「恵さん、今度の息子たちの結婚式ですが、あなたたちには出席しないでいただけますか?」電話の向こうから聞こえたその一言で、私は一瞬、自分の耳を疑った。その日はいつも通り、塾の仕事を終えて自宅で夕食の準備をしていただけの、何でもない平日の夜だった。なのに、息子の婚約者の母親は、低所得者だから式に来るなと告げた。私は必死に冷静さを保ちながら「息子たちの式は一生に一度の大事な場ですよ」と食い下がった…

「恵さん、今度の息子たちの結婚式ですが、あなたたちには出席しないでいただけますか?」 私は一瞬、何を言われたのか分からなかった。息子たちの結婚式は、親として人生で最も大切な場のひとつだ。それを欠席しろと言われている。私は思わず声を荒げた。 「は?何を言っているんですか?息子たちの式は一生に一度の大事な場ですよ。怪我をされたくないんです」 「私にとっても娘の大事な式です。出席する権利はあるはずです。どうしてあなたにそんなことを言われなければならないんですか?それに、怪我ってどういうことですか?私たちはそんなことをするつもりは全くありません」 私は必死に冷静さを保とうとした。相手は息子の婚約者、ナツキさんの母親だ。ナツキさんは有名大学を卒業し、今は大手の劇場コンセルンで働いているという優秀な女性だ。義理の家族になるのだから、良い関係を築きたいと思っていた。 「ナツキさんはとても素敵な方ですよ。有名大学を卒業して、今や大手の劇場コンセルンで働いてらっしゃる。自慢の娘さんですね」 「そうよ。自慢の娘よ。そんな素敵な娘さんのご両親ですから、どんな方たちなのかとても興味があったんです。それで、先日の顔合わせで会ってみたら、本当にがっかりしましたよ」 私は息を呑んだ。まさか、そんなことを言われるとは思わなかった。 「私たちが何か失礼なことをしましたか?もしそうでしたら、謝ります」 「あなたたちの存在自体が失礼なんですよ」 「意味が分かりません」 「あなたたち二人は塾を経営されているそうですね」 「はい。ずっとやっておりますが……」 「個人経営でやってる塾なんて、大したことないでしょ。稼ぎも知れてるわ」 「そうですね。細々とやってるだけなので……」 「そんな人たちが親族になるだなんて、信じられないわ」 「どうしてですか?」 「低所得者なんて、どうしようもないクズよ。うちがどういう家か知ってる?夫は建築会社を経営してるのよ。大手との仕事だってどんどん決まってるわ。これから会社はさらに大きくなっていく予定なの。そんな私たちとあんたたちが親族になんてなっていいわけがないでしょ」 「会社の規模や稼ぎは関係ないと思います。結婚するのは息子さんとナツキさんですよ」 「私はそうは思わないわ。もちろん、これは私だけじゃなくて夫も同じ気持ちよ。あんたたちのような人間と、どうして同じ式に参列しないといけないのよ」 私は必死に言葉を選んだ。 「もし私たちが嫌だというのであれば、今後一切連絡を取らないということでいいじゃないですか。ただ、式にだけは参列させてもらいます。私たちにとっては大事な一人の晴れ舞台なんです。それを見られないなんて、悲しすぎますから」 「そんなのは関係ないって言ってるの。あんたたちは自分の娘に恥をかかせていいと思ってるの?」 「私たちの存在は恥でも何でもないです。そう思ってるのは、あんたたちだけよ」 「どうしてあんたたちから、ナツキさんみたいな素晴らしい子が生まれてきたのかしら」 「きっとすごく努力をされたのね。それも含めて、本当に素敵な人だと思うわ。ナツキさんはとてもいい子ですよ」 「それは分かってるって言ってるでしょ。それじゃあ、式には不参加って言っておきなさい」 「ナツキさんが悲しみます」 「どうせなら、嫌われる理由を伝えておきなさいよ。ナツキさんのためにも、あんたたちとは距離を置いた方がいいと思うからね」 電話を切った後、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。信じられなかった。低所得者だから結婚式に来るな。そんな理由で、人を排除しようとする人間がいるなんて。 三十分後、今度は夫が相手方の父親から電話を受けた。 「恵さんから話を聞いただろう」 「ええ、しっかりと聞かせてもらいましたよ。恵さんの話を聞く限り、納得はしてないようですが」 「当たり前でしょ。娘の式に参列するなと言われたんですよ。しかも、私たちが低所得者だからなんていう、わけの分からない理由でね。せめてちゃんとした理由なら、考えることもなくはないですけど。そんなことを言われて、誰が納得するんですか」 「暑くならないでくれ。こっちはお互いの子供たちのためを考えて言ってるんだ」 「どこがですか?」 「今回の式だが、かなりのVIPが来ることになってる。私の人脈から、有力者の人たちが参列してくれることになった。さらに、劇場コンセルンの社長さんもわざわざ式に来てくれるんだよ。社長さんがナツキさんのお祝いをしたいと言ってね。話を聞く限り、こういうことは滅多にないらしい。きっとナツキさんのことを、社長も期待してるんだろう。だからわざわざ時間を割いて参列してくれるんだ」 「だったら、親の私たちがいないと変じゃないですか?」 「そこはナツキさんがうまくやってくれるさ。ナツキさんだって、身内の恥を晒したくはないだろう」 「あなたたちが所得で人を見る人間だってことは、よく理解しましたよ。ですけど、ナツキさんをあなたたちと同類にしないでもらえますか?それはひどい侮辱ですよ」 「私たちは家族のことを第一に考えてる。息子たちを一番に考えてるんだ。その愛情が君たちには伝わらないのか?」 「当たり前でしょ。あんたたちの狙いはもう分かってるからな」 「狙いって何ですか?」 「どうせ娘を大手で働かせて、そしてうちの息子が社長になったら、二人の稼ぎを当てにして生活をするつもりだろう。そんなことは絶対に許さないからな」 「そんなつもりはありません。私たちは今の仕事を楽しくやらせてもらってます。そこまでの利益があるわけじゃないですが、生活に困ることはありませんので、できるだけ長く続けさせてもらいますよ」 「それならいいがな。低所得者の言ってることは信用できない」 「あなたたちのことだって信用できないですよ。何か狙いがあるんじゃないですか」 「そんなものあるわけないだろう。とにかく、式には絶対に来るな。低所得者は息子夫婦に関わるんじゃない」 「勝手なことを言わないでください」 そう言って、夫も電話を切った。 翌日、私はナツキさんに電話をした。彼女に正直に話すべきだと思った。 「ナツキさん、ちょっと話があるんだけど、いいかしら?」 「はい、どうかしたの?」 「準備は順調なの?」 「ええ、もちろんです。シ太さんと二人で話し合って、とてもいい準備ができてますよ。お母さんを泣かせちゃうと思うから、覚悟しててくださいね」 … Read more

