「京介、今日のハワイ旅行、本当に楽しみね」と私は空港に向かう車の中で呟いた。去年亡くなった父との約束を、やっと果たせると思っていたからだ。新婚旅行に行けなかった両親のために、私が全額を出して計画した旅行。なのに、京介から届いた一言は「悪いけど、ハワイ行きの飛行機、もう飛んでるよ」だった。意味がわからず問い返すと、彼は「母さんには12時フライトって言ってたけど、あれ嘘。本当は10時フライトなん…

京介、今日のハワイ旅行、本当に楽しみね。私もそろそろ空港に着くわ。わくわくする。 楽しそうなところ悪いんだけどさ、ハワイ行きの飛行機、もう飛んでるよ。 え、お母さんには12時フライトって言ってたけど、あれ嘘。本当は10時フライトなんだ。 はあ?なんでそんなことするの? 母さんが一緒だと、まなみの両親が気を使うだろ。だから母さんの代わりに、まなみの両親を連れてくことにしたんだよ。ほら、親孝行ってやつ。 親孝行って、あんた?私に親孝行したことなんて一度もないくせに? 悪いけど、もう帰れ。 バカ言わないで。今回の旅行は、お金を出すのも計画するのも私よ。 いろいろ手配してくれてありがとう。でも俺たちだけで楽しむから。だからちょっと待ちなさいって。 京介もまなみちゃんも、私がこの旅行にどれだけ思い入れがあるか知ってるでしょ? ああ、去年亡くなった親父との約束だろ? そうよ。お父さんと約束してたの。新婚旅行に行けなかったから、いつか一緒に行こうって。去年の結婚記念日になって、やっと約束を果たせるってなったんだけど、お父さんが事故で亡くなった。だから今年、私一人だけでもその約束を守ろうと思ったの。 で、一人で行くのもなんだからって、俺とまなみを誘ってくれたんだろ。知ってるよ。 なら、私を置いていくなんてしないでしょ。 するんだよ。これがあんたなんだよ。 てか俺もまなみも、最初から母さんを連れてく気なんてなかったし。 出発日の飛行機だけは自分たちで手配するって言い出したのも、全部このためだったのね。気づくのが遅いよ。 宿泊先のホテルや帰りの便は、母さんが予約してるんだろ。それを使わせてもらうから。 けーしゃーってやつ?何が? 母さんの、余裕の笑みだよ。そうそう。人生楽しんだもん勝ちなんだって。普段から母さんはへらへらしてるし、こういう状況でも楽しめよ。じゃないと人生負けちゃうぞ。 本当に最低。 笑ってりゃいいことあるって、よく言ってるじゃん。俺たちのことも笑って見送ってくれよ。 ……そう、あんたの考えはよくわかりました。楽しんできなさい。 悪いね。母さんの分も、俺たちが楽しんで笑顔になってくるわ。 八時間後、ハワイ到着。 ああ、ハワイの空気って美味しいですね。 まなみさん、まだ空港に着いたばかりでしょ。空港の空気って、そんなに美味しいのね。 うわ、お母さん、ダサい。置いてかれたからって負け惜しみですか? かもね。というか、まなみさんは毎年ハワイに行ってるんでしょ? そうですね。うちの両親はお金持ちなんで。ハワイ旅行は毎年恒例行事ですよ。 なら、なおさらわからないんだけど。何がわからないんですか? 私が計画したハワイ旅行を奪った意味だよ。まなみさんのご両親だって、自分で行けるでしょ。 はあ。それはですね、実は私、京介と結婚してから大変なんですよ。結婚してから生活レベルががくっと落ちたんです。うちの両親も、結婚後は自力でやりなさいとか言ってくるし。 でも住んでるマンションは、ご両親の持ち物だったと思うけど。 結婚祝いにもらったマンションですね。でもこれだけですよ。あとは何もなし。 いや、十分でしょ。 そのせいでこっちは大迷惑なんですよ。毎年恒例だったハワイ旅行にも行けなくなったし、友達にはセレブとか言われてるんです。 それは友達が悪いような気がするけど。というか、今まで散々私が羨ましいって言ってたくせに。 というかそもそも、まなみさんって専業主婦ですよね。 ですけど、今の時代、専業主婦ができる時点で問題ないでしょう。セレブではないにしても、生活に困ることもない。 だめです。セレブ出身の私は、一般人レベルで測れない女なんで。 そうですか。 でも、やっぱりわからないわね。私は元々、あなたたちも一緒に旅行に行く予定だったのに。 親孝行ですよ。あなたのご両親への。ほら、今年は私たちの番でハワイ旅行ですよ。 いや、私の番だけど。そんなこと言わないとわからないんで。で、うちの両親の性格からしたら、お返しは確実。来年のハワイ旅行代を出してもらうってこと。すでにそういう話が出てるんですよ。これで二年連続ハワイ旅行確保成功です。 たったそれだけのために? あと、うちの親が金銭管理がどうのこうのってうるさかったんで、ハワイ旅行に連れて行ける余裕があるぞって見せつければ、今後は黙るかなって。 くだらない。 そのくだらない話で、ハワイ旅行を逃したんですけどね。 くだらないのはお母さんですよ。ってことで。 本当にそうかしらね。 負け惜しみどうも。そろそろホテルに行くんで、ここら辺でお母さんが予約したホテルで、のんびりしますね。 ああ、そのホテルの予約、キャンセルしたわよ。 へ? ついでに、帰りの便の飛行機もね。 … Read more

