「へえ、すごいじゃん」。ソファに寝転んだまま、夫はそう言った。ニューヨーク支社で二ヶ月のプロジェクト、十日後に出発。あまりに急な話だった。でも、もっと驚いたのは彼のほうだ。「俺、ミュージシャンの夢、諦めるわ」。ずっとそばで応援してきたのに。「今度は俺が支えるから」と言った矢先、彼はスーツ代に五万円、次は交通費に一万円と、次々に私からお金を借りた。ある夜「今日は遅くなる」と連絡があり、八時間後…
会社で呼び出されたのは、いつもの午後のことだった。部長は淡々と、ニューヨークの支社で二ヶ月のプロジェクトを任せたいと言った。十日後には出発。あまりに急な話で、頭が追いつかなかった。帰宅して夫のカイトに伝えると、彼はソファにだらりと寝転んだまま「へえ、すごいじゃん」と気のない返事をした。 「二ヶ月も家を空けることになるけど、大丈夫?」 「俺もう三十だぜ。飯くらい自分で作れるって」 「そうだね。じゃあ、オルスバンは任せたよ」 彼が目指しているミュージシャンという夢は、ずっとそばで見てきた。ギターを弾き、曲を書き、ライブハウスに足を運ぶ姿を何度も応援してきた。それなのに、彼は突然こう言った。 「俺、ミュージシャンの夢、諦めるわ」 思いがけない言葉に、私は固まった。あんなに必死だったのに、それをあっさり手放そうとしている。驚いて問い詰めると、彼は「周りにも現実見ろって言われたから」と呟いた。私は、彼の決断を尊重すると伝えた。彼は「正社員になれるよう就活する」と言い、今まで自分を支えてくれたことへの感謝を口にした。 「今度は俺が支えるから」 その言葉は嬉しかった。何かできることがあるなら言ってほしいと伝えると、彼は早速、スーツを買うための五万円を貸してほしいと言った。就活用のスーツがないからだと。私はそれを渡すことを承諾し、その日のうちに彼へお金を手渡した。 それから一週間後。彼の初めての面接の日。私は仕事中、彼からの連絡を待っていた。帰宅した彼は、どんよりとした顔で「手応えがなかった。絶対に落ちた」と言った。結果が出る前から諦めかける彼に、私は「次は絶対に受かるよ」と励ました。すると彼は、就活には交通費がかかると言い出した。次の面接に行けるかもわからないと。そして、一万円を送ってほしいと言ってきた。 少し引っかかった。都内の面接なら電車代は二千円程度で足りるはずだ。そう尋ねると、彼は「就活ってお金がかかるんだよ」と繰り返した。スーツだけでなく、消臭スプレーや香水など、必要なものがたくさんあると言う。香水はやめたほうがいいと提案したが、彼は耳を貸さなかった。結局、私は貸すことを承諾した。「必ず返してね」と伝えると、彼は「出世したら十倍にして返してやるよ」と笑った。頼もしいような、ふわふわした約束だった。 その日の夜遅く、彼から「今日は帰りが遅くなる。夕飯はいらない」と連絡があった。面接がいくつかあるからだと。張り切っているのだと思った。 八時間後。私は仕事中、同僚の一人からスマホを見せられた。そこに写っていたのは、昼間から飲み屋のテラスで楽しそうに笑うカイトの姿。隣には、私の知らない女性がいた。さらに、その後ろ姿がホテルに入っていく写真もあった。 頭の中が真っ白になった。帰宅した彼を問い詰めると、彼は「他人の空似だ」と言い張った。写真は盗撮だ、消せと言う。「どこからどう見てもカイトだよ」と私が言うと、彼は「解放してもらっただけだ」と開き直った。そして、あの一万円を今日の飲み代とホテル代に使ったことを、しぶしぶ認めた。 「面接に行ったご褒美だよ」 その言葉に、私は怒りを通り越して呆れた。就活の費用として貸したお金だ。彼は「予定と違って使っただけだ」と反論したが、それがどれだけ信頼を壊す行為か、彼は理解していなかった。 「そんなに俺を疑うなら、離婚だ」 彼は怒鳴った。私は、その言葉に一瞬戸惑ったが、迷わず答えた。 「本当にいいの?」 「ああ、もううんざりだ」 私はダイニングテーブルに離婚届を置いた。