15 September 2026

「今日、俺が定年なのを忘れてねえよな。お疲れ様でした。愛想もないな。まあいい。単刀直入に言うぞ。離婚だ。」…

今日、俺が定年なのを忘れてねえよな。お疲れ様でした。愛想もないな。まあいい。単刀直入に言うぞ。離婚だ。 はい。 三十年一緒に暮らして、もうお前には吐き気がしてるんだよ。顔も性格も貧乏臭いところも、お前の全てが大嫌いなんだ。 急にどうしたのよ。 今日まで私はあなたを支えてきたつもりよ。 支える?笑わせるな。毎日茶色い煮物ばかり食わせやがって。お前のせいで俺の人生はくすんでたんだよ。 それはあなたの血圧や健康を考えてのことよ。 うるせえ。その押し付けがましさが一番吐き気がするんだよ。俺は本来もっと華やかな男なんだ。お前みたいな底辺の味覚に合わせるのがマジで苦痛だったわ。 三十年もそんなふうに思ってたの?息子を育てて、やっとこれから二人でゆっくりできると思ってたのに。 お前と地獄かよ。俺はもうお前の筆跡で離婚届を出しておいた。 え?勝手に出したの?そんなの無効よ。 世間知らずは黙ってろ。受理された以上、今日から俺たちは他人なんだよ。 私はサインしてないわ。勝手に書いて出すのは確か犯罪じゃなかった? お前が黙ってれば済む話だ。もし騒いだら一文無しで追い出してやるからな。 私にもいくらかもらう権利はあるはずよ。 退職金のことなら残念だったな。俺の退職金が出るのはまだ先の話だ。今日離婚が成立した以上、今後俺の口座に入る金についてお前には一円も権利がない。 はあ。 会社の後輩で司法試験を目指してたやつに聞いたから間違いないはずだ。 そんな。三十年一緒にいて、最後がこれなの? お前との時間は人生の損失だった。これからは真実の愛に全力投資する。 ひどいこと言うのね。私の人生は何だったのよ。 知らねえよ。俺にとっては無駄な時間だったけどな。もっと早く捨てればよかったわ。 真実の愛ってことは、浮気相手がいるのね。 浮気じゃねえよ。本気だ。あの人は俺の才能を愛してくれてる。お前みたいな無能な家庭婦人とは違うんだよ。 珍しい名前ね。なんて読むの? お前は教養もないんだな。まいさんだよ。二十九歳で独立してるんだぞ。すごいだろう。 そうね。すごいと思うわ。 お前みたいに年増じゃないし、若くて綺麗だ。 私だっておしゃれくらいするわよ。 嘘つけ。お前の服は全部セール品だろ。あの人は銀座でエステを経営してて、全身ハイブランドだぞ。お前じゃ俺の格が下がるんだよ。 そんな素敵な女性が、どうしてあなたと? 悔しくて言葉も出ないか。 別に、不思議なだけよ。 強がりやがって。どうせ今頃泣いてんだろう。 そうね。泣きそうだわ。 俺らはハワイに永住するつもりだ。 英語喋れないのに大丈夫?外国人が近づいてきたら逃げるくせに。 三ヶ月ありゃペラペラになるわ。 私はこれからどうしたらいいのよ。 ここは俺とあの人の新居にするから、すぐに出ていけ。 そんな急に言われても無理に決まってるでしょ。 預金に残ってる金は当面の生活費としてお前にくれてやる。 昨日銀行におろしに行ったばかりだけど、残金は八万しかないわよ。 遠慮せず受け取れ。 八万じゃ家も借りられないわ。 知るか。あとお前のカレー臭もちゃんと消して出ていけ。 私のはダメで、あなたのカレー臭はいいの? うるせえ。俺は臭くないんだよ。 分かったわ。もう何を言っても無駄みたいね。じゃあ、このまま出ていくわね。 なんだその態度は。 別に、出ていけと言われたから出ていくだけじゃない。 捨てられて土下座しろよ。 いやよ。離婚届が出てるなら、今さら何をしても無駄でしょ。 可愛げのない女だ。最後まで俺をいらつかせるんだな。 あなたが望んだことに応じてるだけなのに、どうして怒られなきゃならないのよ。 … Read more

15 September 2026

「母さん、今年は正月、うちに帰ってあげてもいいよ」——その電話が鳴ったのは、年末の買い出しから戻った直後だった。荷物を玄関に置いたまま、私はしばらく動けなかった。嫁の直美さんは毎年、うちに来るたびに味付けから家の広さまで文句をつける人だったのに、その日は妙に機嫌がよかった。「松坂牛と特大タラバガニはマスト。布団も新品を買っといて」と笑いながら言うので、「やった。まとめて請求書を送ればいいのよ…

「母さん、今年は正月、うちに帰ってあげてもいいよ」 「あ、結構です。言葉遣いも礼儀も知らない上に、味付けから家の面積まで文句言われるんでしょ。嫌です」 「なんてひどい親なの。信じられない」 「今年は直美さんの実家で過ごすんじゃなかったの?」 「うちの両親、正月はハワイに行くんだって。一緒に行けばよかったのに」 「置いて行かれたから暇してるんでしょ?」 「そうね。でも今年は夫と二人で静かに過ごすつもりなの」 「年寄り二人だけじゃ新聞が相手じゃん。若いうちが盛り上げてあげるからさ」 「うちにミラーボールなんてないわよ」 「そんなものいらないし。ふざけないでちゃんともてなしてよね」 「そう言われても急には…」 「とりあえず条件だけ言っとくわ。私、寒いのだけは無理だから暖房ガンガンでよろしく。貸し布団もいいやつ置いといて。あと布団が古いのは不潔だから新品買っといて。それから料理はこだわってね。松坂牛と特大タラバガニはマスト。わかった?」 「…やった。まとめて請求書を送ればいいのよね」 「は?なんでうちが払うのよ」 「だって、それだけ揃えるお金なんてないもの」 「貧乏すぎるでしょ。若くて最先端を生きてる私たちと触れ合えるんだから、そのくらい投資だと思って頑張りなさいよ」 「投資先くらい自分たちで決めたいわ」 「蒼太もたまには親孝行したいって言ってるの。息子の孝行を無駄にする気?」 「まあ、息子が帰りたいって言うなら仕方ないけど、できればやめてほしいわね」 「なんてひどい親なの。夫に言いつけてやる」 数日後、夫の蒼太から電話がかかってきた。 「母さん、直美から聞いたぞ。帰るって言ってるのに、なんで断るんだよ」 「直美さんの要求がひどいからよ」 「直美は実家が金持ちなんだから、少しはあっちのレベルに合わせろよ」 「でも松坂牛に新品の布団なんて、うちにはそんな余裕ないもの」 「出し惜しみすんなよ。将来、俺たちに介護してもらうんだろう。直美に見捨てられても知らねえぞ」 「いつ誰があなたたちに介護を頼んだ?」 「そうやって強がってられるのも今だけだ。いずれ泣きついてくるのは目に見えてるんだからな」 「あなたも結婚して変わったわね。そんなことを言う子じゃなかったのに」 「嫁の機嫌がいいのが一番だって、母さんが言ったんだぞ」 「まあ、確かにそうだけど」 「だったら奮発してくれよ」 「おせちは毎年、お父さんの好きなものだけを私が作ってるから。それでいいでしょ」 「そんな安物で満足するわけないだろう。とにかく直美の機嫌を損ねないでくれ。親なら息子の幸せを一番に考えろよな」 「あなたの幸せって、親に無理をさせることなの?」 「長年暮らしてたんだから、隠し持ってる金くらいあるだろう」 「そんなものがあれば、もっと贅沢してるわ」 「借金でもしてちゃんともてなしてくれ」 「…お父さんと相談してみるわ」 翌日、蒼太がまた電話をかけてきた。 「親父、正月に帰る前に確認したいんだが。和室の金庫ってまだあるよな」 「あるけど、それがどうした?」 「暗証番号教えてくれよ」 「はあ?」 「年始から金の話で揉めたくないから先に言っとくが、生前贈与してほしいんだ」 「勝手なことを言うな」 「俺、知ってんだぜ。母さんに黙って、あの中にへそくりしてたこと」 「だったら何だ。お前には関係ない話だろ」 「どっちみち全部俺が相続するんだから。だったら今のうちに前渡ししても同じじゃないか」 「俺が働いて俺が貯めた金だ。それが目的なら正月は帰ってくるな」 「いやいや、冗談だよ。親の元気な顔が見たいだけ。金庫とか遺産とか金とか、そういうの興味ないから」 「なんだお前は。意味がわからん」 「じゃあ来週、楽しみにしてるよ」 数分後、夫が妻に言った。 「今、蒼太から変な連絡が来たぞ」 … Read more

15 September 2026

「みほ、やっほー。あんたの旦那の子、妊娠しちゃった」——五年ぶりに届いたそのメッセージを、私は台所で夕飯の支度をしている最中に読んだ。手に持っていた菜箸が止まり、心臓が嫌な音を立てた。送り主はゆき。五年前、私から婚約者を奪った元親友だった。「今度こそ勝ち組になるわ」と彼女は笑い、その夜、私は夫に全てを話した。夫は首をかしげた。「俺、浮気なんてしてないよ」——なのに、嘘をついているのは誰なのか…

