母さん、俺、ナミと結婚することになったんだ——その電話のあと、両家の顔合わせで起きたことを、俺は今でも夢だと思いたい。レストランに現れたナミの母親は、うちの母に向かってこう言い放った。「うちは名門なので、中学までしか出てない人は家族とは認めません」。“普通の会社員”とだけ答えた母は、その場で黙って頭を下げた。俺は何も言えなかった。帰り際、俺の婚約者の母親が口にしたひとことが、頭から離れない。…

母さん、俺、ナミと結婚することになったんだ。 え、そうなの?ああ、昨日プロポーズしたんだ。ナミも受け入れてくれて、婚約したんだよ。 へえ、そうなんだ。あんたが結婚するなんてね。なんだか変な感じだわ。私の中じゃ、ついこの間までランドセル背負ってたんだもの。 いや、さすがにそれはないって。俺との思い出がまるでないみたいじゃん。 そんなことないわよ。でも、それだけあっという間だったってことよ。 まあ、本当に怒涛の日々だったからな。 うん、そうね。お父さんもきっと天国で喜んでくれてるわよ。 そうだといいんだけどな。 絶対にそうよ。あの人は息子の幸せを、自分のことみたいに喜べる人だったから。その顔が目に浮かぶわ。 それでさ、両家の顔合わせとかしなきゃいけないんだ。 そうね。ちゃんとした服を買っておかないとね。 いや、母さんそういうの山ほど持ってるだろ。 だめよ。あんたに恥をかかせないように、きちんとした服を着ないとね。 それでさ、ひとつ頼みがあるんだけど。 何? 母さんの仕事の話は、なしにしてもらっていい?聞かれても、適当にごまかしといてくれないかな。やっぱり、母さんの仕事が知られるのは嫌なんだ。 ごめんな。俺のしょうもないプライドのせいで。 いいのよ。そんなこと気にしないで。あんたが私のせいで辛い思いをしてきたことは、ちゃんと分かってるから。 母さんが悪いわけじゃないんだ。 私のこと、ナミさんも知らないのよね。 ああ、まだ話してないと思ってる。 そうね。奥さんになるんだから、ちゃんと話したほうがいいわよ。 あと、もうひとつ話しておきたいことがあるんだ。 何? 向こうの家ってさ、ナミしか子供がいないんだって。うちと一緒だろ。でも、なんか血筋とかそういうのを気にしてるみたいで、結婚するなら養子に入らないとダメなんだって。 ああ、そういうこと。 まだ正式に向こうのご両親から言われたわけじゃないんだ。でも、ナミはそういう話を聞かされてたんだって。 だから、多分、養子になるかどうかは聞かれると思うんだ。母さん的にどうかな? 私は全然気にしてないわよ。苗字がどうなろうと、あんたはあんたで、私の大切な息子よ。それが変わらないなら、他はどうでもいいわ。それよりも、あんたが幸せになれないほうが嫌よ。 だから、あんたがナミさんと一緒になれるなら、養子でも何でも気にしないからね。 本当? ええ、そこは気にしないでいいわよ。 ありがとう。息子らしいこと、何もできなかったけど。 あら、もう息子をやめるつもりなの?それは困ったわね。 違うって。後継ぎとか、そういうことだよ。 そんなこと、あんたが考えることじゃないわ。私のことなんか気にせずに、幸せになりなさい。それが私のいちばんの望みだから。 ありがとう。本当に、母さんの息子でよかったよ。 今度、ナミさんも連れてきて、一緒にご飯でも食べましょう。 ああ、必ず連れてくるよ。 二週間後。 初めまして。ナミの母の日高ミホです。 どうも、初めまして。ヨシの母の立花トコです。 急な連絡ですみませんね。 いえいえ、全然気にしないでください。ヨシから私に話があると聞きましたが、何でしょうか? いいえ。まずは、娘を嫁に出してくれることを受け入れてくれたことへのお礼をお伝えしたくて。 ああ、そのことですか。お気遣いありがとうございます。こちらとしては、まったく問題ありませんでしたので、わざわざお礼なんて良かったんですよ。 ごめんなさいね。うちって、それなりに名家でして、この血筋を絶やすのは良くないって、姑から口酸っぱく言われてたんですよ。 そうだったんですね。でも、本当にヨシさんって素晴らしい人ですよね。有名な大学に進学して、今は大手企業の営業マンですから。こんな素晴らしい人が娘を娶ってくれるなんて、本当に嬉しいことなんですよ。 ありがとうございます。少し頭でっかちなところもありますけど、性格は優しい子なので。 そういえば、ナミさんも同じ大学を卒業されてるんですよね。二人は大学のゼミで知り合って、仲良くなったと言ってましたよ。 そう、そう。うちの家系って、みんな名門出身者ばかりなんですよ。私も関西の方の大学を卒業してて。 ええ、立派な方たちばかりで。ナミにもその辺は厳しく言って、しっかりと勉強させたので、無事に有名大学に進学してくれてよかったですよ。少しだけ肩の荷が下りた感じがしてたんです。 いろいろと重圧があるんですね。 そうなんです。あとは結婚だなって思ってたんですけど、まさかあんな素晴らしい人を連れてきてくれるなんて、もう本当に嬉しかったんですよ。 そう言っていただけると、本当にありがたいです。 … Read more

22 September 2026

数日前、ポストに一通の書類が届いた。差出人は、二度と会いたくないと思っていた元夫・大輔の弁護士。開けた瞬間、頭が真っ白になった。そこには、私が大輔に120万円を支払えという訴状が入っていた。「は?なんで私が訴えられるのよ」。何度読み返しても意味がわからない。養育費を払う義務があるのは、私じゃなくて大輔のほうだ。離婚協議書には、彼が月5万円を払うと確かに書いてある。なのに今、彼は「お前が払え。…