23 September 2026

「淳、今日、私、帰りが遅くなるから、お母さんにご飯を出しておいてくれない?」そう言った瞬間、彼は吐き捨てるように言った。「おい、なんで俺がそんなことしないといけないんだよ。俺が仕事で忙しいのを知ってるだろ?」私はパートで、彼は正社員。でも介護を始めたのは彼の方なのに、全部私に押し付けてくる。義母は優しい人で、いつも「まなちゃん、いつもありがとう」と涙ぐむ。なのに彼は実の母親を「ただの邪魔者」…

淳、今日、私、帰りが遅くなるから、お母さんにご飯を出しておいてくれない? おい、なんで俺がそんなことしないといけないんだよ。俺が仕事で忙しいのを知ってるだろ? それは私だって一緒よ。あなたは正社員で、私はパート。でも介護を始めたのはあなたの方でしょ。自分でやればお金が浮くって考えたんだから。 仕方ないだろ。仕事で帰れないんだから。 だったら少しぐらい手伝ってくれたっていいじゃない。相手はあなたの実の母親よ。 あんなの、もうただの邪魔者だよ。家にいたって何もしないんだから。 どうして実の母親にそんなことが言えるの? そう言いたくもなるだろ。俺が全部の面倒を見てやってるのに、何の見返りもないんだぞ。 家族っていうのは、そういうことじゃないでしょ。 とにかく、俺は何もしないから。 お母さんにご飯を出すだけでいいのよ。薬とお水を渡すだけ。お母さんは量も分かってるから、それでいいの。 そんな面倒なことはしない。 じゃあ、今日は私も遅くなるから。 子供みたいなこと言わないでよ。 本当だ。会社の後輩たちと飯を食うから。それで遅くなるから、母親の世話なんて見てられないんだよ。 分かったわ。もう、あなたには頼まない。 それなら、自分でどうにかしろよ。 はいはい、どうにかしますよ。 五分後。 もしもし、まなちゃん? ごめんね、急に。またうちの母の介護をお願いしてもいい? ちょっと仕事が長引いて、ご飯を出してあげられそうにないの。 あ、そうなんですか。大丈夫ですよ。私、伺います。 本当? じゃあ、会社の方にもお願いしておくね。 はい、ありがとうございます。 お母さん、まなちゃんのこと、すごく信頼してるから、できるだけまなちゃんにお願いしたいって言ってたのよ。 私も、あ子さんのお世話をするのは楽しいです。いつも優しくしてくださるので、大好きですから。 そう言ってくれると、本当に助かるわ。 でも、旦那さんは? 残業で遅くなるんですか? 彼はあんまり協力的じゃなくてね。 そうなんですね。 前も言ってたけど、介護費用をできるだけ抑えたいって、彼が言ってたんですよ。ごめんなさい。介護の会社で働く人に言うことじゃなかったわ。 いえいえ、お気になさらないでください。私、今の会社に勤める前から、お二人とお知り合いだったんですから。 本当に運が良かったわ。介護教室でまなちゃんに出会えて。 私もそう思います。あの教室に通い始めて、もう三年くらい経ちますね。 私は介護の仕事をするために通ってたんだけど、し子さんはお母さんのために通い始めたんでしょ? ええ。母も年を重ねてきて、一人で介護するのが難しくなってきたんです。だから、ちゃんと指導を受けておきたくて。 それで、あれから本当にやりやすくなりました。 そこまでしてくれる人が近くにいるのは、本当に幸せなことですよ。 そうね。お母さんのためなら、何でもないわ。 今日だって、し子さんがしてるんですからね。 本当よ。この人は、本当に何もしてくれないんだから。 大変ですね。 今すぐにでも離婚したいくらいよ。でも、お母さんがいるから、そうもいかないの。私がいなくなったら、お母さんの面倒を見る人がいなくなっちゃうから。 本当に、お互い大変ですね。 そうね。ところで、まなちゃんとこは、まだあの旦那さんと続けてるの? はい。もうとっくに離婚してもいいくらい、冷めきってます。 そうなの。向こうの方から、離婚したいって言い出してくれないかなって、ずっと思ってるんです。 この仕事だって、一人で生活できるようになるために始めたんです。別に、やりたくてやってるわけじゃないですから。 色々あるわね。 でも、まなちゃん、離婚したら大変じゃない? パートで一人暮らしなんて、難しいと思うわよ。 大丈夫ですよ。実は、こっそり投資をしてるんです。 … Read more