「みほ、やっほー。あんたの旦那の子、妊娠しちゃった」 携帯の画面に浮かんだその文面を、私は何度も読み返した。送り主の名前を見て、五年前の記憶が一気に蘇ってくる。 「あの……どちら様ですか?」 「私だよ、ゆき。覚えてないの? 婚約者を奪った次は旦那まで奪ってごめんね」 「ゆき……どのつら下げて連絡してきたわけ? あんた、私から交際相手を奪ったくせに」 「あの時はごめんごめん。でも今回は妊娠までしちゃったから、あんたも文句は言えないよね」 「妊娠って何の話?」 「そのままの意味だよ。あんたの旦那の子供がお腹にいるの」 「意味わかんないんだけど」 「あれ? ショック受けちゃって現実が見えない感じ? まあ仕方ないか。大体、あんたには彼がいたでしょ」 「彼ってどの彼?」 「ああ、五年前に奪ったあんたの婚約者だよ。もうとっくに捨てたわ。稼ぎが悪かったからね。恋人には良かったけど、夫には無理って感じ」 「……なんで私の旦那のことを知ってるの?」 「SNSで見たのよ。結婚報告してたじゃん。すっごいイケメンだし、会社でもエース級なんでしょ。将来安泰じゃん。今度こそ勝ち組になれるわ」 「あのさ、もしあなたの言うことが本当なら、今自分で浮気してるって暴露してるのよ。それって証拠になるって理解してる?」 「証拠? そんなの残してないわよ」 「いや、だから、発言は後で消せるし捏造できるわ。ちゃんとした証拠がないと意味ないし。五年前もそれで逃げ切ったでしょ。あんた、慰謝料請求しようとしたけど、証拠不十分で訴えられなかったよね」 「私は賢いから証拠なんて残さないのよ。LINEも全部消してるし、ホテルも現金払い。写真も一切撮ってないから完璧でしょ」 「そうそう、五年前に学んだのよ。証拠がなければ訴えられないって。弁護士にも相談したけど、証拠不十分で結局まともに請求もできなかったくせに。あの時のみほの顔、今でも覚えてるわ。悔しそうだったよね。本当、傑作。今回も同じよ。証拠がないから訴えられないよね。あんた、また泣き寝入りするしかないよ。残念でした」 「それを言いにわざわざLINEしに来たわけ?」 「こっちが連絡してもずっと無視してたくせに」 「あんたの連絡とかキモいから無視するに決まってるじゃん。ていうか、あんたって本当に鈍感よね。五年前も気づかなかったし、今回も気づかなかったんでしょ。旦那が浮気してるって、もっと早く気づけば良かったのに。まあ、もう手遅れだけど。彼、私のこと本気で愛してるから。前回と同じとは思わないで」 「うわ、怖。でもあんたは私に慰謝料請求しないでしょ」 「なんですって?」 「あのさ、私、妊娠してるの。子供が生まれてこれからお金が必要になるわけ。私、母子家庭で育ったから、お金がない辛さ、分かるわ。母親が苦労してるのをずっと見てきたの。だからこの子には同じ思いをさせたくない。みほは保育士だから、お金のない子供の大変さは分かるでしょ。貧しい家庭の子供をたくさん見てきたんじゃない? そういう子供ってかわいそうよね。同じ服でずっと遊んで、いっぱいご飯も食べられない。そういう辛さ、みほなら分かるわよね。だから慰謝料とか請求しないでね」 「なんでそうなるの? 慰謝料は当然の権利じゃない?」 「そうだけど、私から慰謝料取ったら子供が貧しくなるの。結果的に子供が苦しむのよ。そんなひどい人間じゃないわよね。保育士のあんたが子供を貧しくしたいの? 子供を不幸にしたいわけ? ほら、そういう人だったんだ。あんた、本当にクズね」 「ひどい。事実を言っただけじゃん。子供に罪はないのよ。子供のためにも慰謝料請求とかやめてね」 「分かった。離婚するね」 「あ、マジで? 意外とあっさりしてるじゃん。もっと泣いたり怒ったりすると思ったのに。けど、ありがとう。話が早くて助かるわ」 「もしあなたが本当に浮気してるなら、離婚しかないもの。悔しいけれど」 「じゃあ、彼は私が幸せにするから安心して。今度こそ本物の愛を手に入れたわ。みほはまあ、頑張って。新しい人見つけなよ」 「大きなお世話よ。……なんで私の大切な人を奪うわけ? そんな恨まれるようなこと、してないでしょ」 「みほは恵まれてるんだからいいじゃない。実家も普通で、好きな仕事ができて。私はそうじゃなかった。母親が男に苦労させられるのをずっと見てきたの。だから私は賢く生きるって決めたのよ。また私に譲ってよ。五年前もそうだったじゃない。あんたいい人だから、許してくれるでしょ」 その日の夜、私は夫のたくに話を切り出した。 「ねえ、たく、ちょっと話があるんだけど」 「どうしたの?」 「私の元親友から連絡が来て、あなたの子を妊娠したって言われたの」 「妊娠? 俺の子? ちょっと待って。詳しく教えて、どういうことだよ」 三十分後、たくは首をかしげた。 「なんだよ、その話。おかしいなあ。俺、浮気なんてしてないよ」 「だよね。私も信じてる。あなたが浮気なんてするわけないって」 … Read more

15 September 2026

仕事中に母から電話が来た。通知がうるさくて無視したけど、何度も鳴るから仕方なく出た。「緊急事態だからすぐ帰ってきなさい」って。どうせ大したことじゃないと思った。帰宅すると、母の部屋が荒らされていた。服もアクセサリーも消えていた。そして、亡き父の形見の指輪も。犯人はすぐ分かった。母がパートに行っている間に、俺の嫁が売ったんだ。「ブランドバッグが欲しかったから、母さんの部屋の物を売ればいいって俺…

母さん、仕事中に電話してくるなよ。通知がうるさいんだよ。 「緊急事態だからよ。すぐ帰ってきなさい」 「ああ?なんだよ、緊急事態って」 「泥棒よ。私の部屋が荒らされて、服もアクセサリーも持っていかれたの。お父さんの形見の指輪もよ」 「なんだ、そんなことかよ。焦って損したわ」 「え?どういうこと?シ太、あなた何か知ってるの?」 「ミカがブランドバッグ欲しがっててさ。金がないから、母さんの部屋の物を売って買えばって言ったんだよ」 「嘘でしょ?じゃあ、あの指輪はミカさんがもう質屋で売って、ブランドバッグになったって言うの?」 「そうだよ。母さんがパートに行ってる間にさ。本当に最低だよ」 「あれは私とお父さんの思い出の指輪だったのよ」 「思い出で飯が食えるかよ。むしろ感謝してほしいわ。断捨離だろ。古臭いゴミ持っててもしょうがないし、部屋も片付くし、嫁も喜ぶ。SDGsってもんだよ」 「あなたって子はどこまで…。これは窃盗犯罪よ」 「はいはい。じゃあ警察に行けばいいだろ。でも行く気もないくせに何言ってんだか。母さん、親父の遺影に言ってたもんな。『これからは太のことを私が守る』って。見守ってる息子が警察のお世話になるなんて、親父もあの世で泣くわ」 「だとしても、ないでしょ!普段から文句しか言う脳がないんだから黙ってなさいよ」 「文句を言うだけのババアに支えられてるのは誰だ?俺たちの借金含めて、毎月五十万払ってるのは俺だぞ」 「そうね。ご苦労さん」 「その『ご苦労さん』は違うだろ。俺が払ってやってるんだぞ」 「だから『ご苦労さん』って言ってるのよ。あなたたちが泣きつくから仕方なく払ってるだけ。これが支えてもらってる側の態度?」 「LINEでもうるさいババアだな。借金返済ももう来月で終わりだろ。ならもういいじゃん」 「そういう問題じゃないでしょ」 「そんなに嫌なら家から出て行けば?」 「この家は私とお父さんの家よ」 「親父はもう死んでるし、母さんももう六十手前だろ。すぐに俺のものになるんだから、俺の家だよ。借金返済が終わったらもう住み着きも終わりだしな」 「もういいわ。話にならない」 「あ、出て行ってくれるの?助かるわ。少しの間、親戚の家にでも泊まるから。今あなたたちと顔を合わせたら手が出そうだからね」 「ババアのへなちょこパンチなんか怖くないけどな。その間、広々使わせてもらうわ」 「二度と帰ってこなくてもいいからね」 数日後。 「母さん、この間はごめん」 「は?シ太が私に謝る?明日は空から槍でも降ってくるのかしら」 「勘弁してくれよ。母さんが親戚の家に行ってからさ、俺たちも反省したんだ。ミカも、親父の形見を売ったのはやりすぎだったって言ってた。母さんが怒ったのも無理ないよ」 「それで謝って終わりにするつもり?あの指輪はもう帰ってこないのよ」 「分かってる。けど、このままってのも後味悪いだろ」 「後味が悪いって分かるの?そこまで立派には見えないけどね」 「そういうトゲトゲした態度やめろよ。こっちが歩み寄ろうとしてるんだから」 「随分と上からなのね。それが反省してる人の態度?」 「悪かったよ。だから罪滅ぼしをさせてほしい」 「罪滅ぼし?」 「母さんの将来のことを、ミカと真剣に話し合ったんだ。母さん、もうそろそろ限界だろ」 「何がよ」 「還暦間近なのにパートして、家のことも全部やって、しかも家は無駄に広い。しんどいんじゃないか?」 「あなたたちが老後の世話を一切しないし、家事も全く手伝ってくれないからね」 「でさ、母さん、施設に入ったらいいんじゃないか」 「は?施設?」 「将来を考えてみろよ。これから先、母さんの介護が必要になるかもしれないだろ。俺たち素人がやるより、プロに任せた方が絶対いい」 「だからって施設?私はまだ病気もないし、健康よ」 「そういう人の方が危ないんだよ。いつも健康だった人が急に…って話は聞いたことあるだろ」 「だとしても早すぎるわ。いずれ入るにしても、今じゃなくてもいいはずよ」 「俺は母さんが心配なんだよ。この提案だって母さんのためにしてるんだぞ」 「単純に私を家から追い出したいだけでしょ」 「そんなわけあるか。今回もそうだけど、今まで母さんには迷惑かけてきた。だからこそ、今のうちに親孝行がしたいんだ」 「その施設代はどこから出るの?」 「それは母さんだろ」 「親孝行なのに私が払うの?」 「その代わり、施設を探したり手続きはこっちでやるよ。ほら、親父の親友だった健一さんを覚えてるか?」 … Read more