弁護士からの書類が届いたのは、つい数日前のことだ。二度と会いたくないと思っていた男からの、電話じゃない。正式な訴状だった。 「は?なんで私が訴えられるのよ」 私は思わず書類を何度も読み返した。相手は元夫の大輔。請求内容は、養育費。120万円。私が払えだと?おかしいでしょ。養育費を払う義務があるのは、私じゃない。大輔のほうだ。 事の発端は、彼からのあの電話に遡る。 「おい、養育費払う約束なのに払ってねえだろう。早く払え。お袋も切れてるぞ。払わないなら訴えるからな」 突然の電話口から聞こえてきたのは、一方的な非難。意味がわからなかった。 「は?養育費?一体何の話よ」 「お前が払うもの払ってないからだろ」 「え?払うもの?私が何か払う約束してたっけ?」 私がそう返すと、向こうはますますヒートアップしてきた。 「あるだろ。子供の養育費だよ。お前が私が責任持って育てますって言っただろ。それって養育費払うってことだろ?」 「え、ちょっと待って。養育費って子供を育てるお金よね?」 「そうだよ。だから払えよ。120万円」 「うん。だから、私がもらう側なんだけど」 離婚協議書には、はっきりと書いてある。大輔が月5万円を支払う、と。私はそれを読み返しながら、なぜ彼が逆のことを言っているのか理解できなかった。 「は、離婚協議書ではあなたが月5万円払うことになってるわよ。ちゃんと読んだ?」 「でも、私が払うんだろ」 「いや、逆よ。私がもらうの」 「は?じゃあなんで2年間一度も払ってないの」 「もらう側と勘違いしていたのなら、もっと前に行ってるんじゃない?」 「それは俺も忙しくて」 あまりの主張の支離滅裂さに、私は呆れるのを通り越して笑えてきた。 「なんか矛盾してない?2年間普通だったのに、いきなりお金が欲しいだなんて」 「子供が生まれたんだよ。それで金が必要なんだ。娘はお前が勝手に連れてったから」 「連れて行ったって、私が母親なんだから当然でしょ」 「うるせえ。とにかく払えよ。今月中に120万な。じゃなきゃ訴えるからな」 「ああ、はい。どうぞ訴えてください」 「あ、え、じゃないわよ」 「だって私、悪いところ何もないもの」 「ふざけんなよ。俺は被害者なんだ。加害者が開き直るな」 翌日、今度は元姑から電話がかかってきた。 「息子から聞いたわよ。養育費を払ってないんですって。約束は守らなきゃだめでしょ」 「お母さん、離婚協議書では大輔さんが養育費を払うことになっています」 「大輔は、真剣者が養育費を払うものと勘違いしていたわ。でも実際は真剣者がもらう側よね」 「はい、そうです」 「なら、大輔がもらう側でしょ」 「はい?」 「稼いでる方が将来的に安泰だし、あなたみたいな低所得じゃ子供がかわいそうだもの。だから真剣者(育てる側)は息子のはずよ」 「や、真剣者は私です。なんでそこで大輔さんが真剣者になるんですか?」 「調べたのよ。真剣者は子供を育てる経済的余裕が必要って。それって大輔のことでしょ。だから大輔なの。法律は私の味方よ」 「お母さん、それ、まさに私のことなんですけど」 「え?真剣者が養育費をもらえるんですよね。私が真剣者なんです。それはもう決まりましたよ」 「あれ?書類を確認してませんか?」 「そういえば、真剣はあなただったかしら。でも、息子の方が稼いでるし、息子が真剣を持つべきよ」 「持つべきって言われても、もう離婚協議に署名済みですよ、私は」 「そ、そんな。じゃあ、息子が払う側ってこと?」 「はい、そうです。2年間で120万円ですね」 「120万…そんな大金、払えないわよ」 「私に言われても困ります。とにかく、真剣は息子なのよ。確認したくても、私はその調停書なんて見れないし。現実問題、収入面は息子が有利だもの。今は男性だって真剣が取れるし」 「そうよ。真剣は息子に違いないわ。だからお金はあなたが払いなさい」 「すっごい思い込みですね」 「息子のためでしょ。母親なら当然よ。払わないなら、弁護士に相談するわ」 「どうぞご自由に。むしろ弁護士さんに正しく説明してもらった方が早いかもしれませんね」 そう言って電話を切った後、私はため息をついた。話にならない。本当に話にならない。 翌週、こんどは大輔から信じられない電話がかかってきた。 … Read more

21 September 2026

「ゆうな、家誰もいないんだけど。」その声を聞いた瞬間、電話越しの優奈の頭の中には、嫌な予感しかしなかった。聞こえてくるのは、自分の家、つまり今住んでいる部屋の、しかも玄関の、ドアの開く音だ。「は、お姉さん仕事中ですから。って、え、うちに来てるんですか?」「そう、そう。ああ、今日から私と娘のメイも一緒に住むから。」姉は、実に楽しそうに、とんでもないことを言った。「窓開いてる。ラッキー。じゃあ、…

「ゆうな、家誰もいないんだけど。」 その声を聞いた瞬間、電話越しの優奈の頭の中には、嫌な予感しかしなかった。聞こえてくるのは、自分の家、つまり今住んでいる部屋の、しかも玄関の、ドアの開く音。 「は、お姉さん仕事中ですから。って、え、うちに来てるんですか?」 「そう、そう。ああ、今日から私と娘のメイも一緒に住むから。」 優奈の姉は、電話の向こうで、実に楽しそうな、そして妙に明るい声でとんでもないことを言った。 「いや、は、意味が分かりませんよ。何言ってるんですか?」 「ああ、優奈ってバカなの?こんな簡単なことも理解できないとか、受けるんだけど。」 「受けません。というか、本当に何なんですか?説明してください。」 しかし、姉は全く動じない。試しに言ってみるような、軽い口調で話し出す。 「いや、実はさ、旦那と離婚しちゃってさ、行く当てがなくなっちゃったんだよね。もう、どうしようもなくて。」 「だ、だからって、小実家に帰ったらいいじゃないですか。お父さんもお母さんもいるんだから。」 「無理無理。私、両親から勘当されてるから。そんなの知ってるでしょ?だから、もうここに住むしかないの。よろしくね。」 「だからって、こんな急に言われても…。ちょっと待ってください。窓、開けてないでください!」 ガラッという音に、優奈は血の気が引いた。 「お、窓開いてる。ラッキー。じゃあ、こっから家の中入っておくね。」 電話の向こうで、姉が窓を開けて侵入してくる気配がする。 「だめです!やめてください!不法侵入ですよ!」 「ヤの許可は取ってあるから大丈夫。心配しないで。」 「ヤが許可したんですか?」 「え?うん。『2週間くらい同居させてくれ』って言ったら、そこはOKって。まあ、要するに、次の家が見つかるまでってことだから。よろしくね。」 開いた口がふさがらないとはこのことだった。強引すぎる。非常識すぎる。そもそも、あの「ヤ」はうちの大家さんであって、お姉さんの味方ではないはずだ。 「た、たい、や、何考えてるのよ。私は反対ですから。絶対に反対ですからね!」 「はあ。」 そのため息には、呆れよりも「なんで反対されるのか理解できない」という感情がこもっていた。優奈が何か言おうとすると、逆に、悲しそうな、哀れを装うような声を出してくる。 「小、ずれで行く当てがない私がかわいそうだと思わないの?血の繋がった妹なのに?」 「思いません。というか、何で平然としていられるんですか?人の家に上がり込もうとして、普通の神経してたらできませんよ。」 「あー、何が?」 「……昔、私がまだヤの家に同居してた時、あなたが何したか、覚えてないんですか?」 優奈は、かつて自分が姉におんぶに抱っこで世話になっていた頃のことを思い出していた。すると、電話の向こうの姉は、本当に思い出した、という風に声を上げる。 「あー、なんかしたっけ?記憶にないんだけど。」 「私の私物を勝手に売り払ったんですよ。しかも何回も。私のバッグも、服も、靴も、全部。」 「あー、思い出した思い出した。でも、あれはそっちも悪いでしょ。」 「は?どこがですか?」 「だって、名前書いてなかったじゃん。リビングに置いてあったんだから、誰が使ってるか分かんないでしょ。フリマサイトで売っちゃったけど、別にいいじゃん。」 「そんな小学生みたいな理屈が通るとでも思ってるんですか!?私の物だったんですよ!何で謝りもせずに、堂々と言い返せるんですか!」 「はいはい、ごめんごめん。じゃ、そういうことで。私、荷物整理してくるから。」 「ちょっと待ってください!いいからさっさと帰ってください!私の家から出て行ってください!」 「帰るとこないって言ってるじゃん。人の話はちゃんと聞いた方がいいよ。社会人の常識でしょ。優奈はバカなんだから、ちゃんと言うこと聞いてれば間違いないんだって。」 「なら、そっちも聞いてください!私は帰れって言ってるんです!今すぐ出て行ってください!」 「帰るとこがないから、こうやって頼んでるんじゃん。それに、悪い話じゃないでしょ?メイが一緒に住んでくれるんでしょ?ラッキーじゃん。」 「あなたって、どこまで自分勝手上手なの…。私は大反対です!」 「はいはい、怒んないの。てか、この話もうめんどいから、終わりね。じゃ、私は部屋もらうからさ。メイは…うん、廊下とかに寝れる子だから、気にしないで。」 パチッと、無情にも電話が切れた。 「ちょ、お姉さん、聞いてるんですか!?」 受話器から聞こえるツーッ、という機械音。あまりの理不尽さに、優奈はその場にしゃがみ込んだ。 その日の夜。優奈は、会社の同僚である若い男のアパートにいた。この男は、優奈たち姉妹を知る数少ない理解者である。 「なあ、今日は遅いのか?」 男は、腕を組みながら、テーブルに向かっている男に話しかけた。 「仕事で遅くなるって言ってあったでしょ?」 「そっか。ああ、てかさ、姉貴が帰ってきたんだって?」 「……またなんか、彼氏と別れたんだと。今度で何回目だよ。いい加減にしてほしいわ。もう1年だぞ。姉貴が家にいるの。」 「1年?そうは言うけどな、ちゃんと出て行ってるだろ。ちょっとしたお泊まりレベルでしょ?」 「1年、同居してるのと何も変わりません。その間、何回、家を転々としたり、彼氏の家に行ったり、喧嘩して帰ってきたりを繰り返したか。悠長に暮らしてるのは姉貴のほうなのに、私が神経質になってるみたいに言わないでください。」 「はいはい、分かったよ。けど、向こうもお前の狭いアパートに子連れで転がり込んでくるつもりなんだろ?さすがに可哀想だぞ。」 「可哀想って、向こうは生活費を入れてくれてるんですか?」 … Read more