23 September 2026

義母からの電話は、やすりで削られるように心を削るものだった。「なんで葬儀場にいないのよ!義父の葬儀を欠席するなんて、人でなしよ!さっさと来なさい、この出来の悪い嫁め!」その瞬間、私は結婚式場の控室にいた。隣には夫がいて、二人で母の晴れ姿を待っていた。昨日、義父が亡くなったことは聞いていた。でも、葬儀なんて聞いていない。「え、お母さん、どうしたんですか?葬儀?今日、誰かの葬儀をやるなんて聞いて…

電話越しの義母の声は、最初から怒り狂っていた。 「なんで葬儀場にいないのよ!義父の葬儀を欠席するなんて、人でなしよ!さっさと来なさい、この出来の悪い嫁め!」 私はスマホを耳に当てたまま、隣にいる夫と目を合わせた。夫は眉をひそめて、首をかしげている。 「え、お母さん、どうしたんですか?葬儀?今日、誰かの葬儀をやるなんて聞いてませんけど」 「何言ってるの!昨日、お父さんが亡くなったことは伝えたでしょ!」 「はい、それは伺ってますよ」 「なら、葬式をするのは当たり前じゃない!今、どこにいるのよ!」 「結婚式に参加しています。ですので、葬儀には参加できません。それがお父さんの葬儀なら、なおさらです」 「結婚式?葬儀より結婚式が大事なの?しかも、お父さんの式に参加したくないなんて、失礼よ!」 「そうでしょうか」 「そうでしょうかって、何よ!さっきから人を馬鹿にするのも大概にしなさいよ!」 「そんなつもりはないんですけど」 「こんなバカ女だったなんて!いい?今すぐ来ないなら、息子と離婚させるわよ。覚悟しなさい!」 私は一度、深呼吸をした。感情的になるのは、もうやめようと思った。 「お母さん、こちらの事情も聞かずに強制参加させるって、そもそもお葬式ってそういうものなんでしょうか?それにこちらは事前に、母の結婚式だとお伝えしていました。今さら行くことはできません」 「義父の最後より、自分の母親を優先するっていうの!」 「はい、そうです。というか、大抵はそうなると思いますが。それに、生前、お父さんにも『結婚式を優先してくれ』と言われていましたし」 「それでも行くのが、嫁の務めよ!全く、これだからシングルマザー家庭は嫌なのよ!常識も躾もなってない!」 「あの、失礼ですよ。その発言、撤回してください」 「本当のことでしょ?シングルなんて、お金もなくて貧乏じゃない。そんな貧乏人のくせに、結婚式なんて分不相応よ。それが理解できてないんでしょ!」 「母は立派に私を育ててくれました。結婚式を挙げることを不甲斐ないとは思いません」 「育てたって、あんな貧乏な暮らしで?貧乏奨学金でやっと学校に行ったくせに!」 「確かに裕福な暮らしではありませんでした。それでも幸せです」 「うちの息子と結婚できたことが幸せでしょ!それなのに、こんな無礼なことをして、伴侶の親を大事にするものでしょう!」 「伴侶の親だから大事にするのではなく、人として尊敬できるかどうかも大事かと」 「ああ、こう言いやがって、鬱陶しいわね!とにかく、早く葬儀場に来なさい!葬儀の準備も片付けも、全部あんたがやるべきでしょ!」 