15 September 2026

「ねえ、今日の夕飯またカレー?この前もカレーだったよね。最近手抜きすぎじゃない?」夫のその一言で、私の日常が音を立てて崩れ始めた。その日はいつも通り、家事を終えて夕食の支度をしていただけだった。専業主婦の私にとって、献立を考えるのも仕事のうち。でも夫は「察するのが妻の勤めだろ」と私を責め続けた。「俺が毎日働いてる間、お前は家で何してるんだ?」その言葉が頭から離れない。数時間後、友人に愚痴ると…

「ねえ、今日の夕飯またカレー? この前もカレーだったよね。最近手抜きすぎじゃない?」 「ごめん…。じゃあ、何がいい? 食べたいもの、作るから」 「ああ、そんなの自分で考えろよ。結婚して何年目だと思ってるんだ?」 「でも、食べたいものってその日によって変わるし…。」 「そこを察するのが妻の務めだろ。つうか、俺の意見を聞いて自分で考えるのをサボるつもりか?」 「え、そんなつもりは…。」 「なら自分で考えろよ。俺が毎日働いてる間、お前は家で何してるんだ? 専業主婦なんて楽でいいよな。家にずっといるんだし。それなのに、献立ひとつ自分で考えられないとか、ちょっと甘えてるっていうか…。なめてんの?」 「ごめんなさい。ちゃんと作るね。」 数時間後。 「ヤッホー! みさ、来週暇? ランチ行かない?」 「ありがとう。行きたい! …ちょっと夫に確認するね。」 「え、ランチの予定も許可取るの?」 「専業主婦だからさ。」 「まあ、そっか…。」 「でもさ、最近ちょっと悩んでるんだよね。夫が仕事が忙しいのは分かるんだけど。」 「おお、何? 何があったの?」 「まあ、そんなとこかな。」 「いいじゃん、教えてよ。そういう話、大好きだし。」 「…ならちょっと愚痴ってもいい? 夫が最近家事にうるさくてさ。手抜きするな、もっとちゃんとしろって。」 「うわ、何それ? 何様だっての?」 「今日なんて、家にいるのに同じメニューを作るな、って言われたのよ。献立を考える努力を怠ってる、ってさ。」 「そんなの、はいはい、って言ってやり過ごせばいいじゃん。」 「そうしたいんだけど、話が長いんだよね。もう2時間くらいその話をされてるのよ。」 「あ、ちょっと待って。2時間?」 「うん。」 「ああ、でも今日はまだましかな。この前、掃除ができなかった時は、『家にいたお前が一番汚してるのに、後始末もできないのか』って、しばらく怒られちゃって。」 「まあ、さすがにそれは後で謝ってくれたけど。」 「みさ、それ、普通じゃないよ。」 「え?」 「掃除ができなかったのって、その日だけでしょ? ちなみに、なんで掃除できなかったの?」 「体調が悪くて寝込んでて…。」 「それ、夫に話したの?」 「話したけど、『言い訳するな』って言われちゃったわ。」 「どう考えてもおかしいわよ、それ。普通、できなかった理由は聞くものだし、それが体調不良なら心配するものでしょ。」 「まあ…、暴力とかないし、まだマシだと思うんだけど。」 「みさ、おかしいこと言ってる自覚ある? DVがないのは当たり前だよ。あんた、洗脳されてない?」 「洗脳?」 「みさの実家ってDV家庭だったじゃん。だから基準がおかしくなってるんだよ。」 「そうなのかな…。洗脳とかは、ちょっと大げさだって。」 「それに、嫌なこと言ったらちゃんと謝ってくれるし、反省もしてくれるのよ。心配性だから、どこにいたかとかそういうのも聞いてくるけど…。無関心で無視されるよりは、愛されてるって感じじゃない?」 「まあ、その話はまた後でしよう。今言っても信じられないだろうし。」 「でもみさ、もし離婚するなら経済力が必要だよ。」 「離婚までは考えてないけど…。」 「今は考えてなくても、いつ必要になるかもよ。あと、選択肢の一つとしてさ。まずは自分で稼げるようになろうよ。」 … Read more

15 September 2026

「さき、今日の検診はどうだった?」その一言から、私の日常は音を立てて崩れ始めた。私は妊娠中の身で、夫と義両親との同居生活を送っていた。義母は元産婦人科看護師で、口うるさいほど私の飲酒と喫煙を注意してきた。「お酒とタバコはもうきっぱりやめたの?」「ちょっとくらいは大丈夫ってネットで見ましたし」と返すと、義母は「ダメに決まってるでしょ」と顔を曇らせた。私は「お母さんと話すのが一番ストレスです」と…

「さき、今日の検診はどうだった?」 「お母さん、どうだったも何もないですよ。至って正常、順調です。」 「本当?本当に?」 「疑うんですか?」 「じゃあ聞くけど、お酒とタバコはもうきっぱりやめたの?」 「いや、それは……」 「ああ、そんなことだろうと思った。妊婦の喫煙や飲酒は、他でもない赤ちゃんへの悪影響なのよ。」 「ちょっとくらいは大丈夫ってネットで見ましたし。」 「ダメに決まってるでしょ。何度も注意してるわよね。」 「ああ、はいはい。」 「本当に分かってるの?そうやって後悔してきた母親がどれだけいるか。」 「元産婦人科の看護師様の経験則ですか?」 「そうよ。妊娠出産を甘く見てる人は多いの。タバコやお酒が原因で流産してしまう人だって。」 「私はそうはなりませんよ。」 「その根拠のない自信はどこから来るの?本当に危険な行為なのよ。」 「てか、お母さんと話すのが一番ストレスです。」 「さきさん、あのね、細かいことで疲れるし、私が酒とタバコをやめられないのはそっちの責任です。あなたの意思の弱さの責任です。」 「母親としてもう少し自覚を持った方がいいと言ってるだけ。」 「責任転嫁やめてください。」 「してないわよ。妊婦にストレスは禁物ですよ。義理の母親が妊婦のストレスためるとか最低。この程度でストレスためるって、幸恵さんは。あなたのお母さんは何も言わないの?」 「ママはお母さんたちと違って優しいんで。ちょっとだけならって目をつぶってくれますよ。」 「それは優しいんじゃなくて甘いだけよ。子供に嫌われるのが怖くて母親ができますか?」 「そうやって何でもかんでも厳しくするから。お母さんって考え方が古いですよね。」 「なんですって?」 「今の時代、子供の自主性を重んじるのが主流なんで。押し付ける教育は時代遅れです。」 「あなたはむしろ大人の自覚を持ちなさい。何が悲しくて息子の嫁を叱りつけないといけないの?」 「嫌ならやめてくださいね。」 「やめさせてくれないのはそっちでしょうに。私はお母さんとは違って子宮を刺激してるんです。今も胎教中なんですよ。」 「胎教?お腹の子に音楽とか聞かせるってやつ?」 「そうそう、それです。この子にはモーツァルトとかベートーヴェンのいい感じの音楽を聞かせてます。」 「いい感じって何よ。」 「小学校の頃、授業で聞いたことあるし。あれでしょ?有名なんでしょ?義務教育で何を習ってきたの?」 「ついでに英語もリスニングさせてます。バイリンガルで東大卒のエリートに育てるんで。」 「子供の自主性はどこ行ったのよ。押し付けてるのはあなたの方じゃない。」 「ああ、説教とかいりません。時代遅れのババアのお節介とか一番迷惑なんで。」 「それはお節介とかじゃなくて、あなたと赤ちゃんのためを思って言ってることなのよ。」 「だからそれが押し付けだって言ってるんですよ。まあいいんで黙っててください。」 三十分後、裕子が幸恵のもとを訪ねてきた。 「幸恵さん、さっきさきさんから聞きました。喫煙や飲酒を見逃しているそうですね。」 「あら、裕子さん。聞いたって何よ?」 「これはダメですよ。ストレスが溜まると良くないって言うから、だから何だって言うんですか?」 「だって、あまりきつく言ったらさきがかわいそうじゃない。」 「かわいそうって?一番かわいそうなのはお腹の赤ちゃんですよ。最悪の場合、障害が残るかもしれないんです。それに流産のリスクだって高まるんですよ。」 「でもさきは、少しなら平気だってネットで見た程度の知識を信じるんですか?冗談やめてください。」 「だからってねえ、裕子さんみたいに厳しくして嫌われたくないし。」 「呆れた。それが母親の言うことですか?自分が嫌われたくないから、子供や孫を危険にさらして。親なら嫌われてでも止めるのが優しさでしょう。」 「うーん、でも……」 「でもも何もありません。赤ちゃんに何かあった時、責任が取れるんですか?」 「だけど、私が朝に強く言うなんて今までやったこともないし、虐待みたいじゃない。」 「二十五歳の娘相手に何言ってるんですか?今さきさんがやってることの方が虐待ですよ。」 「そんな大げさな。お腹の中の子に暴力を振ってるわけでもないのよ。」 「子供の将来を根本から壊しかねないんです。これ以上の虐待はありません。」 「分かった、分かったわ。私の方から少し言ってみます。それでいいでしょう?」 「今まで私が何度も言ってきて、やめてないんです。タバコとお酒を取り上げるくらいしないと。言って聞くならこうなってません。」 「そんな暴力的なこと……あの子は妊娠にも熱心だし、頑張ってるのよ。」 … Read more