21 September 2026

義母から電話が来たのは、望美が生まれて三ヶ月目の夜だった。「美佐さん、もう我慢の限界よ。いい加減にして」——その声は、いつもの穏やかな義母ではなく、怒りに震えていた。「子供を義母に一ヶ月も預けるなんて非常識よ。母親としての自覚がないの?」一ヶ月?預ける?何の話ですか、と聞き返す私の隣で、京介が望美をお風呂から上げたところだった。私は震える声で答えた。「今、私の目の前で、京介が望美の面倒を見て…

「京介、そういえばさ、この前の旅行のお土産、お母さん喜んでた?」 「わかんない。なんで?」 「だってまだ持って行ってないし。」 「え?持って行ってないの?先週持って行くって言ってたよね。」 「いや、言ってないけど。」 「言ってたじゃん。生ものだからすぐ持って行くって。」 「お土産持って行くとは言ったけど、いつ行くとは言ってなかっただろ。」 「あのさ、なんでこんな小さなことで嘘つくの?忘れてたなら忘れてたでいいでしょ?」 「忘れてない。いつ行くか明言してなかっただけ。その時のLINE残ってるよ。見る?」 「いや、先週はすぐ持って行こうと思ってたんだよ。でも時間がなくてさ。」 「だったら最初からそう言えばいいでしょ。嘘つく意味がわかんない。」 「嘘ついたわけじゃないから。」 「はいはい。」 「てか、先週のことだしさ。自分が言った内容とかいちいち覚えてなくて当然だろ。それを嘘ついたって後から突いてくる方が悪いんじゃない?」 「覚えてないって言わない方が悪いでしょ。京介ってそういうとこあるよね。」 「どういうとこだよ。」 「とりあえず否定から入って、小さな嘘つくところ。」 「はあ。そんなことしてないだろ。」 「してないと思うなら、このLINE見返してみたら?」 「見返したけど、してなかった。」 「また嘘。こんな一瞬で全部読み返したの?即読とかのレベルじゃないでしょ、それ。」 「いや、読まなくても、なんとなく見たらわかるだろ。」 「わかんないでしょ。」 「まあ、もういいや。とりあえずお土産持って行くなら早めにお願いね。」 「言われなくても、明日持って行く気だったよ。」 「そうですか。旅行から帰ってすぐお母さんに連絡入れてたからさ。あんまり遅くなると、私がガミガミ言われるんだよ。」 「わかってるって。本当にお願いね。ただでさえ私はお母さんから嫌われてるし。これ以上、変な揉め事起こすの嫌だから。」 数日後。 「美佐さん、お土産もらったわ。ありがとうね。」 「いえいえ。それよりも、今回も顔を出せなくてすみません。」 「京介から聞いたわよ。仕事が忙しいんだって。」 「はい。望美が生まれてから、一度も顔を出せてなくて。もう生まれて三ヶ月よ。その間、一度も顔を見せないなんて。どうなの?」 「本当にすみません。今やってるプロジェクトが落ち着いたら、必ず。」 「それっていつよ?」 「来月いっぱいは、忙しいんじゃないかと。」 「ああ、そうですか。全く、仕事熱心すぎるのも考え物だわ。」 「すみません。」 「昇級だって、育休だって、最低限しか取らなかったんでしょ?」 「タイミング的に、仕事を離れるのが難しかったので。」 「そんな仕事ばっかりじゃ、家族との時間も取れてないんじゃない?」 「いえ、先週は、それこそ家族旅行に行きましたし。」 「旅行には行けるけど、うちには顔を見せないの?それって嫁としてどうなのかしら?」 「お声がけはしたじゃないですか。都合が合わなくて、ご一緒できませんでしたけど。」 「うん。そうだったっけ?」 「京介が誘ったって言ってましたよ。」 「そうだったかもしれないわね。じゃあそれは一旦いいわ。」 「ええ、いいんですか?」 「それよりも、普段の家事や育児はどうなってるの?平日の帰りが遅いって聞いてるけど。」 「確かに残業とかもあって遅い日も多いですけど、家事や育児はしっかりやってますよ。」 「本当かしら?」 「本当ですよ。京介に手伝ってもらうこともありますけど。」 「口で言うのは簡単だけどね。できてると思ってるのは、美佐さんだけじゃないの?」 「それはどういう意味ですか?」 「京介から相談を受けてるのよ。」 「え?」 … Read more

21 September 2026

朝5時、スマホが鳴った。画面には「父」と表示されていた。嫌な予感しかしなかった。数時間前、私は病院の個室で義母の手を握っていた。義父が娘をフルスイングで殴ったと聞かされたのは、ついさっきのことだ。「傷害事件です。絶縁して、慰謝料も請求します」と言う私に、義母は静かに首を振った。「あの子の心のケアを優先したいの」その優しさに、私は涙を堪えるのが精一杯だった。なのに電話越しの父はこう言い放った。…