「なぜ、そうなるんですか?」 「私は悲しんでるのよ!最愛の人を失ったの!嫁なんだから、そういう時は働くのが当然でしょ!」 「お母さん、葬儀の準備は、お父さんと相談して決めるべきでは?」 「葬儀の準備は嫁の務めでしょ!息子に聞いてどうするのよ!あんたが来ないせいで、息子に負担がかかってるの!さっさと来ないと、離婚させるわよ!」 「お母さんの要望は分かりました。でも、離婚は私たち夫婦の問題です。お母さんが気に食わないからって、それは口の出しすぎですよ」 「息子は私の味方よ!あんたみたいな非常識な嫁のことなんか、見限るわ!私がこんなに悲しんでるのに、あんたは自分の母親のことしか考えてないのね」 「私はお父さんに言われたことを優先しているだけですよ」 「なんですって!お父さんが何を言ったって関係ないわ!今は私が一番辛いのよ!親族の前であんたの非常識さを全部話してやるわ!息子にも離婚を説得するから!」 「それは困りますね」 「困る!当然でしょ!嫁失格なんだから!今すぐ来なさい!来ないなら、本当に離婚させるからね!」 夫が、私の手からそっとスマホを奪い取った。そして、電話に向かって口を開いた。 「母さん、俺も結婚式場にいるよ。美咲と一緒にね」 「え、あなた?どこにいるのよ!」 「言っただろ、結婚式場にいるって」 「なんでそんなことを!お父さんを悲しませるつもり?」 「悲しませる?俺は父さんの遺言に従ってここにいるんだよ」 「遺言?何のこと?」 「とぼけないでよ。父さんはちゃんと伝えてたはずだ。『葬儀はするな。そのまま火葬してくれ』って。ちゃんと聞いてたし、母さんもその場にいたはずだ。むしろ、なんで勝手に葬儀をしてるんだ」 「お父さんが亡くなったのよ!お見送りくらいしたいじゃない!」 「確かに、気持ちの整理として葬儀は大事かもしれない。でも、それはあくまで気持ちの整理であって、俺たちに強制するべきことじゃないだろ」 「うるさいわね!お前までそんなこと言うの!」 「母さん、LINEのやり取りは全部見せてもらったよ。『準備を押し付けてこないで』って言ったら、罵倒してさ。何がしたいんだ」 「お前、何言ってるの!」 「母さん、はっきり言わせてもらうけど、悲劇のヒロインぶるのはやめろよ。いい加減、見てて痛々しいし、息子としても本当に情けないよ」 「え、何言ってるの?私は悲しんでるのよ!お父さんが亡くなったのに!」 「父さんが一番悲しむのは、母さんが父さんの死を利用することだよ。母さんが葬儀をしたいのは、父さんを送り出したいって気持ちじゃない。『夫を失った妻』っていう立場で、みんなから同情されたい。ただそれだけだろ」 「あ、あんた、なんてことを言うのよ!そんなことないわ!」 「なら、なんで父さんの言葉を忘れてるんだ?『俺が結婚式にいる理由』も、ちゃんと話してたはずだよ」 「何のことよ…」 … Read more

23 September 2026

「お母さん、定年退職することになったから。これからはもっとあなたたちのサポートに時間を使えると思うわ」——そう義母に告げた瞬間、妻のさ苗さんが目を輝かせた。「マジで?…