15 September 2026

廊下に置きっぱなしの車椅子を見た瞬間、現一の顔が歪んだ。「仕事から帰ってきて、なんでこんなものが邪魔な場所にあるんだよ」その一言で、十八年分の我慢が音を立てて崩れた。私は専業主婦で、義母の介護を一人で全部やってきた。今日も夕飯の支度で手が回らなかっただけ。なのに彼は「お前は暇だろ」と笑った。次の週、彼は「他に好きな人ができた」と離婚を切り出し、さらに「離婚しても介護だけは続けてくれ」と言った…

廊下に母の車椅子が置きっぱなしになっているのを見て、現一が眉をひそめた。 「なあ、母さんの車椅子が廊下に置きっぱなしだけど、ちゃんと片付けろよ」 「ごめん、すぐ片付ける」 「介護やってるんだからちゃんとしろよ。仕事から帰ってきてあんなの廊下にあったら邪魔なんだけど」 美咲は唇を結んだ。確かに出しっぱなしにしていたのは悪い。しかし理由があった。 「あのさ、確かに出しっぱなしにしてたのは悪いけど、お母さんの夕飯の支度をしてたの。私一人でやってるんだし、手が回らないこともあるわ。現一こそ、たまには手伝ってくれてもいいんじゃない?」 「はあ? 俺は仕事してるんだけど。今日だって今帰ってきたとこだし。美咲、暇だろ?」 「暇じゃないよ。介護も大変だし、お母さんの会社の手伝いもしてるし」 「会社の手伝い? 母さんが自営なのは知ってるけど、小さい会社じゃん。美咲が手伝えるレベルって、どうせ雑用だろう。忙しいの? それで俺は会社で朝から晩まで働いてるのに、お前は家にいるからストレスとかないだろ」 「そんな言い方……」 「それよりちゃんと家のこと片付けろよ」 「分かった」 そのやり取りの直後、母が車椅子を動かして廊下に出てきた。美咲の顔を見て、すぐに何かを察したようだった。 「美咲さん、現一と喧嘩した?」 「ああ、いいえ、大丈夫です」 「あの子、機嫌が悪かったし、さっき車椅子の膝にぶつけていたの。あなたに八つ当たりしてると思って」 「バレてましたか。そうなんです。少し喧嘩しちゃって。でも大したことはないですよ。きっと疲れてイライラしているだけでしょうし」 母は申し訳なさそうにうつむいた。 「ごめんね、美咲さん。迷惑かけて。あの子が介護を全部あなたに押し付けて」 「お母さんが謝ることじゃないですよ。私、お母さんのこと大好きですから。それに介護は全然苦じゃないですし」 「美咲さん、あなたは本当に優しい子ね。十八年間も私のために尽くしてくれて、ありがとう」 「お母さん、何言ってるんですか? 私の方こそ、お母さんには本当によくしてもらってますから。お互い様ですよ」 翌日、美咲はいつものように母の会社で事務仕事をこなしていた。母から電話がかかってくる。 「美咲さん、高田正司さんから期日の問い合わせです。今週は立て込んでいますが、どうしますか?」 「待たせてしまうのはいけないわ。他のスケジュールを組み直せば大丈夫だし、今週中と伝えて」 「分かりました。あと今月の請求書を作成したので、後で確認してもらっていいですか?」 「え、もう作ったの?」 「さすがに慣れましたし、こういうのは早い方がいいと思って」 「ありがとう。美咲さん、いつも助かるわ。でもここまで働いてくれているし、ちゃんとした給料を出したいの。介護だけじゃなくて会社の仕事もやってくれてるでしょ」 「でもお母さん、私はただお手伝いしているだけですよ。介護の延長みたいなものですし」 「あなたは立派に仕事をしてるわ。そう言ってもらえるのは嬉しいんですけど、お給料なんてもらえません。本当にお手伝い程度のことしかやってませんから。むしろお金をもらうような働きをしていないのにもらってしまうのは、社員の人に気が引けてしまいます」 「分かったわ。でも、いつかは受け取ってほしいの」 「分かりました。ありがとうございます」 その日も現一は遅かった。美咲が「今日も遅くなるの?」と尋ねると、彼は携帯の画面越しに面倒くさそうな声を出した。 「ああ、仕事が立て込んでて、多分泊まり込みかな。夕飯いらないし、先に寝てて」 「分かった。気をつけてね。それにしても、最近多くない?」 「忙しいんだから仕方ねえだろ。なんだよ、俺が遅くまで働いてるのに文句か? 家計のために頑張ってるっていうのに」 「そういうつもりじゃないわ。ありがとう」 「お前さ、もっと俺に感謝とかないの?」 「え?」 「専業主婦で養ってやってるのに、俺の相手もせず金ばっか使いやがって」 「そんな言い方……」 「ああ、もっと愛想のいい女と結婚すればよかった。家帰っても疲れた顔のおばさんがいると、やる気削がれるし」 「ねえ、さすがに言っていいことと悪いことがあるんじゃない?」 「もう少し綺麗でいろって言ってんだよ。お前、ふけたし。鏡とか見てる? 人にどう見られてるか、もう少し気にしろよって話だろ。事実言われて切れるなよな」 美咲は何も言い返せなかった。胸の奥が冷えていく感覚だけがあった。 一週間後、現一が珍しく早く帰ってきた。リビングに座り、美咲を真正面から見据えた。 「美咲、ちょっと話がある」 「何? … Read more

15 September 2026

妹が玄関に立っていた。三年前、私の夫を奪って姿を消した妹の美由だ。「お姉ちゃん、久しぶり。元気してた?」あまりにも自然な笑顔に、私は一瞬言葉を失った。彼女は実家を立て直したことを親戚から聞きつけ、夫の剛史と一緒に住ませろと言いに来たのだ。「三年前お姉ちゃんの旦那を奪ったのは私だけど。でもさ、実家立て直したって、私たちも一緒に住むからよろしく」私は自分の耳を疑った。私の人生を壊した張本人が、よ…