病院の個室の空気は、消毒液の匂いで満たされていた。娘の手を握りながら、私は静かに言った。 「お父さん、私の父があなたのことを本当に許せないって言ってたわ。あんなこと、絶対に許せないって」 「私が謝ることじゃないわ」と、義母が優しく首を振った。「気にしないで。検査の結果も異常なかったみたいだし」 「でも、僕がもっと早く止めに入っていたら、あなたが痛い思いをせずに済んだのに」 「ええ、あの瞬間、私も目を疑ったわ。娘のことをフルスイングで叩くなんてね」 「義父は剣道部だったんです。手癖が悪くて。だから急所に当たったんでしょうね。本当に許せない。すぐに警察に行きましょう。傷害事件です。絶縁して、治療費と慰謝料も請求します」 「気持ちは嬉しいけど、少し待ってちょうだい」 「なぜですか? あんな奴の言いなりになる必要はない」 「警察沙汰にしたら、あの子の傷に塩を塗るようなものよ。まずは七の心のケアを優先したいの」 「それはそうですが。でも、ただ警察に突き出すだけじゃ生ぬるいです。私が責任を持って教育するから、任せて」 「教育って、何をされるおつもりですか? 」 「それは見てからのお楽しみ。止めないでね」 「止めません。僕だって許せない気持ちは同じです。でも、気をつけてください。相手は狂ってますから」 「心配ないわ。ゴミ掃除には慣れてるもの」 「分かりました。俺は七のそばにいますから」 数時間前、私たちは結婚式の二次会に顔を出していた。娘が気分が悪くなったと聞いて、慌てて病院へ駆けつけた。そこで衝撃の事実を知ったのだ。私の父親が、娘を殴ったと。 翌朝、まだ五時にもなっていない時間に、私はスマホの着信音で叩き起こされた。画面には「父」と表示されている。イライラしながら通話ボタンを押した。 「大起、起きろ」 「なんだよ。まだ朝の五時だぞ。俺は一睡もしてないんだ。知らねえよ」 「昨日あんなことしておいて、よく連絡できるな。七は一晩中泣いてたんだぞ。もうあんたなんか父親とも思いたくねえよ」 「ああ、俺こそが被害者だぞ。あの女のほっぺたが硬すぎて、手首を捻挫したわ」 「自分の娘くらいの女性を殴って、よく言うよ。病院行けよ、頭の方な」 「親に向かってなんだ、その口は。誰のおかげで就職できたと思ってるんだ」 「普通に面接して、実力で就職したけど」 「あー、俺が裏から手を回してやったんだよ」 「嘘だろ? 」 「まあいい。今から母親と嫁を再教育してやる」 「は? やめろよ。これ以上二人に関わるな。七は絶対安静なんだぞ」 「余計な口出しをしたら、お前の会社潰すからな」 「は? どういうことだよ」 「お前の会社の経理部長が、先週銀行に融資の相談に来てたんだ。それがどうした? 」 「どうやら他の銀行に断られたらしいぜ。確かに資金繰りは厳しいけどな。だが、メインバンクに断られて、うちの銀行が最後の頼みなんだよ。担当者に、あることないこと吹き込んでやるよ。そうなれば、お前は職を失う。子供も生まれるのに」 「おい、卑怯だと思わないのか? 」 「こういうのを権力って言うんだよ。嫌なら、ババーと一緒に嫁に行っておけ。俺様の言うことは絶対だ」 「七は妊娠してるんだぞ。昨日のお前の暴力で流産したらどうするんだ? 」 「大体、結婚前に妊娠とは、不貞な女だな」 「結婚を前提に付き合ってたんだ。そんな言い方するな」 「散りがる女のことはどうでもいいが、嫁は嫁いだ瞬間に糞だよ。文句あるなら、会社への融資を止めるぞ。三秒で決めろ」 「父さんにそんな権限ないだろ」 「融資部に同期がいるんだ。そいつが不倫してることを、俺だけが知ってるんだよ。その弱みを握ってる。それで十分だ」 「人の弱みを握るなんて、最低だな。でも、俺はそんな脅しには屈しない」 「はあ。じゃあ、好きにしろ。お前の人生だぞ。後悔するなよ」 「後悔なんてしない。俺は七と結婚するんだ」 「言ったな。後悔するなよ。あと、母さんが病気で倒したのは、お前のせいだぞ。謝罪しろ」 「…謝罪とは、私が殴られた件ですか? 」 「それもあるが、それだけじゃない。お前のせいで、家族がバラバラになったんだ。謝罪が足りない」 … Read more

21 September 2026

あの日、リビングのソファに座った瞬間、義母が静かに入ってきて「今日の献心はどうだったの」と聞いてきた。私はため息を飲み込んだ。これが毎日のやりとりだ。適当に返した私に、義母は「本当に?」と念を押し、さらに踏み込んできた。「お酒とタバコはもうきっぱりとやめたの?」私は身体が固まった。やめていません、なんて言えるわけがない。ちょっとくらいなら大丈夫です、と私はネットで見た知識をそのまま口にした。…