「お母さん、定年退職することになったから。これからはもっとあなたたちのサポートに時間を使えると思うわ」 私、司さ、そう言った瞬間、妻のさ苗さんが目を輝かせた。 「マジで? うわ、めっちゃありがたいよ。でも母さん、せっかく仕事やめられるなら旅行とか行ったり、伸び伸びしたりしなくていいの?」 「まあ、それはおいおい考えるわよ。家にいる時間が長くなるから、そのことだけさ苗さんにも伝えておいてくれるかしら」 「オッケー。苗も喜ぶと思うよ」 数日後、さ苗さんが私に言った。 「お母さん、定年退職されることにしたんですね」 「そうなのよ。家にずっと義母がいるのは嫌かしら」 「そんなことないです。……実は、ちょっとご相談したいことがありまして。私、パート始めてみたいんです」 「あら、ついに復帰するの?」 「子育てとの両立に自信がなかったんですけど、朝も次の4月で息子も幼稚園に入りますし、お母さんがお家にいてくれるなら私もやってみたいなと思いまして。ご迷惑をおかけするかもしれないんですが、いいでしょうか?」 「もちろんよ。頑張って。むしろ子育てにはこれからお金がかかるんだし、働きに出るのはいいことだわ。私もできる限りサポートするからね」 「ありがとうございます。うち実家が遠いし、なかなか頼れないしで。お母さんがいてくれて本当に良かったです」 数ヶ月後。私は職場の飲み会から帰ってきた。時計は夜の10時を回っている。リビングの電気はついている。テーブルには司さの書いたメモがある。 『お母さん、今日は遅くなる。ごめん』 しばらくすると、スマホが鳴った。さ苗さんからだ。出ると、最初から怒り口調だった。 「ちょっとさ苗さん、何度も連絡してるのに何で出ないのよ」 「仕事してたに決まってるでしょ。職場にまで電話してくるなんて、何考えてるんですか?」 「当たり前でしょ。今日は司さが午前中で帰ってくる日で、私も病院で用事があるから、あなたが今日はパートを調整して家にいるって、1ヶ月前に話してたわよね。何で家にいないの?」 「子どもが家に入れなくて、1度学校に戻ったのよ。学校がお父さんもお母さんも繋がらないって。それで私に電話がかかってきたんだから。あなた、何考えてるの?」 「パート先でトラブルがあって、出てきたんです。私、これでもそれなりに頼りにされてるんで」 「じゃあ何で私にも司さにも言わないで仕事に行ったの? 誰かが調整しないといけないことになるでしょ」 「だから私は働いてて忙しいんです。連絡する余裕もなかったんです。そんなのお母さんが何とかしてくださいよ。何のための無職なんですか?」 「あなたね……」 「じゃあ私、今日は遅くなるので失礼します」 そう言って、私は電話を切った。 数日後、私は妹に愚痴っていた。 「さ苗さんと連絡が取れたわよ。パート先でトラブルがあったんですって。でも、それなら私たちに一言あるべきでしょ。最近のさ苗さん、ちょっとどうかと思うわ。仕事を理由に何か雑っていうか……」 「でも、とりあえず連絡がついたなら良かったじゃん。悪いけど、お母さんのことはお願いね。俺もそんな急に職場を抜けられないし」 「それはいいわよ。でも、お願いする態度があるでしょ。私が急いで学校に迎えに行ったのに、さ苗さん、何て言ったと思う? 『無職なんだから何とかしろ』って言うのよ。あんまりだと思わない? 失礼すぎるわよ」 「ちょっと気が立ってただけだって。俺からも言っておくからさ、うまくやってよ」 「もしこれからも態度が改まらないなら、気持ちよくあなたたちのサポートはできないからね」 「分かった、分かった。行っておくから」 その日の夕方、司さが帰ってきた。 「お疲れ。これから帰るよ。苗、もうパート上がる?」 「ああ、今日は残業ないし帰るけど、どうかした?」 「ちょっと母さんのこと考えて欲しくて。今日、母さんに無職だからどうのこうの言ったの?」 「言ってないけど。……何で?」 「マジありえないんだけど」 「いや、ほら、苗の気持ちも分かるけどさ、一応世話にはなってるんだし。実際、母さんがいなくなったら困るだろ」 「別に、今日帰りに家のスペアキー作っていくから、司さに持たせれば、留守番くらいできるでしょ」 「ああ、まあ、鍵は持たせた方がいいか」 「大げさなのよ。自分が仕事やめたからって、働きに出た私が羨ましいんじゃない?」 「まあ何にせよ、喧嘩はやめてよ。色々面倒だからさ」 「はい、はい」 1ヶ月後。夜の9時を過ぎた頃、さ苗さんが帰ってきた。私はリビングで待っていた。 「あなた、今何時だと思ってるの? パートが18時までなのは分かってるのよ。連絡もなしにこんな時間に帰ってくるなんて」 「職場には連絡しましたよ。パート先の飲み会が長引いたんです。別にいいでしょ。司さも寝てるんだし」 「そういうことを言ってるんじゃないわよ。司さが寂しがってるのが分からない? ママに宿題を見てもらう約束をしてたのにって、泣きながら布団に入ったのよ」 … Read more