お姉ちゃん、久しぶり。元気してた? 私が玄関を開けた瞬間、妹の美由がニコニコしながら立っていた。何年ぶりだろう。最後に会ったのは、彼女が夫の剛史と一緒に姿を消した日以来だ。 「誰かしら。うわ、ひどい。妹の身だよ。知ってて聞いてるわ」 「今更何の用よ。ようやく謝罪する気になったわけ?」 美由は首を傾げた。 「え?謝罪?何のこと?それよりさ、親戚から聞いたんだけど、実家立て直したんだって。すごいね。やっぱりお姉ちゃんは成功してる」 「で、だから何が言いたいのよ」 「あのさ、三年前お姉ちゃんの旦那を奪ったのは私だけど。でもさ、実家立て直したって、私たちも一緒に住むからよろしく」 私は一瞬、言葉を失った。この女は本気で言っているのか。三年前、私の人生をぶち壊した張本人が、今更実家に住ませろだと? 「住むって誰が許可したの?」 「え?許可とか必要なくね?だって元々は私たちの家じゃない。お姉ちゃんだけのものじゃないでしょ。だから住むのにお姉ちゃんの許可とかいらないじゃん」 「でも親の許可はいるわよね。実家なんだし」 「お母さんたちは優しいからきっと許してくれるよ」 何というめちゃくちゃな理屈だ。呆れてものが言えない。 「まあいいわ。来れるなら来てみて。住所を送るわね」 「行くわよ。何が何でも行くから」 本当に来るつもりらしい。しかも、この必死さは何だ。何かあったのか。 「何があったの?」 「夫の会社が倒産して、本当に困ってるのよ。アパートの家賃も払えなくて、追い出されそうなの」 「ああ、剛史の会社が潰れたのね。それは大変そう」 「大変なんてもんじゃないわ。だからうちに逃げてくるわけ。実家なら家賃かからないし、お姉ちゃんは弁護士事務所まで持ってるんでしょ。依頼者もたくさんいて、稼ぎもすごいんだって親戚から聞いたわよ。実家まで立て直せるくらいお金あるんだから、私たちくらい助けられるわよね」 よく調べたものだ。私がどれだけ稼いでいるかまで知っているのか。余裕のない人間に助けを求めても無駄だと思ったから調べたのだろう。 「そういうとこだけしっかり常識あるの、本当何なのよ」 「それに、父さんが倒産した原因って何だったの?助けて欲しいなら事情くらい話せるでしょ」 「経理担当の人がミスしちゃったみたいで。帳簿の数字が合わなくて、それも結構何回もミスがあったみたいなの。そのせいで取引先との契約も切れたらしくて」 「って、あなた働いてなかったの?会社の手伝いすらしてなかったの?」 「私、全然わかんないわよ、そういうの。経理なんて専門家の仕事だし。社長夫人なんだから、家で待ってるのが仕事でしょ」 ああ、なるほど。だからか。この女は三年前と何も変わっていない。剛史もそうだ。彼は自分の妻に仕事の話をしなかった。むしろ、そういう役割を求めていたのだ。 「そういう考えなのね。じゃああなたは倒産には関係なかったわけね」 「剛史は本当に真面目に経営してたのよ。社員の給料だってちゃんと払ってたし、取引先にも誠実だったし。そういえば、あいつ会社の人間にはいい顔してたっけ」 「でも自分のせいで会社が潰れたって思い悩みそうよね。その経理担当の人は今どうしてるの?」 「その人も仕事探してるみたい。気の毒よね」 「社員みんな気の毒じゃない。働き口がなくなったんだし。あなただって今生活に困ってるんでしょ。でも私は剛史を責めるつもりはないよ」 私がそう言うと、美由は目を丸くした。 「え?あなたが真っ先に責めそうなのに」 「私を何だと思ってるの?」 「姉の夫を略奪した最低の性格ブス女。きっと」 「妹にひどいこと言うのね。大体、誰だってミスはするし、責めても仕方ないじゃない」 「随分優しくなったじゃない」 「当たり前でしょ。お姉ちゃんと違って私は思いやりがあるのよ」 「思いやりがある人は、略奪なんてしないし、平気で実家に住ませろとか言わないわよ」 「実家なら家賃かからないもん。それにお姉ちゃんは実家立て直せるほどお金あるんでしょ?別の家を借りればいいじゃない」 「なぜそうなるのよ。私たちが実家に住むんだから。お姉ちゃんは気まずくて出ていくわよね。元夫婦が同じ屋根の下なんてありえないし」 ああ、やっぱり性格はそのままね。むしろ、この図々しさに安心した。 「住所は送るから、どうするかはそっちで決めてね」 一時間後、美由は剛史に興奮気味に報告していた。 「剛史、やったよ。お姉ちゃんが住所送ってくれた。来週引っ越せるわ。ホームレスにならずに済むよ」 「本当か?これで住む家に困らないな。いや、助かったけど。でも顔を合わせるのは気まずいな」 「え?何気にしてんの?堂々としてればいいじゃん。それに、きっとお姉ちゃんも気まずくてすぐ家を出てくわよ」 「そうなのか?」 「普通に考えてお姉ちゃんの方が出ていくでしょ。つまり実家は私たちが使えるってこと。お姉ちゃんは弁護士で稼いでるんだし、もっといいマンションでも借りればいいのよ」 「そうだな。それならありがたい」 翌日、私が自宅で仕事をしていると、玄関のチャイムが鳴った。開けると、そこには剛史が立っていた。 「あら、久しぶり。美由から話は聞いてる。実家に住ませてくれるそうだな。感謝するよ」 「随分と図々しいのね。三年前のことを反省してないの?」 … Read more

15 September 2026

夫のスーツをクリーニングに出そうとポケットを探った瞬間、見覚えのないカードが出てきた。調べるとラブホテルの会員証で、しかも先週の日曜日、ゴルフに行くと言っていた日に使われていた。「デブが喚くな。お前なんか浮気されて当然だろうが」——十年連れ添った夫の口から出たその一言で、私の日常は音を立てて崩れた。その夜、娘からも信じられない電話がかかってくる。「あんたに居場所なんてないわ。さっさと出てって…

