろ。お互いの親に支援してもらってるんだからさ。」 「もらっておいて、ドタキャンするって頭おかしくない?」 「ドタキャンじゃなくてリスケだってば。全然意味違うだろ。」 「とにかく式は延期だ。変な勘違い起こすなよ。全く。」 その三十分後。 「みわ、大丈夫?たつや、本当に来なかったんだね。」 「うん。信じられない。」 「でもこれで確信が持てたでしょ。」 「そうだね。ありがとう。」 「あら、予定通りお願いできる?」 「大丈夫だよ。それより、無理してない?」 「無理はしてるかな。これから色々あるし。あいつからまたLINEが来てるから、ちょっと話してくる。」 「無理しないでね。何かあったらすぐ言ってよ。私はあなたの味方なんだから。」 同じ頃、たつやから電話がかかってくる。 「あのさ、大事な話するの忘れてたわ。」 「大事な話?」 「そう。しないといけない話はたくさんあるわ。」 「分かってるじゃん。やっぱりちゃんと話さないとな。来月の式のこと。」 「はい。来月どこでやろうかとかは、また決めるだろう。今度はちゃんと俺の意見も聞けよ。」 … Read more

19 September 2026

義兄が酔った勢いで私の脇腹を蹴り飛ばした。廊下にうずくまる私に、彼は「嫁の分際で偉そうにすんな、このクズが」と吐き捨てた。痛みで涙が出たけど、私は必死に笑顔を作った。正月の親戚の集まりで、台所から酒を持ってくるのが一分遅れただけだった。義兄のケトは「俺は優しい夫で通ってるんだから黙ってろ」と鼻で笑い、帰ったら一発ずつ追加で蹴ると言った。誰にも言えない。でも、まだその時じゃない。翌日、ルミおば…