さきがリビングのソファに座った瞬間、義母の幸恵が静かに入ってきた。今日の献心はどうだった、と開口一番に聞いてきた。さきはため息を飲み込んだ。これが毎日のやりとりだ。どうだったも何も、至って正常順調です、と短く返した。幸恵は疑うような目を向けて、本当に、と念を押してくる。本当ですって、疑うんですか。さきがそう言い返すと、幸恵は本題を切り出した。じゃあ聞きますけど、お酒とタバコはもうきっぱりとやめたの? さきは身体が固まるのを感じた。やめていません、と正直に言うわけにはいかない。ちょっとくらいなら大丈夫です、とネットで見た知識をそのまま口にした。妊婦の喫煙や飲酒は赤ちゃんに悪影響よ、と幸恵の声が一段と硬くなる。ちょっとくらいって何よ。何度も注意してるわよね。 はいはい、とさきは流すように返した。幸恵は尚も続ける。妊娠出産を甘く見てる人は多いの。タバコやお酒が原因で流産してしまう人だって。その言葉にさきの堪忍袋の緒が切れた。そういう経験則ですか、元産婦人科の看護師さんだったんですから。でも私は大丈夫ですから。根拠のない自信ですね、と幸恵が言い返す。 もういいです。さきは立ち上がった。お母さんと話すのが一番ストレスなんです。細かい子ごとばっか言われて疲れるし、私がタバコとお酒をやめられないのはそっちの責任ですよ。何言ってるの、と幸恵の声が鋭くなる。あなたの意思の弱さの責任でしょ。母親として自覚を持ちなさいって言ってるだけ。 責任転嫁やめてくださいよ。さきは腕を組んで言い放った。妊婦にストレス与えるなんて、義理の母親がやることですか。最低ですよ、この程度でストレスになるって。幸恵が口を挟もうとするのを遮って、さきはまくし立てた。うちのママはお母さんと違って優しいんです。ちょっとだけならって目をつぶってくれますから。 それは優しいんじゃなくて甘いだけよ、と幸恵が返す。子供に嫌われるのが怖くて親ができますか。はいはい、またそれですか、とさきは白い目を向けた。お母さんって考え方が古いんですよ。今の時代、子供の自主性を尊重するのが主流でしょ。押し付ける教育は時代遅れです。 あなたは大人の自覚を持ちなさい、と幸恵が怒鳴る。何が悲しくて息子の嫁を叱りつけないといけないの。嫌ならやめてくださいね。さきがそう言い返すと、幸恵は一呼吸置いて、低い声で言った。やめさせてくれないのはそっちでしょ、と。それから、私の家にあったタバコとお酒、全部没収しました。冷たい言い方だった。 次の日、さきは買い物から帰ってきて、玄関の靴がいつもと違うことに気づいた。そしてリビングのテーブルの上に、見覚えのある箱が置かれているのを見つけた。慌てて棚を開けると、そこには何もなかった。たばこも酒も消えていた。あのババア、マジでやりやがった。 数時間後、携帯が鳴った。さきの母、裕子からだ。さきが電話に出ると、裕子は早口で言った。さっき幸恵さんから聞いたわよ。あなた、タバコとお酒を隠れて続けてたんだって?さきは思わず口をゆがめた。はい、そうみたいです。いや、聞きましたよ、と裕子はため息をついた。それで、ちゃんとやめる気はあるの?もう体に入ってる子供に影響があるんでしょ。 それはそうですけど、とさきは言いかけて、ストレスが良くないのは分かるし、と言い訳を口にした。自分の身内の言い分より、もっと客観的な視点が必要だと思った。だが、裕子は容赦しなかった。そのストレスっていうのは、あなたが言うことを聞かないからよ。普通に考えて、妊婦が酒もタバコもやめられないっておかしいでしょ。 さきは頭にきた。自分の親なのに、どうして義母の肩ばかり持つのか。分かってますから、と言って電話を切ろうとしたが、裕子は語気を強めた。幸恵さんもね、ああ見えて心配してくれてるのよ。あなたが嫌われるのを怖がって強く言えないだけ。実際、あなたの部屋に行ってタバコとお酒を没収したのは、ちゃんとあなたのためを思ってのことなんだからね。 さきは鼻で笑った。勝手に人の家に上がって物を取り上げるのは窃盗ですよ。それを親の心配って言うんですか?電話の向こうで裕子が何か言いかけたが、さきは遮った。もういいです。私は自分のことは自分で決めますから。そう言って、強くボタンを押した。そして深くため息をついた。みんなして私の人生に口出ししないでほしい。たったそれだけのことなのに。 夕方、夫の達也が仕事から帰ってきた。さきはソファに座ったまま、テレビを見ているふりをした。達也は何か察したように、コートを掛けると、ゆっくりと近づいてきた。さき、聞いたよ。母から。さきはリモコンを置いて、達也を見上げた。聞いたって、何を?タバコとお酒、没収されたんだって。達也の声は優しかったが、さきにはそれが逆に刺さった。 あのね、さきは立ち上がった。義母が私の家に上がり込んで、勝手に物を取り上げたのよ。それをお前が何も言わずに納得してるの?達也は困ったように頭をかいた。母もさずがに言い過ぎたとは思ってるよ。でも、さきが悪いのは間違いないんだからさ。は?さきは目を見開いた。私が悪い?確かに私はタバコを吸ってたよ。でも、お前の母さんに、いきなり没収する権利はないでしょ。それに、あなた前々から言ってたじゃん、妊娠したら一緒にタバコやめるって。達也が静かに言った。 さきは言葉を失った。確かにそう言った。言ったが、それはその場しのぎの気持ちもあった。私はまだやめるって決めたわけじゃない。でも、身体のことを考えたら、と達也が言いかけて、さきは手を振った。分かってる。分かってるから、もう言わないで。もう少しで夕飯の支度をするから。達也は何か言いたそうだったが、さきがキッチンに消えたので、その場に立ったままため息をついた。 居間に戻った時、さきは冷蔵庫を開けて、中を無言で見つめていた。頭の中はぐるぐるしていた。義母の言葉、自分の母の言葉、夫の言葉。みんな押し付けてくる。私のことは私が決める。そう思えば思うほど、胸の中は複雑に絡まっていくばかりだった。そして、二日後、今度は義母の妹の由佳子が家に訪ねてきた。 由佳子は玄関に立つと、にこやかな笑顔のまま、いきなり本題を切り出した。さきさん、幸恵から聞いたわよ。またやめる気ないんだって?さきは眉をひそめた。由佳子さん、もしかして、説得しに来たんですか?違うわよ、と由佳子は呑気に笑った。いい色の付き合い方があると思って。つまりね、こういう時は、ばれないようにやればいいのよ。あいまいな笑み。さきは呆れて首を振った。私はバレたから怒られてるんじゃないです。妊娠中に酒やタバコが悪いって言われてるんです。でも、あなたはそのくらいでやめるつもりはないんでしょ?負けず嫌いのさきさんなら、言われたからって素直にあやまれるタイプじゃないわよ。さきは何も言い返せなかった。確かに、その通りだと思った。今ここで、幸恵の言いなりになったら、負けを認めたような気がする。私はそうは思いませんよ、と言いかけて、同じようなことを言っても無駄なのは分かっていた。要するに、こういうことですよ。さきさんは、本当はやめたいんでしょ。でも、やめろって言われるのが悔しいだけ。違いますか?由佳子はそう言って、帰っていった。 その夜、ベッドに入ってもさきは眠れなかった。隣で達也が穏やかな寝息を立てている。由佳子の言葉が頭にこびりついて離れない。やめたい。本当はこんなこと、続けられるわけがない。私は自分に嘘をついていたんじゃないか。あの人が言ったように、やめろって言われるのが悔しくて、反発してただけなんじゃないか。そう思うと、砂の上に立っていたみたいに、足元が崩れていく気がした。 数日後、実家に顔を出すと、母の裕子が台所で茶を淹れていた。さきが障子の向こうから、母、と声をかけると、裕子は振り返り、驚いたことに、急に涙ぐんでいた。さき、ごめんね。母は俯いた。何がごめんなの、とさきが聞くと、裕子は続けた。あなたがタバコをやめられないのも、お酒を飲みたいのも、私のせいかもしれない。私がもっとしっかりしてれば、あなたが小さい頃から、ちゃんと注意してれば、こんな大人に育てなかったかもしれないのに。 さきは笑った。母が悪いんじゃないよ。私の意思が弱いだけ。そう言いながら、目の奥が熱くなるのを感じた。母は首を振った。あんたの友達関係が複雑で、私がきつく言うと、あいつは親に嫌われるのをずっと怖がって、自分の気持ちを押し殺す子になった。だから、今度は素直になれって言ってるわけじゃないけど、無理に背伸びして、人に嫌われるのを怖がって、自分を隠さなくてもいいんだよ。さきは畳の上に座り込んだ。ぽたりと涙が落ちた。母、私、妊娠してるとかあるのに、何でやめられないんだろう。そう言うと、母はさきの隣に座って、背中をさすってくれた。ちゃんとやめられるよ。気づけたんだから。 その帰り道、さきは自宅のマンションの階段を上がりながら、ポケットの中のたばこの箱に指が触れた。もう、残り少なくなってきた。一箱吸ったら、本気でやめる。そう思った。だが、部屋のドアを開けた瞬間、玄関の下駄箱の上に置かれた、見覚えのある封筒が目に入った。開けると、中から手紙と、そして一本のたばこが入っていた。震える手で、手紙を広げる。そこには、幸恵の文字があった。 「さきへ。今回のことは、お前を傷つけたかもしれない。でも、私は、これが正しいことだと信じている。子供を授かるっていうのは、ただ産むだけじゃない。産まれてくるまでの間も、気持ちも、身体も、大事にすることだと思う。お前が思う以上に、産まれてくる子は、お前のことを待っている。頑張れ。」 その下に添えられた文章。「このたばこは、私の夫、つまりさきの舅の勝義の形見だ。勝義は、ヘビースモーカーで、肺がんで死んだ。お前が、この先、この一本に手を伸ばそうとするなら、それを選ぶのもお前の人生だ。だが、私は、勝義みたいに死んでほしくない。子供の前で、タバコを吸う親になってほしくない。」 さきはその場に、しゃがみ込んだ。手紙が、じわじわと滲んで見えなくなる。思い出した。昔、義母が何度も言っていた言葉を。「人はね、大事なものを失わないと、そのありがたみが分からないのよ。」さきは、そのたばこを手に取ると、細長い一本を、手のひらで包み込んだ。そして、昨日までの自分に、心の中で別れを告げた。 その夜、さきはリビングで達也に向き合った。話があるの。達也が顔を上げる。さきは深呼吸をして、言った。タバコ、ちゃんとやめる。お酒も、卒乳するまで一滴も飲まない。達也は目を見開いたが、すぐに優しい笑顔を浮かべた。無理すんなよ。いや、無理じゃない。借り物の勇気かもしれないけど、今回は本気。さきは笑った。だから、これからは、私が禁煙したら、いっぱい褒めてほしい。ありがとう、と達也が手を握ってきた。 それから、さきは幸恵に手紙を書いた。義母がくれた、その一本を、手元に置いたまま。「お母さん、ごめんなさい。言うことを聞かなくて。それから、ありがとう。」そして、送り届けた。その日の夜、布団の中で、さきはお腹に手を当てた。まだ微かにしか膨らんでいないお腹。けれど、確かに命が宿っている。さきはそっと微笑んだ。私は、ちゃんと母になる。自分のことは、後回しにしてでも。そして、言われた通り、翌日からタバコを一切やめた。酒もだ。辛かった。ものすごく、辛かった。だが、そのたびに、あの手紙を思い出した。あの形見の一本を思い出して、静かに目を閉じた。 数ヶ月後、さきは産声を上げた。元気な女の子だった。抱き上げると、ずっしりと温かい。達也が隣で、泣きながら笑っている。幸恵も、涙を拭いながら見守っていた。さきは、生まれたばかりの娘に、つい語りかけた。あなたの、ひいおじいちゃんの宝物よ。そう言って、おくるみのそばに、小さな小さな印を添えてあげた。たばこじゃない。これから始まる、長い長い物語の、表紙になるように。