あや、塾はもう終わったの?」「終わったよ。」「じゃあ早く帰ってきなさいよ。さすがに遅すぎるわ。」「友達とちょっと喋ってたんだよ。」「もう最近は物騒なんだから気をつけないと。」「はいはい。分かってるって。うるさいな。何でもかんでもいちいち口出ししてこないでよ。」「何でもかんでもじゃないでしょ。こんなに遅くなるなら事前に連絡しておいてよ。こっちはご飯を作って待ってるんだから。」「そんなの知らないって。」「今から迎えに行くから場所教えて。」「だめよ。絶対に来ないで。」「なんで?何か後ろめたいことでもあるの?」「そんなないから。お母さんを友達に見られるのが恥ずかしいんだよ。なんでそんなにブクブク太った人が母親だってみんなに見られたら私が恥をかくって分からないの?」「ブクブクって、そんなに太ってる?ひどいよ。」「マジで最悪なくらい太ってるから。昔は服がきれいに着こなせたくらいだったからまだ良かったけど、今のあんたはマジで見てられないから。」「そこまで言わなくてもいいじゃない。」「それくらい言わないと自分では気づかなかったんでしょ。だからはっきりと言ってあげてるのよ。あんたの存在は私にとって恥だから。私はもっと美人でモデルみたいな人が母親でいて欲しかったわ。」「でもしっかり食べることは健康的な体作りには必要だと思うの。私は気にしなさすぎだけど、あなたは気にしすぎよ。いつもダイエットとか言ってご飯をちょっとしか食べないでしょ。それだといつか倒れたりするかもしれないわよ。」「うるさい。今はそんな話はしてない。私の母親を名乗りたいのなら、その見た目をどうにかして。じゃなかったら二度と一緒に外を歩かないから。」「分かったわよ。とにかく早く帰ってきてね。」 十分後、みちこは夫のとひに電話をかけた。「ちょっといい?」「なんだよ。残業だって伝えてただろ。今もまだ仕事中なんだから連絡してくるなよ。」「あやが私の存在が恥ずかしいって言われちゃって。」「どういうことだ?」「私が太ってるのが許せないらしいのよ。」「ああ、それは俺も同じ気持ちだな。」「え、あなたまで?」「ああ、正直お前のだらしない体にむかついてるよ。どうしてそんなことになってしまったんだ。」「私は昔から美味しいご飯屋を見つけるのが趣味で、最近は出前でも色々なものを注文してるから。でもそれは友達も喜んでくれてたじゃない。」「だとしても太られるのは全然違う。」「あなただってお腹が出てるし。」「俺は別にいいんだよ。俺は社会で戦っててストレスがあるんだ。」「私だって仕事はしてるわ。」「単なるパートタイマーのくせに偉そうなことを言うな。」「でもそれは家計のために仕方なかったから。」「俺が言ってるのは、時間に余裕があってストレスもないくせにバクバク食って太ってるのが許せないってことだよ。俺は豚の餌を買うために仕事してるんじゃないんだ。」「ひどい。それはさすがに言いすぎよ。自分の奥さんのことを豚呼ばわりするなんて。」「それが嫌なら痩せてみろ。お前のために仕事してると思うと気が滅入るんだよ。俺は今、娘の幸せのために仕事をしてると自分に言い聞かせながらやってるんだ。」「何よそれ。」「お前は我が家じゃそういう存在だってことだ。嫌なら努力をちゃんとしろ。だらしない奴を俺は妻とは認めないからな。」「もういい。」 三日後、みちこは友人のはるみと食事をしていた。「みちこ、今度の休みにまたご飯に行きましょうよ。どこかおすすめのところない?あなたのおすすめなら間違いなしだからさ。」「ヘルシーなところでもいい?」「私は全然いいけど、急にどうかしたの?」「ちょっとダイエットをしててね。」「ええ?なんでまた?」「さすがに太りすぎてる気がして。」「みちこがそんなこと気にするなんてね。でもあなたの体型は年齢からしたら普通だと思うよ。私も年と共に丸くなってきてるから。」「でも娘と夫から怒られちゃってさ。」「そうなの?」「うん。娘から、母親だって周りに思われるのが恥ずかしいって言われて。」「うわ、それは結構きつい言い方されたね。」「最初は腹立ったんだけど、恥ずかしい思いをさせてたのなら申し訳ないって思って。」「みちこの娘って今高校生でしょ?」「うん。十六歳よ。」「それは単なる反抗期だって、そこまで気にすることないよ。」「そうかな。でも夫からもきついこと言われたし。」「そうなんだ。」「だって豚だって言われたしね。」「ああ、それ本当?」「そうよ。最低でしょ。」「最低すぎるでしょ。あんたそんな男とこの先も一緒にいるつもり?」「ちょっと待ってよ。さすがに飛躍しすぎだって。ちょっとした言い争いみたいなやつだから。」「それでも度が過ぎてるわ。私は仕事上、いろんな夫婦間の争いに関わったけど、そういうところからどんどんエスカレートしていくのをたくさん話で聞いてきたからね。それはあくまで入り口に過ぎないの。ここからひどくなると思うから。」「確かに最近、夫が冷たいんだよね。もしかしたら愛想を尽かされてるのかも。」「いや、そんなひどいことを言う旦那は、あんたが捨てるくらいじゃないと。」「それはだめよ。私は夫の稼ぎがないと暮らせないもの。それにあやのことだってあるし。」「みちこはその気になれば、いくらでも稼げるわよ。」「え?あ、嘘。」「後でその方法も教えてあげるね。」「なんかやばいやつじゃないでしょうね。」「私がそんなの教えるわけないでしょ。お金の心配ならみちこはしなくてもいいと思うよ。」「いや、だとしてもだめよ。私はあの二人のことを大切に思ってるから。嫌な思いをすることはあっても、離れ離れなんて考えられない。頑張ってかっこいい母になれるように努力するわ。」「あんまり無理はしないようにね。」「うん。ありがとう。」 三ヶ月後、みちこは夫のスーツをクリーニングに出そうとして、ポケットから見覚えのないカードを見つけた。「とひ、これはどういうことよ。」「はあ?何?」「あなたのスーツをクリーニングに出そうと思ってポケットを探ったら、ホテルのポイントカードが出てきたのよ。」「はあ、お前、何勘違いしてんだ。」「私はただ、何か大事なものが入ったままクリーニングに出さないようにしただけよ。でも何よ、このカードは。調べたらラブホテルだったじゃない。」「別にちょっと休憩に使っただけだ。」「じゃあなんで先週の日曜日にも使ってるのよ。ゴルフだって言ってたはずなのに。どうしてラブホに行ったりしてるの?そんなのおかしすぎるわ。浮気してるんでしょ。言い逃れできると思わないで。」「だったら何だって言うんだよ。」「浮気してたら何だって聞いてんだよ。開き直るつもり?」「デブが喚くな。お前なんか浮気されて当然だろうが。」「ですって。」「こっちは毎日仕事を頑張ってやってるんだ。それなのに家に帰ったらお前みたいなだらしない体系の人間がいるんだぞ。そんなのやってられねえって。こっちは何のために仕事をしてるか分からねえんだよ。だから浮気をしたっていうんだ。そうだよ。相手はモデルみたいな体系だ。誰もが羨む美人なんだよ。そいつと一緒にいる時、俺は幸せを感じられるんだ。それで仕事を頑張れてるんだから、お前にとってもメリットしかないだろうが。」「何を自分勝手なこと言ってるのよ。浮気を正当化なんてできないからね。」「うるせえ。お前の言い分なんて聞く耳持たねえよ。ちなみに今晩も俺は花江と会うからな。」「花江?それが浮気相手なのね。」「そうだ。だから邪魔だけはするんじゃねえぞ。」 十分後、あやから電話がかかってきた。「お母さん、ようやく気づいたみたいね。」「何が?」「さっきお父さんから連絡があったわ。花江さんの存在がバレたって言ってた。」「どういうこと?あなた知ってたの?」「もちろんよ。ちょっと前に紹介されたのよ。」「実の娘になんてことを。」「でもあんまりお父さんを責めないであげて。なんで?私がずっとお父さんにお願いしてたことだから。あんなデブが母親なんて恥ずかしいから、別の人と再婚してってね。」「嘘。あなたの差し金ってこと?」「そのためにお父さんが動いてくれてたのよ。そして花江さんっていう超美人な女性を連れてきてくれたの。本当にお父さんに感謝してるのよ。だからあんまりお父さんを責めないであげて。」「信じられない。」「それにあんたにお父さんを責める権利はないからね。そもそもお父さんが浮気したのは、お前に魅力がないからだろ。どう考えても浮気相手の方が美人。これからはパパと私と三人で暮らすから。」「私を追い出すつもりなの?」「そういうこと。あんたに居場所なんてないわ。父さんのお金で生活をしてブクブク太るようなだらしない人間はいりません。さっさと出てってよね。」「それがあんたの本音ってことね。」「そういうこと。」「分かった。じゃあ離婚するね。」「やった。じゃあすぐにでも出ていく準備をしないと。あんまりめんどくさいことは言わないようにしてね。さっさと離婚するのがあんたの勤めだから。」「そうさせてもらうわ。」「本当に惨めね。あんたみたいなデブは誰からも好かれないから、一生独り身の人生を歩んでくのよ。お願いだから私のことを娘とか周りに言いふらさないでよ。あんたが母親だって知られたら恥ずかしくて外を歩けないからさ。」「そうさせてもらうわ。」 二週間後、とひから電話がかかってきた。「お前、何を余計なことをしてくれてんだ?」「え?何が?」「花江に慰謝料を請求したらしいな。」「ええ、当たり前でしょ。」「慰謝料の支払いはなしってことにしたはずだ。お前が養育費を払うのを免除するのを条件にな。」「そうね。それはもちろん知ってるわよ。でも花江さんはそれとは全く別よ。その人のせいで私たちの家庭は壊れてしまったの。だからその分の責任を追求するのは当然のことだと思うけど。」「お前のせいで花江はぶち切れてるんだよ。」「私に対して怒ってるかもしれないけど、あなたには関係ないでしょ。」「俺にも怒ってるんだよ。こんな金を請求されるなんて聞いてないってな。」「でもそれはあなたも知らなかったんだから、攻めるのは的外れだと思うけど。」「俺だってそう言ったよ。でも花江は全く話を聞いてくれないんだ。それで別れるとまで言ってきて。」「そんなことで別れるなんて言ってきてるの?そもそも本当にその人は結婚する気はあったのかしら?」「当たり前だろ。