「おい、嫁の分際で親戚の集まりで偉そうにすんな。酒が切れてんだろ。早く持ってこい、このクズが」 酔いが回った義兄のケトが、廊下で立ち止まった私の脇腹をいきなり蹴った。転んだ拍子に顎まで打って、床にうずくまる。痛くて涙が出たが、必死に笑顔を作った。 「ごめんごめん。台所でルミおばさんが特大の船盛り出してくれて、つまみ食いしてたんだ」 「何言い訳してんだ。嫁の分際で俺らを待たせるなんて、何様のつもりだ。サボってたらもう一発蹴るぞ」 「うわ、やめて。痛いのやだよ」 立ち上がって頭を下げると、ケトは得意げに鼻で笑った。 「さっきの件、誰にも言ってないだろうな」 「言うわけないじゃん」 「俺は優しい夫で通ってるんだから、黙ってろよ」 「相変わらず、サッカー選手並みのいい蹴りするね」 「せっかくのめでたい正月に、恥をかかせるから気合を入れてやったんだ」 私は笑顔のままうなずいた。痛い。苦しい。今すぐ逃げ出したい。でも、まだその時じゃない。 「お前の居場所は台所と廊下だけだ。犬以下だろ。飯も作るの遅いし、酒も持ってこない。芸能の一つもできない、試し切り用のゴミだ」 「相変わらずひどい言われようだね」 「俺は酔っ払い連中の酒の相手をしなきゃならないんだよ。お前はさっさと酒を持ってこい。一分遅れるごとに、帰ってから一発ずつ追加で蹴り入れるからな」 「分かった。お酒とお料理、すぐにお持ちします」 「ああ、そうだ。さっき蹴られたところ、北海道の形をした痣になってるよ。写真、見る?」 「いらねえよ。さっさと働け」 その夜、ケトは一時間ほど飲み続けた後、私に先に車へ乗ってエンジンを温めておけと言った。私は運転手として頷いたが、今度はコンビニでアイスを買ってこいと言われた。 「一番高いやつな」 「分かった。ついでに、脇腹冷やすための氷も買っていいかな。なんか腫れてきてるんだよね」 「そんなの唾つけときゃ治る。甘えんじゃねえよ」 私はそのまま車に乗り、コンビニへ向かった。その間、ルミおばさんから電話がかかってきた。 「リッカちゃん、どこ?おせちを用意したのに、どこにもいないから」 「今、車でコンビニに来てます。ケトがアイスを食べたいそうです」 「うちの冷凍庫にいくらだってあるわよ」 「高級アイスしか食べないんですって」 沈黙が落ちた後、ルミおばさんが静かな声で言った。 「リッカちゃん、あのね。ケトは私の息子みたいにずっと可愛がってきたわ。でも、私には隠さないでほしいの」 「何をですか?」 「今日、廊下で思いきり蹴られてたよね。私、見ちゃったの」 「……そうだったんですか。参ったなあ」 「笑い事じゃないでしょ。倒れた後もヘラヘラ笑ってたよね。どうして普段からあんなことをされてるような感じに見えたよ」 「まあ、そうですね。いつものことなんで」 「女性に手を上げるなんてありえない。さっさと離婚した方がいいわ。病院と警察にも行くのよ」 「そうですね。考えておきます」 「何を呑気なことを言ってるの?笑ってやり過ごしたって、何も解決しないわ」 「私だって楽しくて笑ってるわけじゃありません。痛いです。苦しいです。今すぐ逃げ出したいんです」 「だったら今すぐ行動しないとだめよ」 「今じゃないんです。分かってください」 「でも、取り返しのつかない事態になったらどうすんの?」 「そうならないために頑張ってるんです」 「どういう意味?」 「アイスが溶けると怒られちゃうんで、一旦戻ります。話はその時に」 「分かった。気をつけてね」 翌日、ルミおばさんが実家に礼の連絡をしてきた。お酒の土産まで持ってきたことへの感謝だった。ケトは電話の向こうで、なんとなく含みのある態度に気づいた。 「お前、ルミおばさんに何か言ったか?」 「つまみ食い仲間だけど、何も言ってないよ。どうしたの?」 「なんか変なんだよ。珍しくLINEしてきた。『リッカちゃんの笑顔を絶対に奪っちゃだめよ』ってさ」 「私の百万ドルのスマイルで魅了しちゃったのかな?」 「調子に乗んな。お前が笑っていられるのは、俺が養ってやってるからだろう」 「ですね。感謝してます」 「俺は今日から仕事始めだって言うのにお前は呑気でいいな」 「お疲れ様です」 「なんだ、その薄い言葉は」 … Read more

19 September 2026

夫が突然「離婚しよう」と言い出したのは、何の変わりもない平日の夜だった。冷たい口調で「愛情なんてない」と。でも私は知っていた、彼が浮気していることを。すると彼は笑って「子どもを虐待した母親が何を言っても無駄だよ」と。一週間後、届いたのは離婚訴訟の通知。そして実の娘は私にこう言い放った。「あんたなんか必要ない。あんたがいるだけで苦痛だわ」。呆然とする私に、夫は慰謝料と養育費、合わせて三百八十万…