21 September 2026

夕食の皿を洗い終えた静かな時間、スマホが震えた。見知らぬ番号。出なければよかったのに、指が勝手にスワイプしてしまった。「ヤッホー、みほ。あんたの旦那の子、妊娠しちゃった」低く澄んだ声。こめかみが一瞬で熱くなった。ゆき。5年前、私の婚約者を奪った元親友。「あの時はごめんね。でも今回は妊娠までしちゃったから、あんたも文句は言えないよね」洗いかけの皿をシンクに置いた。指が震えている。なのに、なぜか…

みほのスマホが震えたのは、夕食の皿を洗い終えたばかりの静かな時間だった。見覚えのない番号。出なければよかったのに、何かの弾みで指がスワイプしてしまった。 「ヤッホー、みほ。あんたの旦那の子、妊娠しちゃった」 低く澄んだ声。聞き覚えがあるような、ないような。こめかみが一瞬で熱くなった。 「あの、どちら様ですか」 「私だよ、ゆき。覚えてないの?婚約者奪った次は、旦那まで奪ってごめんね」 ゆき。その名前で、5年前の記憶が一気によみがえった。かつての親友。みほの婚約者だった男を、ゆったりと奪っていった女。連絡先はとっくに消したし、住所も変えた。なのに、なぜ。 「ゆきが、何の用よ。あんた、私から交際相手を奪ったくせに、今度は何の用」 「あの時はごめんごめん。でも今回は妊娠までしちゃったから、あんたも文句は言えないよね」 「妊娠って、何の話よ」 「そのままの意味だよ。あんたの旦那の子供が、お腹にいるの」 洗いかけの皿をシンクに置いた。指が少し震えている。 「意味、わかんないんだけど」 「あーあ、ショック受けちゃって現実が見えないんだ。まあ仕方ないか。大体、あんたには彼がいたでしょ。ほら、5年前に奪った、あんたの婚約者」 「そんなの、もうとっくに捨てたわよ。稼ぎが悪かったからね。恋人には良かったけど、夫には無理。でも今回は大手企業のエースだから大満足。あんたの旦那、優秀だもんね」 「どうして私の旦那のことを知ってるの」 「SNSで見たのよ。結婚報告してたじゃん。すっごいイケメンだし、会社でもエース級なんでしょ。将来安泰。今度こそ勝ち組になれるわ」 みほは息を整えた。動揺を声に出したくなかった。 「あのさ、もしあなたの言うことが本当なら、浮気してるって今、自分で暴露してるのよ。それって証拠になるって理解してる?」 「証拠?そんなの残してないわよ」 「いや、だから、その発言が証拠になるって言ってるの」 「あー、そういうこと。残念だけど、そんなの後で消せるし、捏造できるわ。ちゃんとした証拠がないと意味ないでしょ。5年前もそれで逃げ切ったじゃない。あんた、慰謝料請求しようとしたけど、証拠不十分で訴えられなかったよね。あの時のこと、もう忘れたの?」 ゆきの声がスピーカー越しに楽しげに弾む。 「それはね、私が賢いから証拠なんて残さないのよ。LINEも全部消してるし、ホテルも現金払い。写真も一切撮ってないから完璧。5年前に学んだのよ、証拠がなければ訴えられないって。弁護士にも相談したけど、結局、慰謝料すら満足に請求できなかったくせに。あの時のみほの顔、今でも覚えてるわ。悔しそうだったよね。本当、最高」 「…今回も同じよ。証拠がないから、あんたは何もできない。泣き寝入りするしかないのよ、残念でした」 みほは台所の壁に手をついた。冷たいタイルの感触が、妙に生々しかった。 「それを言いに、わざわざLINEしてきたの?あんた、こっちが連絡してもずっと無視してたくせに」 「あんたの連絡とかキモいから無視するに決まってるじゃん。ていうか、あんたって本当に鈍感よね。5年前も気づかなかったし、今回も気づかなかったんでしょ。旦那が浮気してるって、もっと早く気づけばよかったのに。まあ、もう手遅れだけど。彼、私のこと本気で愛してるから。前回と同じとは思わないで」 「うわ、怖。でも、あんたは私に慰謝料請求しないでしょ」 「何ですって?」 「あのさ、私、妊娠してるの。子供が生まれて、これからお金が必要になるわけ。私、母子家庭で育ったのよ。お金がない辛さ、わかるわ。母親が苦労してるのをずっと見てきたの。だからこの子には同じ思いをさせたくないの。みほは保育士でしょ?お金がない子供の大変さは分かるでしょ。貧しい家庭の子供をたくさん見てきたんじゃない?そういう子供って、かわいそうよね。同じ服でずっと遊んで、いっぱいご飯も食べられない。そういう辛さ、みほなら分かるわよね」 「…だから、何が言いたいの」 「だから、私から慰謝料とか請求しないでね。私から取ったら、子供が貧しくなるの。結果的に子供が苦しむのよ。そんなひどい人間じゃないわよね?保育士のあんたが、子供を貧しくしたいの?不幸にしたいわけ?あーあ、そういう人だったの?あんた、本当にクズね」 「ひどい。事実を言っただけじゃん。子供に罪はないのよ。子供のためにも、慰謝料請求とかやめてね」 みほは目を閉じた。時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。 「…分かった。離婚するね」 向こう側で、一瞬の沈黙があった。そして、挑発的な笑い声。 「あ、マジで?意外とあっさりしてるじゃん。もっと泣いたり怒ったりすると思ったのに。けど、ありがとう。話が早くて助かるわ」 「…もしあなたが本当に浮気してるなら、離婚しかないもの。悔しいけれど」 「じゃあ、彼は私が幸せにするから安心して。今度こそ本物の愛を手に入れたわ。みほはまあ、頑張って。新しい人見つけなよ」 「大きなお世話よ」 「なんで私の大切な人を奪うの?そう恨まれるようなこと、してないでしょ。みほは恵まれてるんだから、いいじゃない」 「…へ?私が恵まれてる?身も蓋もないけど、実家も普通で、好きな仕事して。確かに、幸せよ。でも、あんたに奪われる理由にはならないわ」 「それはね、私が賢く生きてるからよ。私は母子家庭で育ったの。母親が男の人に苦労させられるのを、ずっと見てきたのよ。愛想を尽かされて、捨てられて、泣いてる母を見て、私は思ったの。絶対に自分は繰り返さないって。だから私は賢く生きるって決めたの。お金と安定を手に入れるために、何だってするのよ。ねえ、みほ。また私に譲ってよ。5年前もそうだったじゃない。あんた、いい人だから許してくれるでしょ?」 みほは通話を切った。逃げるように、パジャマ姿のままリビングのソファに座り込んだ。数時間前まで、この時間が当たり前だった。今日も一日、熱を出した園児の世話をして、へとへとになって帰ってきて、夫のたくと食べた夕食を思い出す。あの何気ない時間が、もう壊れてしまう。胸の奥が、じくりと痛んだ。 その夜のことは、ずっと考えていた。 翌日、リビングでコーヒーを飲んでいると、たくが仕事に行く支度をしながら、話があると言った。 「みほ、あのさ。俺、お前に話したいことがあるんだ」 「何、急に」 「昨日、ゆきって人から連絡があったんだ。お前の元親友だって」 みほは手に持っていたマグカップをテーブルに置いた。音がやけに響いた。 「彼女、妊娠したって言ってた。俺の子供だって」 「…うん、私も言われた」 「信じるの?」 「信じたくないよ。でも、どうしてあの人があなたの名前を知ってるの?私の携帯に入ってる連絡先も知らないはずなのに」 たくは息を吐いた。少し間を置いて、口を開いた。 … Read more