だから娘にも合わせたんだ。」「だとしたらちょっと変な人を捕まえちゃったみたいね。そんなことで別れるなんて普通は言わないと思うわ。そもそもあなたが肩代わりすればいいだけじゃない。」「そう言ってるんだけどさ。」「私があなたの代わりに行ってあげようか。」「ふざけるな。そんなこと言ったら火に油だろ。」「でもあなたは話し合いが嫌いみたいだからさ。ちゃんと言ってあげた方がいいと思って。」「うるさい。お前は余計なことをするな。」「そうね。それじゃあしっかりと支払いをお願いね。」「慰謝料の請求を取り下げるとかはありえないのか?」「ないわよ。これは余計なことじゃなくて大事なことだから、しっかりとさせてもらうわ。それと離婚後のやり取りに関しては、友人のみほに任せてるから勝手に連絡してこないようにしてね。」 二ヶ月後、みちこの携帯に知らない番号から着信があった。出てみると、それはあやだった。「あんた、何やってんのよ。」「え?何が?というか、連絡してくるなんて思わなかったわ。」「私もあんたに連絡するつもりなんてなかったわよ。そういえばとひは再婚はしたの?」「いや、まだよ。そういう話は聞いてないわ。」「あら、何か揉めてるのかしら?」「そんなの知らないわよ。それよりも、あんたのことをさっき見たの。」「そっか。この辺りってあんたの通ってる塾の近くだったわね。」「そうよ。あんたの姿を見てちょっとつけたの。嫌がらせをしないでよ。」「あんたがどんな惨めな暮らしをしてるか気になったの。ゴミを漁ってるところを見つけて写真を撮ろうと思ってさ。」「そんなことするわけないでしょ。」「そしたらあんたが超高級そうな焼肉店に入ってくのを見てさ。あんたなんか焼け太りになってない?」「なんでよ。そんな高そうなお店で食事なんてできるわけないでしょ。食い逃げでもして捕まるつもりなの?」「そんな店に迷惑をかけるようなことはしないわ。しっかりとお支払いをするつもりよ。」「そんな金がどこにあんのよ。」「ありがたいことに収入が増えてるのよ。」「そんなことあるわけないでしょ。単なるパートタイマーのくせに。」「とひが全く同じことを言うのね。まあでもパートは今も続けてるわ。でも副収入ができたのよ。」「副収入?」「私が昔から美味しい店を見つけたりするのが好きだっていうのは知ってるでしょ?その店をブログとか動画で紹介してるのよ。それがかなり好評でね。そのおかげでかなりの収入を得ることができるようになったの。だから今は前よりもいい暮らしをさせてもらってるわ。」「だからそんな高級店に?」「そうよ。リサーチも込めて来てるけどね。ただ今まではどうやっても来られなかったような店に行けるようになったからね。本来なら予約すら取れないようなお店も、横の繋がりとか紹介とかで撮らせてもらえるようになったし。本当に幸せな毎日を送れてるわ。」「そんな金持ちになったんだ。」「金持ちなんて、そんな大層なもんじゃないけどね。ただ三人で暮らしてた時よりもいい生活が送れてるってのは事実ね。」「あんたなんかがそんな稼いでるなんて。」「私もこれでお金がもらえるなんて思わなかったわ。ただの趣味でやってたことなんだけど、みほが絶対に仕事になるって教えてくれたの。本当にみほには感謝してるわ。」「ねえ、今も店にいるの?」「うん。」「ちょっと私も行っていい?そこのお肉を食べてみたいのよ。」「支払いはお父さんにしてもらいなさいよ。」「いや、お母さんが払ってよ。」「お母さん?誰のことを言ってるの?もう私はあなたの母親じゃないわよ。」「そんな冷たいこと言わないでって。」「ごめんね。料理が来たから、もう何も送ってこないで。」 翌日、みほの弁護士事務所にとひから連絡が入った。「みほさん、どういうことですか?」「何でしょうか?」「昨日うちの娘があやが、みちこに会ったんですよ。そしたらあいつがとんでもない稼ぎがあるってことで。」「そうですね。動画サイトを見たらすごい再生数でしたよ。あれってとんでもない稼ぎがあるんじゃないですか。」「詳しい収益に関して私は知らないですよ。友人とはいえ、そこまで突っ込んだことは聞けませんからね。」「そんなことは重要じゃないです。俺が言ってるのは財産分与に関することですよ。」「財産分与?」「あれだけの収益があったのに、俺はその半分をもらってないんです。あなたは知ってて財産を隠したってことですか?それは許されないことですよ。」「落ち着いてください。私は後ろめたいことは何もしてません。」「ちょっと、しっかりと財産分与をしてもらいたいです。」「ちゃんと動画を見た方がいいですよ。みちこが動画配信を始めたのは、あなたたちと離婚をする三ヶ月くらい前ですよ。」「それが何ですか?」「最初からあんな再生数を稼げたわけじゃないです。みちこの動画はあなたたちと離婚した後にバズって、今の人気を獲得していたんですよ。つまりその収益はあなたたちと離婚した後に発生したものです。ですからそれは共有財産には含まれません。」「え、それじゃあ俺は一円ももらえないんですか?」「そうなりますね。」「なんだよそれ。散々俺の金で贅沢を食ってたくせに、俺には全く恩返しをしないってのか。本当にどうしようもねえやつだな。」「みちこは恩返しをするつもりでしたよ。」「は?」「みちこはあなたたちから体型のことを言われたり馬鹿にされたりしても、あなたたちのことを恨むようなことはなかったです。動画やブログを始めたのは、金銭的に二人の助けになればと思ってのことです。私は離婚しても生活できるようにと思って進めましたが、みちこはそんなことは全く考えず、あなたたちのために副業を始めたんです。そんなみちこを切り捨てたのはあなたたちでしょ。それなのにみちこに請求するなんて許されません。自分で選んだことなんだから受け入れてください。そして、これ以上あの子に関わろうとしないで。」 三ヶ月後、あやがみほの弁護士事務所に現れ、母親に連絡を取らせろと言い張った。みちこはしぶしぶ電話に出た。「あや、もうやめなさい。」「お母さん、やっと連絡をしてくれたのね。」「あんたがみほの弁護士事務所に行って、私と連絡を取らせろなんて言うからよ。みほに迷惑をかけることだけはしないで。」「だってお母さんが私を無視し続けるから。」「あなたとはもう何の関係もないのよ。だからブロックしただけ。」「そんな冷たいこと言わないで。お願い。一度会って話がしたいの。」「いや、なんでよ。」「とひは再婚をしたんでしょ。」「知ってたの?」「みほにとひがわざわざ伝えてきたのよ。それを聞いたの。だから私と会ったりしたら、花江さんが気分を悪くするわ。」「あんな人の気持ちは考えなくていいわ。」「え、なんで?だってわがままで自分勝手で私は大嫌いだから。『美人で大好き』だとか言ってなかった?見た目はいいけど中身は最悪だった。あんな人だとは思わなかったわ。」「そうだったのね。」「それでやっぱり私はお母さんのことが好きだって気づいた。だからどうしてもお母さんに会いたくなったの。」「それは迷惑な話ね。」「え、迷惑?」「そうよ。だってこっちは新しい人生を歩んでるの。それなのに付きまとわれたら迷惑でしょ?」「私はお母さんの娘なんだよ。」「離婚した時点であなたは娘でもなんでもないわ。」「そんなこと言わないでよ。どうしてそんな冷たいことを言うの?ねえ、今どこに住んでるの?よかったらそっちに私を住ませてくれない?今の家にはもう私の居場所がなくってさ。」「無理よ。こっちにもあんたの居場所はないから。」「なんでよ。」「新しい恋人ができたの。動画を見てくれてるファンだったんだけど、私のことをとても大事にしてくれてね。連絡を取るようになって付き合ってるのよ。」「恋人ができたの?」「こんな見た目の私だけど、愛してくれる人がいたわ。今はその人と幸せに暮らしてるから邪魔をしないで。」「ちょっと待ってよ。私のことを捨てるの?」「私を捨てたのはそっちでしょ?どうして私が捨てたことになるのよ。私はできる限り家族のためにやれることをやってきた。美味しいものを食べて欲しくて食べ歩きをして、その味を出せるように家で料理を頑張ったわ。」「もしかして食べ歩きをしてたのって。」「元々はあなたたちに美味しい料理を振る舞いたかったからよ。途中から趣味になったけど、最初はなんとかあなたたちを幸せにできないかっていうところからだった。それで太った私を馬鹿にして捨てたんでしょ。モデル体系のお母さんがいいって言ったのはそっちよ。なのにちょっと気に食わないからってまた私に戻ってくるなんて、虫が良すぎるわ。母親ってのはそんなコロコロ変えられるものじゃないの。そっちを選んだんなら、そっちで自分が幸せになれる方法を考えなさい。」「でも花江さんが金遣いが荒くて、私大学に行けないかもしれないの。」「そんなの私は知らない。自分で稼げばいいじゃない。」「そんな。」「それと、自分が私の娘だって外では絶対に言わないでね。あんたみたいなわがままな人間が娘だって知られたら、恥ずかしくて外を歩けないから。」 その後、あやは大学へは進学させてもらえず就職をしたが、すぐにやめてしまった。就職を機に家を出て一人暮らしをしていたが、今はぐうたらな人間とつるんで遊び回っているらしい。犯罪に手を染めるようなことだけはやめてほしいものだ。 とひは花江の代わりに慰謝料を払いつつ生活をしていたが、花江の浪費のせいで最近は生活が苦しくなってしまった。それでも浪費をやめない花江に怒りを覚えて大喧嘩をしてしまい、最終的には暴力事件を起こして警察に逮捕されてしまった。見た目だけで人を選ぶとこれだけ痛い目に会うんだと、分かってもらえただろうか。 ちなみに花江はとひと離婚して他の男に養ってもらおうとしたが、暴力を受けた傷が残ってしまったせいで、男は誰も相手にしなかったのだとか。美人だけが売りの人だったので、これから大変な人生が待っていそうだ。 一方のみちこは、新しい恋人と二人で幸せな生活を送っている。動画やブログの方は絶好調で、現在出版社から本を出さないかという話が来ていて、今はその執筆に忙しい。執筆業が落ち着いたら結婚をする予定でいる。やっぱり今の自分を心から愛してくれる人との生活は本当に幸せだ。これが一生続くことを心から願っている。

15 September 2026