「みさ、俺らもう家庭内冷え込んでるだろ。愛情なんてないし。さっさと離婚しようぜ」 突然の夫・健一の言葉に、みさは呆気に取られた。 「離婚?あなたがそれを言うの?」 「お前だって俺に冷たいじゃないか。帰ってきても話しかけもしないし。理由は性格の不一致でいいだろう。俺も疲れたんだ」 確かに、二人の関係は冷め切っていた。しかしみさには分かっていた。この言葉が本心から出たものではないことを。 「確かに私たちの関係は冷えているわね。もう元に戻ることもないでしょう。なら離婚でいいわ。でもね、私が何も知らないと思ったら大間違いよ。何が家庭が冷めたから離婚よ。そうさせたのはあなたじゃない」 「は?何言ってるんだ?」 「浮気してるでしょう?知ってるのよ」 健一の顔色が一瞬で変わった。 「証拠があるのか?」 「つい最近気づいたばかりだけどね。浮気した方が悪いのは確かよ。離婚になったら慰謝料請求するから覚悟して」 「何言ってんだ?慰謝料を払うのはお前の方だ」 「私が何か悪いことしたってわけ?」 健一は冷たい笑みを浮かべた。 「子どもを虐待した母親が何を言っても無駄だよ」 一週間後、みさの元に一通の書類が届いた。内容証明郵便。開けてみると、そこには離婚訴訟の通知が入っていた。 「何これ?どうして私が虐待したことになってるのよ。娘に何を言ったの?」 みさはすぐに娘のひなに電話をかけた。一時間後、喫茶店で向かい合ったひなの顔は無表情だった。 「ひな、お父さんに何か言われたの?あなたが虐待されてるって言ったんだって?」 「確かにぶつかることはあったよ」 「あなたは年齢的に親の言うことが煩わしく感じることもあると思う。私のことをよく思えないのも仕方ない。だから話し合いましょう」 ひなは突然、吐き捨てるように言った。 「は?今更何なの?うざいんだよ。あんたなんか必要ない」 「え、ひな?何を言ってるの?」 「そういう母親アピール、マジできついの。いつも小言ばかりでそんなんだから離婚されるんだよ。あんたがいるだけで苦痛だわ。門限も決められて自由もないし。あれしろこれしろって、私は奴隷じゃない」 「それはあなたのためを思って…」 「相手のことを思ってたら、ぐちぐち細かいこと指摘して追い込んでもいいの?やっぱり毒親だよ」 みさは必死に言葉を紡いだ。 「そんなつもりはない。本当よ」 「あんたがどう思ってても、やってることは同じなんだよ」 「あなたはそれでいいの?このままだとパパと一緒に暮らすことになるのよ」 「パパと一緒に暮らせるなんて最高だよ。シングルマザーとか貧乏だし、そんなの笑いもの。パパはお金持ちだから困ることないし。あんたの説教を聞かなくていいなんて自由で幸せ」 「お願い、もう一度考えて。パパは浮気してたのよ。そんな人と一緒に暮らしたいの?」 「浮気?そんなわけないじゃん。言い訳ばっかり。もう二度と連絡してこないで。話すことなんてないから」 翌日、健一からの電話は勝ち誇っていた。 「何を言っても無駄だぞ。お前の味方なんて誰もいない。娘に自分の味方になれって脅すなんて、やること本当にクズだな」 「私はただ娘と話したかっただけよ。強要してるのはそっちじゃない」 「はいはい。お前の意見なんてどうでもいい。離婚慰謝料二百万円払えよ。養育費も一括で前払いしてもらうから」 「浮気したのはあなたでしょ?私が慰謝料をもらう側なのに」 「証拠もないくせに」 「そっちだって証拠がないでしょう」 「お前の虐待の証拠ならあるけどな」 みさは声を振り絞った。 「そんなのない。捏造よ。門限を守らせたのも勉強させたのも、全部ひなのためだったの」 「いやいや、やりすぎなんだよ。あの子、言わないと勉強しなくて赤点ばかりだったし、深夜に出て行って補導されたこともあったんだぞ。それが精神的虐待だってさ。娘もそう証言してるし、裁判じゃ勝てないぞ」 「信じられない…」 「見苦しいんだよ。諦めろ」 一週間後、健一からの連絡はさらに冷酷さを増していた。 「お前はどうするつもりだ?」 「そんなの、戦うに決まってるでしょう」 「まあ、お前が親権を欲しいなら慰謝料は三百万に増額だ。それが無理なら養育費を月五万円、三年分一括前払い」 「そんな金額払えるわけない」 「じゃあ親権を諦めろよ」 「私は何もしてないのに…。でも分かった。なんとかするわ。あの子に恨まれても構わない。浮気するような人に育てさせるわけにはいかない」 みさは貯金を全て使い、両親にも頭を下げて借金した。それでも足りなかった。裁判所で健一は嗤った。 … Read more