21 September 2026

電話が鳴ったのは、夕飯の支度をしていたときだった。息子の大機からで、孫が生まれたという知らせだった。嬉しかった。でも、その喜びを素直に伝えていいのか、一瞬ためらった自分がいた。「大きくなったね。おめでとう」。そう言うと、彼の声はどこかよそよそしくて。顔を見たいと言いかけると、「出産直後で大変だから、日程は調整したい。ミに直接話しておいて」と遮られた。翌日、嫁のミさんから電話が来て、私は耳を疑…

息子の妻が産んだ孫。その知らせを受けたとき、胸の内に複雑なものが渦巻いた。嬉しい。それはもちろん本心だ。けれど、その喜びを素直に伝えていいものか、一瞬だけ迷ってしまった自分がいた。 「大きくなったね。おめでとう。ミさんにもお疲れ様って伝えてくれない?」 電話越しの息子、大機の声は、どこかよそよそしかった。それでも私が「顔を見たいのだけど」と続けようとすると、彼は遮るように言った。 「出産直後で大変だろうから、できれば日程を調整したいの。私が直接話すと断りづらいでしょうから、話しておいてくれない?」 言い方は丁寧だった。でも、そこに私が入り込む余地など、初めから存在しないかのような、そんな冷たさを感じた。 「ちょっと待って。ミに先に相談するから」 大機はそう言って、話を終わらせようとした。私の気遣いよりも、妻の都合が最優先。当たり前のことなのに、胸がチクリと痛む。 「そうね。ちゃんとお嫁さんへの気遣いができてて安心したわ」 精一杯の言葉を絞り出すと、彼は「俺だってちゃんとしてるよ。もう父親なんだし」と答えた。昔、仕事で家を空けがちだった私に「母さんはいつもいない」と繰り返していた幼い日の記憶が、頭をよぎる。 「また連絡するから」 そう言って、電話は一方的に切られた。 翌日、再び大機から電話があった。用件を聞くと、彼は少し間を置いて、思い詰めたような声で言った。 「お母さん、話は聞きました。直接言ってくれたらいいのに。出産で疲れてるのに義母の相手なんて嫌でしょ。でも、連絡してくれて嬉しいわ」 「いや、ちゃんと言っとかないとなって。え、はっきり言いますけど」 一瞬の沈黙。次の瞬間、彼の口から出た言葉に、私は総毛立った。 「孫に会いに来たって言われても、いい迷惑。金が映ったら困るし。赤ん坊に絶対近寄るな」 「え? 金? 金ってどういうこと?」 声が震えた。理解が追いつかない。孫に会いに来てほしいと言っているのではなく、金を持って来てほしいと言っているのか。 「お母さんって大機の子育て失敗したじゃないですか。聞きましたよ。家庭で結構苦労したって」 私は自分の耳を疑った。確かに、あの時代、仕事と育児の板挟みで、彼に寂しい思いをさせたことは事実だ。夜中に泣き出した息子を抱きながら、「今日は母さん、遅くなるから」と電話で宥めたことの何度あったか。 「それは確かに、たくさん苦労をかけたわ。でも大機はちゃんと育ったでしょ。立派に働いて、家庭も持って」 「でも、育った過去は変えられないし。大機、言ってましたよ。幼少期は不幸だったって」 「あの子が、そんなことを…」 「そういう風に考えてる時点で幸せじゃないですし、子育て失敗の金が映ったら困るんですよ。ダメ親の育児なんて参考にならないし、赤ちゃんには空教でしょ」 失敗。その言葉が、針のように突き刺さる。私は弁解を試みた。 「失敗って言うけど、私なりに一生懸命育てたのよ」 「一生懸命? それで大機が寂しい子供時代送ったって、散々愚痴化されましたけど。仕事ばっかりで放置されてたって。かわいそうですね」 「それは生活のために仕方なく」 「言い訳やっぱお母さんの育児方針って完全に時代遅れじゃないですか? 時代遅れ? 今は科学的な育児が主流なんですよ。お母さんみたいな感覚だけの育児は、むしろ外悪です」 「確かに私は胸を張って立派な子育てをしたとは言えないわ。でも、あなたはまだ母親になったばかりでしょ? そんな風に言われたくないのだけど」 「私は私なりに勉強してます。育児書20冊読んで、専門家のアドバイスも受けてますから。お母さんに教わることなんて、1つもありません」 「本と実際の育児は違うのよ。それに、私には経験があるわ」 「経験? 失敗した経験ですよね。むしろ、お母さんの常識って昭和で止まってると思うんですよ。今和ですよ」 「時代は変わっても、子供を愛する親の気持ちは変わらないわ」 「愛する気持ち? それで放置してたんですか? 矛盾してますよね。家庭ってやっぱりどこか歪んでるじゃないですか」 「ちょっと待って。それは言いすぎじゃない?」 「とにかく、私はお母さんみたいな失敗を繰り返したくないんで。私の母は完璧な育児をしてくれました。だから私も完璧な母親になれるんです」 息子の妻、ミさんは、そう言い放った。私は冷静さを保とうと、ゆっくりと息を吐いた。 「完璧な親なんていないのよ。みんな手探りで育てるの」 「お母さんみたいな中途半端な親とはレベルが違うんですよ。分かりますか?」 「このさ、ああ、分からないか。だって失敗した人には成功が分からないんですもんね」 「分かったわ。もう何も言わない」 その言葉が、ようやく口から出た。3日後、私はその件を大機にLINEで送った。 「本人が気が立ってるのに、こちらも配慮が足りなかったわ」 しかし、返ってきた返信は、私の想像をはるかに超えるものだった。 「お母さん、ミさんにこんなことを言われたのだけど、私、気に触ることを言ってしまったかしら」 … Read more

21 September 2026

母さん、結婚式の費用、六百万円も出してくれて本当にありがとう——そう言われた瞬間、私は心から嬉しかった。でもその直後、弘樹はこう告げた。「でも、家族の意向で母さんは式に呼びません。そもそも、弘樹の親を名乗ること自体おこがましいんですよ」。私は由美さんから電話で「あなたのような底辺には来てほしくない」と言われた。必死に貯めた六百万は「一日で稼げる程度のお金」と笑われ、それでも私は息子のために欠…