「帰ったら記入しておいて。私のタイミングで提出するから」。彼は「勝手にしろ」と吐き捨て、それから「今月中に荷物をまとめて出て行け」と言う私に、慌てて言葉を引っ込めた。 「やっぱり離婚は一旦保留にしてください。俺もまだ就職も決まってないし、せめて仕事と家が決まるまでは置いてもらえませんか」 私は、二ヶ月の猶予を与えることにした。「私が海外に行っている間に出て行って。離婚届は三日以内に書いておいて」。 彼はしぶしぶ頷いた。 海外について数日後、母から突然の電話がかかってきた。母は開口一番、怒鳴った。 「モネさん、あなた、全くなってないわね!」 何のことかと問うと、母は私の家にいるという。カイトが「海外旅行に行った」と言ったらしく、心配になって見に来たらしい。「私、旅行じゃなくて出張です」と説明しても、母は信じなかった。カイトがそう言っていたから、絶対にそうだと決めつけている。 「夫を置いて出ていく妻なんて非常識よ。女は家に入って家庭を守るのが仕事でしょう」 時代錯誤も甚だしい。私はそう言い返したが、母はますますヒステリックになった。「こんな生意気な嫁は初めてだ」と怒鳴り、カイトが私に「助けてくれ」と連絡してきたと言った。私がいない間に、彼が母を呼び寄せたのだ。母は「感謝しなさい」と主張し続けた。私は通話を切った。 すると、すぐにカイトからLINEが届いた。 「お母さんを勝手に家にあげたな。しかも出張なのに旅行だって嘘ついて。どういうつもりだ?」 「謝らないからだろう」 私がそう返すと、彼は私のどこが悪いかを列挙し始めた。お金の使い道にうるさいところ。自分のことをほったらかして海外に行くところ。そして、こう言った。 「モネは下げ満だよ。知らないのか?男の運気を下げる女のことだ。俺が売れなかったのは、お前のせいだ」 彼の歌手としての失敗を私のせいにする言葉に、私は返す言葉もなかった。 「もう決めた。絶対に離婚して、上げ満の彼女を作って結婚する」 私は、彼に「帰国するまでにここを出て行って」と伝えた。彼は「言われなくても出て行ってやる」と捨て台詞を残した。 一ヶ月後。彼からまた大量のLINEが届いた。 「今月の生活費三十万円が振り込まれてないぞ。今すぐ払わないなら離婚だ」 私は、一言だけ返した。 「えっと、私もうあなたの妻じゃないんだけど。それに、今から寝るところだから邪魔しないでくれる?」 彼は「何言ってるんだ?」と動揺した。 「先月、離婚してますが」 彼は、離婚届が出されていたことにようやく気づいた。LINEを見返して、私のタイミングで出すと伝えたことを覚えているかと言うと、彼は「あれは言い争いの勢いだった」と主張した。「本心じゃなかった」と。 「でも、離婚を口にする時点で、少しはそういう気持ちがあったんでしょ」 私はそう言った。彼は「俺はモネと別れたくない」と懇願したが、私は聞く耳を持たなかった。彼は、上げ満の彼女を作ると言ったのも嘘だったと認めた。「嫉妬させたくて強がっただけだ」と。 その時、彼が保険証のことを言い出した。私の扶養に入れていたので、離婚後に保険が使えなくなったことへの不満だった。なんと、彼は離婚後に一度、病院で保険証を使用していたという。 「残りの七割は後で請求されるから、ちゃんと払うんだよ」 私がそう伝えると、彼は「詐欺だ」と怒鳴った。まったく、自分がやったことへの自覚がない。 「それに、まだ家にいるの?」 彼は「ここは俺の家でもある」と言い張ったが、私ははっきりと告げた。 「名義は私。出て行ってください。これ以上いるなら、不法侵入で警察を呼ぶから」 翌日、また電話がかかってきた。今度は母だった。 「ちょっと聞いたわよ。家から出て行けって。あんまりじゃないの?私も一緒にいるのよ」 母は、カイトが困っているからという理由で、私の家に住み着いていた。さらに、家の掃除がなっていないと文句を言い、私のお掃除ロボットの使い方を批判した。 … Read more