19 September 2026

「なあ、母さんの車椅子が廊下に置きっぱなしだけど、ちゃんと片付けろよ」玄関から上がるなり、夫の健一がそう言った。私はキッチンから顔を出してすぐに謝った。その日も、私はひとりで母の夕食介助をしていた。手が回らないことだってある。なのに健一は「俺は仕事してるんだよ。みさは暇だろ?」と言い放った。十八年、私はずっとひとりで介護をしてきた。それなのに、彼は浮気をして、離婚したいと言い、しかも「離婚す…

「なあ、母さんの車椅子が廊下に置きっぱなしだけど、ちゃんと片付けろよ」 玄関から上がるなり、夫の健一が第一声でそう言った。私はキッチンから顔を出し、すぐに謝った。 「ごめん、すぐ片付ける」 「介護やってるんだからちゃんとしろよ。仕事から帰ってきて、あんなの廊下にあったら邪魔なんだよ」 確かに出しっぱなしにしていたのは悪い。けれど、私はひとりで母の夕食の介助をしていたところだった。手が回らないことだってある。 「あのさ、確かに出しっぱなしにしてたのは悪いけど、お母さんの夕食の介助をしてたの。私、ひとりでやってるんだし、手が回らないこともあるわ。健一こそ、たまには手伝ってくれてもいいんじゃない?」 「はあ? 俺は仕事してるんだよ。今日だって今帰ってきたばかりだし。みさは暇だろ?」 「暇じゃないよ。介護も大変だし、お母さんの会社の手伝いもしてるし」 「会社の手伝い? 母さんが社長なのは知ってるけど、小さい会社じゃん。咲にできることなんて、どうせ雑用だろ。それで忙しいって言うのか? 俺は会社で朝から晩まで働いてるのに、お前は家にいるからストレスもないんだろ」 「そんな言い方ないよ……」 「それより、ちゃんと家のこと片付けろよ」 「……分かった」 その日の夕方、母が車椅子を動かしながら声をかけてきた。 「みさ、健一と喧嘩したの?」 「ああ、いいえ、大丈夫です」 「あの子、機嫌が悪かったし、さっき車椅子に膝をぶつけていたの。あなたに八つ当たりしてると思って」 「バレてましたか。そうなんです、少し喧嘩しちゃって。でも大したことじゃないですよ。きっと疲れてイライラしてるだけだと思いますから」 「ごめんね、みさ。迷惑かけて。あの子が介護を全部あなたに押し付けてしまって」 「お母さんが謝ることじゃないですよ。私、お母さんのこと大好きですから。それに介護は全然苦じゃないですし」 「みさ、あなたは本当に優しい子ね。十八年間も私のために尽くしてくれて、ありがとう」 「お母さん、何言ってるんですか? 私こそ、お母さんには本当によくしてもらってますから。お互い様ですよ」 翌日。母の会社で仕事をしていると、母が書類を手に言った。 「みさ、高田さんから期日の問い合わせが来てるわ。今週は立て込んでるけど、どうする?」 「待たせてしまうのはいけないので、他のスケジュールを組み直せば大丈夫です。今週中と伝えておきますね」 「分かったわ。ありがとう」 「あと、今月の請求書を作成したので、後で確認してもらってもいいですか?」 「え、もう作ったの?」 「さすがに慣れましたし、こういうのは早い方がいいと思って」 「みさ、いつも助かるわ。でもね、ここまで働いてくれてるんだから、ちゃんとした給料を出したいの。介護だけじゃなくて、会社の仕事もやってくれてるでしょ?」 「でもお母さん、私はただお手伝いしてるだけですよ。介護の延長みたいなものですし」 「あなたは立派に仕事をしてるわ。そう言ってもらえるのは嬉しいんですけど、お給料なんてもらえません。本当にお手伝い程度のことしかやってませんから。むしろ、お金をもらうような働きをしてないのにいただいてしまうのは、社員の方に気が引けてしまいます」 「分かったわ。でも、いつかは受け取ってほしいの」 「……分かりました。ありがとうございます」 その夜、健一はまた帰りが遅かった。電話をすると、彼は面倒くさそうに言った。 「ああ、仕事が立て込んでて、多分泊まり込みになる。夕飯はいらないし、先に寝てて」 「分かった。気をつけてね。……それにしても、最近そういうの多くない?」 「忙しいんだから仕方ないだろ。なんだよ、俺が遅くまで働いてるのに文句か? 家計のために頑張ってるんだぞ」 「そういうつもりじゃないわ。ありがとう」 「お前さ、もっと俺に感謝とかないの?」 「え?」 「専業主婦で養ってやってるのに、俺の相手もせず金ばっか使いやがって」 「そんな言い方、ひどいわ」 「ああ、もっと愛想のいい女と結婚すればよかった。家に帰っても、疲れた顔したおばさんがいると、やる気がなくなるんだよ」 「ねえ、さすがに言っていいことと悪いことがあるんじゃない?」 「もう少し綺麗にしてろって言ってるんだよ。お前、老けたし、鏡とか見てる? 人にどう見られてるか、もう少し気にしろよって話だろ。事実を言われて切れるなよな」 一週間後、健一は改まって切り出した。 「みさ、ちょっと話がある」 「何? どうしたの?」 … Read more