母さん、結婚式の費用、六百万円も出してくれて本当にありがとう。 いいのよ、少しでもいい式になればね。 これで本当に素敵な式ができそうです。 でも、家族の意向で母さんは式に呼びません。 え?何を言ってるの? 母さんもいい式にしたいと思ってるんですよね。 もちろんよ、そのためにあなたに頼んだんだから。 でしたら、式には来ないでください。母さんが来ると式が台無しになるんで。 ちょっと待ってよ、私が参加できないなんてありえないわ。私は弘樹の晴れ姿を心から楽しみにしてるんだから。 申し訳ないですけど、あなたに参加する資格はありませんよ。 そもそも、弘樹の親を名乗ること自体おこがましいんですから。 どういうこと? あなたは離婚して、弘樹とは別々に暮らしてたんですよね。 そうね。 弘樹のお父さんは、そこからずっと一人で育ててきたんです。だからお父さんは式に出てもいいですけど、あなたにその資格はないですよ。 もしかして、お金を払えば参加できると思ってました?そんなわけないですよね。 親としての責任を、あなたは全部放棄してたんです。そんな人を親とは呼べませんよ。 離婚したのは確かに私が悪かったわ。それは認める。でも、放棄したわけじゃない。私だって弘樹のそばにいたかったんだから。 今さらそんなことを言っても意味ないですよ。あなたは実際に弘樹を見捨てて、一人で暮らしてたんだから。 結婚式の費用の六百万を用意したのは立派だと思いますよ。でも、だからって参加させるわけにはいきません。 どうやってその金を集めたのかは、あえて聞きませんけどね。でも、どうせ借金しまくって集めたんでしょ。 そんな貧乏人に、私たちの式に来てほしくないんです。どうかご遠慮ください。 待ってよ、それって弘樹も知ってるの? 弘樹には俺から説明しておきます。あなたも弘樹のことを思うなら、不参加でお願いしますね。 五時間後。 弘、さっき由美さんから連絡があったの。 もしかして、お金のことかな?本当にありがとうな。こんな時に親を頼るなんて、社会人として情けないよ。 そんなのいいのよ。私としては、あなたの力になれて嬉しかったんだから。 それでも、あんな大金を払わせるなんて申し訳ない。 それは別にいいんだけどね。由美さんから、式には参加してほしくないって言われて。 え、なんで? 俺には、お前の親を名乗る資格はないって言われたんだ。 そんなバカな。あいつは何を言ってるんだ? 最初は私も反発したわ。だって、あなたの晴れ姿を見られるのを心から楽しみにしてたからね。 でも、冷静になって考えたら、由美さんの言ってることも分かる気がしたの。 確かに、どんな顔して参加すればいいのかって。 母さん、何をバカなこと言ってるんだよ。 父さんと離婚したのは、確かに残念だったよ。でも、俺は今でも父さんも母さんも、どっちも大好きなんだ。 父さんには感謝してるし、母さんのことは尊敬してるんだよ。 今の俺があるのは、母さんがいたからだってのは、すごく大きいんだ。 俺にとって母さんは目標でもあるし、そんな母さんには、俺が結婚した姿をちゃんと見てほしいんだ。 嬉しいわ。そう言ってくれるなら、私もやっぱり式には参加したい。 あなたの一生に一度の晴れ舞台だからね。 それに、六百万なんて大金を出してもらっておいて、そんなことを言うなんてどうかしてるよ。 向こうからすると、六百万なんて大した額じゃないんじゃない?だって、向こうのお父さん、会社を経営してるんでしょ? それはそうかもしれないけどさ。 分かったよ。式のことは俺に任せて。 本当にいいの? もちろんさ。母さんには絶対に参加してもらう。だから、そのつもりで準備しててくれよ。招待状も必ず送るからさ。 ありがとう。そう言ってくれて、本当に嬉しいわ。 翌日。 突然のご連絡、申し訳ありません。夕紀の母の秋子と申します。夕紀から連絡先を教えてもらいました。初めまして。いつも息子がお世話になっております。 こちらこそ、いつもお世話になっております。それで、今日はどういったご要件で? それが、ちょっと困った事態になっておりましてね。 弘樹君が今、喧嘩をしてるんですよ。その原因が、あなたであることはもちろん分かってますよね。 … Read more

21 September 2026

式が終わった翌日、親友の探偵事務所のドアを開けた瞬間、私は震えていた。「夫の調査をお願いしたくて」と言ったけど、心のどこかでまだ信じたくなかった。式の最中、平はずっとスマホばかり見ていて、私と一度も目を合わせなかった。披露宴でも上の空。写真撮影のときも、挨拶のときも、隣にいる私の方を一度も見ようとしなかった。そして式の翌日、「新婚旅行はちょっと待ってくれ」と言い出したかと思えば、次の日には「…

式が終わった翌日、晴菜は探偵の元を訪れていた。付き合いの長い親友に頼み込む形だ。 「あい、結婚式が終わってすぐにこんなお願いするのも気が引けるんだけど、夫の調査をお願いしたくて」 「はあ。調査したばっかりだよね。何があったの?」 「実は昨日の結婚式で、周辺の様子がおかしかったの」 「おかしいって、どんな感じ?」 「式の最中もスマホばっかり気にしてたし、披露宴も上の空だった。私と目を合わせようともしなかったの」 そう言われてみれば、確かに彼の様子はどこか変だった。写真撮影のときも、挨拶のときも、隣にいるはずの晴菜の方を一度も見ようとしなかった。 「怪しいけど、それだけ?」 「それだけじゃないの。式のあと、平が『新婚旅行はちょっと待ってくれ』って言い出したの」 「は? 新婚旅行を延期するってこと?」 「そう。仕事が忙しいって言ってたけど、それ絶対おかしいよ。新婚旅行なんて、最初から休みを取ってるはずじゃん。だから『それなら新婚旅行はどうするの』って聞いたら、『お前うるさいな。そんなのいつでもいいだろ』って」 結局、その翌日には、「旅行は行かない」と一方的に言い放ったらしい。それからというもの、平の態度は急に冷たくなり、今日も帰ってこない。 「それで怖くなって。なんか性格が変わったっていうか、すごく冷たいの。もしかして浮気してるんじゃないかって」 交際中は何もなかった。思い当たるふしもなかった。ただ一つ、気になることがあるとすれば、平が結婚式に実家の人間を一切呼ばなかったことだ。 「実家と仲が悪いから、式に呼ばないでくれって言われてたの。家庭環境が複雑みたいで」 「ますます怪しいじゃん。言えない理由とかあるのかな」 「やっぱり、こんなことで調査なんてお願いするの、ダメよね」 「そんなことないよ。むしろ違和感は早いうちに潰そう。我慢して家族続けるのが幸せじゃないことくらい、あんたがよく知ってるでしょ」 晴菜はうつむいた。確かに、親の不仲を子供の頃から見て育った。我慢が美徳なんかじゃないことを、身に染みて知っている。 「私、結婚に向いてないのかな」 「向いてるとかそういう話じゃないよ。少なくとも、そう思わせちゃう旦那も旦那だし。すぐ調べてみるから、ちょっと待ってて」 「ありがとう」 「あんたとは施設時代からの付き合いじゃん。これくらい、お安い御用よ。まずは旦那の行動を監視するね。何か動きがあったらすぐ連絡する」 翌日、晴菜のスマホに平から連絡があった。 「なあ、はるな。ちょっと話があるんだけど」 「何?」 「実は俺には、本命の彼女がいるんだ」 一瞬、何を言われているのか分からなかった。 「え? ちょっと何言ってるの?」 「まあ、話は最後まで聞けって」 平は何の悪びれもなく、さらりと言ってのけた。 「まず安心しろよ。お前と結婚したんだから、お前が正妻だ。法的にも社会的にも、お前の方が立場は上だ。だから文句を言うなよ。これから先の生活で、お前は優遇されるんだから」 「どういうこと? 本命彼女がいるのに私と結婚したの?」 「そうだよ。でも、お前は正妻だから法的に守られてる。だから問題ないだろう」 「問題ないって、大問題なんだけど。浮気を認めろってこと?」 「浮気っていうか、法律上はお前と結婚してる。心は彼女と結婚してるって感じだな」 「意味が分からないんだけど」 「そのままの意味だって。あ、お前も別に外に男作ってもいいぞ。その方がフェアだし」 信じられなかった。晴菜は目の前が真っ白になるのを感じた。 「何なの? 結婚式で上の空だったのは、パフォーマンスか何かだと思ってたの?」 「そうそう。ただの形だよ。それでさ、俺に本命の彼女がいることは分かったろ。だから旅行は彼女と行く」 「はあ。ふざけてるの?」 「うるせえな。いいから新婚旅行の費用を振り込め。二人で行ってくるから」 晴菜は言葉を失った。呆れて、笑いも出ない。 「結婚式でいい思いしたんだから、いいだろう。それくらい譲れよ」 「譲れって、何を?」 「お前は行かなくていいよ。こう見えても、お前は優遇されてるんだぞ」 「これのどこが優遇されてるのよ」 「まあまあ、法的に新婚なのは俺とお前だろ。だから新婚旅行の費用はお前が払うべきだ。俺は彼女と行くけどな」 「それっておかしくない? 私、行かないのにお金は払えって」 … Read more

21 September 2026