19 September 2026

息子の結婚式を目前に控えたある日、式の担当者から突然の電話がかかってきた。「お母様、式にはご参列いただけません」。一瞬、耳を疑った。私は六年かけてコツコツ貯めた六百万円を、息子の晴れ舞台のために全額出した。それなのに、だ。「あなたに親を名乗る資格はありません」。担当者の冷たい声が、今も耳から離れない。離婚して別々に暮らしていたのは事実だ。でも、私はずっと息子を支えてきた。なのに、たった六百万…

結婚式の費用、六百万円も出していただいて、本当にありがとうございます。 いいえ、いいのよ。少しでもいい式になるなら、それで十分だから。 これで本当に素敵な式になりそうです。ただ、一つお願いがあるんですけど、式にはお母さんには来ないでほしいんです。 え?何を言ってるの? 素敵な式にしたいと思ってるんですよね。だったら、どうしてそんなことを言うんですか。 そうよ、そのために私だって頑張ったんだから。 でしたら、式には来ないでください。お母さんがいると、式が台無しになるので。 ちょっと待ちなさいよ。私が参加できないなんて、ありえないわ。私は心から弘樹の式に参列するのを楽しみにしてたんだから。 申し訳ないですけど、あなたに参加する資格はありませんよ。そもそも、弘樹の親を名乗るのもおこがましいんですから。 どういうこと? あなたは離婚して、弘樹とは別々に暮らしてたんですよね。 そうね。 弘樹のお父さんは、そこから一人で育ててきたんです。だから、お父さんは参列していいですけど、あなたにはその資格はないんですよ。もしかして、お金を払えば参列できると思ってました?そんなわけないですよね。親としての責任を、あなたは全部放棄してたんです。そんな人を親と呼べるわけがないでしょう。 離婚したのは確かに私が悪かったわ。それは認める。でも、放棄したわけじゃない。私だって弘樹のそばにいたかったのよ。 今さらそんなことを言っても無意味ですよ。あなたは実際に弘樹を見捨てて、一人で生活してたんですから。結婚式費用の六百万を用意したのは立派だと思いますけど、だからって参列させるわけにはいきません。 そのお金は、どうやって集めたのかはあえて聞きませんよ。でも、どうせ借金しまくって集めたんでしょ。そんな貧乏な人に、私たちの式に来てほしくないんです。ですから、どうぞご欠席くださいね。 待ってよ。それは弘樹も知ってるの? 弘樹には私から説明しておきます。あなたも弘樹のことを思うなら、不参加でお願いしますね。 五分後。 弘、さっき由美さんから連絡があったの。 もしかして、お金のことかな?本当にありがとうな。こんな時に親を頼るなんて、社会人として情けないよ。 そんなのいいのよ。私としては、役に立てて嬉しかったんだから。 あんな大金を払わせるなんて、本当に申し訳ない。 それは別にいいんだけどね。由美さんから、式には参列してほしくないって言われたの。 え、なんで? 私にはあなたの親を名乗る資格はないって言われたわ。 そんなバカな。あいつは何を言ってるんだ? そう言われた最初は、私も反発したわ。だって、あなたの式に参列できるのを心から楽しみにしてたから。でも、ちょっと冷静になって考えたら、由美さんも間違ってないのかなって思ったの。確かに、どんな顔して参列すればいいのか分からないわよね。 母さん、何をバカなこと言ってるんだよ。父さんと離婚したのは、確かに残念だったよ。でも、俺は今でも父さんも母さんも、どっちも大好きなんだ。父さんには感謝してるし、母さんのことは尊敬してるんだよ。今の俺があるのは、母さんがいたからってのがとっても大きいんだ。俺にとって母さんは目標でもあるし、そんな母さんには、俺が結婚した姿をちゃんと見てほしいと思ってるんだ。 嬉しいわ。そう言ってくれるなら、私もやっぱり式には参列したいわ。あなたの一生に一度の晴れ舞台だからね。 それに、六百万なんて大金を出してもらっておいて、そんなことを言うなんてどうかしてるよ。向こうの方からすると、六百万は大金じゃないんじゃない?だって、そっちのお父さん、会社を経営されてるんでしょ? それはそうかもしれないけどさ。分かったよ。とりあえず、式のことは俺に任せて。 いいの? 当たり前だよ。母さんには絶対に参列してもらうから。だから、そのつもりで準備しておいて。招待状も必ず送るからさ。 ありがとう。そう言ってくれて、本当に嬉しいわ。 翌日。 突然の連絡、申し訳ありません。由美の母の秋子と申します。由美から連絡先を教えてもらいました。 初めまして。いつも息子がお世話になっております。それで、今日はどういったご要件で? それが、ちょっと困った事態になってましてね。弘樹君が由美と今、喧嘩をしてるんですよ。その原因が、あなたはもちろん分かってますよね。 私が式に参列することでしょうか? そうなんですよ。本当に困ったことになりました。私としては、どうしても式に参加したくて。 その気持ちは分かりますけど、あなたにその資格はないんです。 確かに私は長らく弘樹とは別々に暮らしてました。でも、親子の絆は今もしっかりあるんです。ですから、どうか認めてもらえないでしょうか? いえいえ、私たちが言ってるのは、そういうことじゃないんです。うちの夫は会社の社長をやってるんです。 それはもちろん、聞いております。 そして、結婚式にはいろいろな業界のVIPたちが参列してくれることになってるんです。だからこそ、参列できる人間は選ばないといけません。 選ぶ?感じが悪いですね。 要するに、底辺は来ないでと言ってるんです。 底辺ですって? だってそうでしょ。今も一人暮らしをしてるんですよね。どうせパートか、小さな会社で会社員をしてるだけの底辺に決まってます。そんな人間を、娘の晴れ舞台に来させるわけにはいきません。 どうして、そんなひどいことを言うんですか?私がどんな仕事をしていようと、関係ないでしょ。参列者の人たちだって、そんなことは気にしませんよ。 あなたは何も知らないんですよ。私たちのような上流階級の人間たちは、そういう肩書きをとにかく気にするんです。だから、私はあなたに来てほしくないと言ってるんです。何のリスクもないなら、わざわざこんなこと言いませんから。 あなただけが気にしてるんじゃないですか? そんなことないと言ってるでしょ。 一応、今回の式のために六百万円を援助したんですよ。それでも、底辺だなんて言うんですか? … Read more

19 September 2026

昨日の朝、リビングでコーヒーを飲んでいたら、健太が突然「悪いけど、やっぱり離婚してくれ」って言い出したの。今日が結婚式なのに。頭が真っ白になって問い詰めても、彼は「結婚ってめんどくせえなって。今のうちに片付けたいんだよ」の一点張り。式まであと三時間、招待客はもう会場に集まり始めてる。なのに彼は署名済みの離婚届を差し出してきた。「気づいてなかったのはお前が鈍感だからだろ」「財産分与とか面倒だし…

結婚式当日の朝、リビングでコーヒーを飲んでいた私に、健太が信じられない言葉を投げつけてきた。 「悪いけど、やっぱり離婚してくれ。」 「え、ちょっと何言ってるの? 今日が結婚式よ? 」 「いや、考えたんだけどさ。結婚ってめんどくせえなって。今のうちに片付けたいんだよ。」 「片付けるって、私たちの結婚のことを? 」 「そう。今日離婚届を出せば一番早いだろ。」 式まであと三時間。招待客はもう会場に集まり始めているというのに、彼は離婚届を差し出してきた。しかも、すでに自分の欄には署名済みだという。 「冗談でしょ? 」 「マジだって。本気で言ってる。」 「どうして急にそんなこと言うの? 何かあったの? ちゃんと説明してよ。」 「色々考えたんだ。俺たち、合わないと思う。このまま結婚生活を続けても、お互い不幸になるだけだ。」 「合わない? 今まで何も言わなかったのに、急に? 」 「気づいてなかったのはお前が鈍感だからだろ。」 「なんで今なのよ。式まで三時間しかないのに。」 「早く決断した方がいいと思って。結婚してすぐなら、お互い失うものも少ないだろう。財産分与とか面倒だしな。」 「失うもの? 私たち、式の準備に半年かけたのよ。もうすでにたくさんのものを失ってるって、分からない? 」 「まあ、そういう細かいことはいいじゃん。」 「細かいことですって? 」 私は頭が真っ白になった。式場のキャンセル費用はどうするのか、お祝いをくれた人たちへの対応はどうするのか、すべてを問い詰めたが、健太は「なんとかなるって」「適当にやればいいって」と繰り返すだけだった。 「つまり、式場にいる私に全部丸投げして、あなたは何もせず逃げるっていうの? 」 「平謝りしとけばいいじゃん。お前が考えすぎなんだよ。」 私は深く息を吸った。もう何を言っても無駄だと分かった。 「本当に後悔しないの? 」 「全然。むしろすっきりした。俺はもう決めたからさ。お前も早く決断してくれよ。」 「……分かった。」 私は携帯を取り出し、親友のちひろに電話をかけた。 「ちひろ、どうしよう。健太が急に離婚したいって。」 「え? 離婚? どういうこと? 結婚式、今日でしょ? 」 「式当日の朝に、いきなり離婚してくれってLINEが来たの。しかも離婚届はもう書いてあるから、私も書いてくれって。」 「ありえないんですけど。何それ、最低すぎる。理由は何だって言ってたの? 」 「合わないから、早めに決断した方がいいって。今まで何も言ってなかったのに。」 「そりゃショックだよ。本当に何考えてるんだろうね。もしかして、他に好きな人ができたとか? 」 「そうかもしれないね……私、何か悪いことしたのかな。」 「ひなは悪くないよ。健太さんがおかしいだけだ。」 「でも、本当に私が至らなかったのかもしれない。」 「違うって。ひなは十分頑張ってたよ。それより、もう一度話し合ってみたら? … Read more

19 September 2026