23 September 2026

「ねえ、翔平。お母さんの介護のことで話があるんだけど」「またその話か。何回目だよ」「もう私だけで介護するのは限界なの。ヘルパーさんを雇ってほしい」そう切り出した瞬間、夫はまるで数字を見るような目で私を見た。「ヘルパーなんて雇ってもコスパが悪いだけだ」毎日のように義母の車椅子を押し、夜中も呼び出され、眠れない日が続いていた。それでも耐えてきたのは、家族だから。なのに彼の口から出たのは「愛人が妊…

「ねえ、翔平。お母さんの介護のことで話があるんだけど」 「かおり、またその話か。何回目だよ」 「だって、もう私だけで介護するのは限界なの。ヘルパーさんを雇ってほしいの。せめて週に何度かだけでいいから」 「いや、ヘルパーなんて雇ってもコスパが悪いだけだ」 「またそれ?いつもそればっかりね」 「費用対効果の高さは何よりも大事なんだよ」 「いくらあなたが経営コンサルだからって、日常生活にまで持ち込まないでよ。それに、離婚した後も介護は私に任せるって話でしょ?」 「離婚?まだ言ってなかったっけ?」 「言ってないってか、聞いてないわよ。何?離婚?どういうこと?」 「いや、愛人が妊娠しちゃってな」 「愛人?妊娠?」 「だから、離婚するけど介護は引き続き任せるから」 「ふざけないで。さっきから何言ってるのよ」 「感情的になるなよ」 「これで冷静でいられるなら、そいつはロボットでしょ」 「お前が騒いでも結果は変わらないんだ。なのに感情的になってもコスパが悪いだけだろう」 「そういう問題じゃないでしょ!何がコスパよ。そんなの合理的な判断だと思ってるの?」 「ああ、そうだ。俺は経営コンサルとしての経験から、最も効率的な判断をしているだけだ」 「はあ?離婚してヘルパーを雇う?すぐには無理だろうな。手続きとか契約とか、色々あるからな」 「その間、母さんの介護を俺がやるのはコスパが悪い。でもお前はタイムラグなしで毎日介護できる」 「だからって、普通の状況で私に介護させるの?」 「まあ安心しろ。できませんけど」 「何?」 「つまり、お前には母さんの介護を続けてもらう」 「普通の状況でって、今の状況はどうなのよ」 「俺と離婚したら、お前は生活に困るだろう」 「確かに私は専業主婦だしね。結婚前はネットニュースを書いてたけど、あれももう数年前のこと。今さら仕事に戻れるようなことはないわね」 「そうだろ。だから母さんの介護をしてくれるなら、金は払ってやる。条件だけ見れば、世話できることを感謝してほしいくらいだ」 「信じられない。あなた、バカなんじゃないの?」 「収入もないお前が断る方がどうかしてる」 「断る方が正常でしょ!」 「冷静になれって言ったろ。離婚後の自分の生活をしっかり考えろよ。金はもちろん、俺の稼ぎからも出て行ってもらうんだからな」 「調子に乗るなよ。クソ野郎」 「あ?今何て言った?」 「ああ、でも、確かにあなたの言ってることも一理あるわね」 「だろう?」 「でも、さすがにこのままLINEで詳細を説明するのも非効率的でしょ。書面でまとめるから、後で内容を確認して」 「そんな事務的な…」 「帰ったら契約条件と詳細を伝える。金をもらわずに離婚するか、仕事だけはもらって離婚するか。バカでも分かるだろう。どっちがマシか」 「はいはい、分かってますよ。どうせ私に選択肢なんてないんですから」 翌日。 「かおりさん、昨日の夜はどういうこと?」 「お母さん、昨日の夜って、本当に連絡を入れたんですか?」 「ああ、そういえば夜中に電話があったわね」 「なんで出なかったんですか?」 「いや、寝てましたし」 「はあ。寝てた?私の介護を差し置いて、よく寝られるわね」 「そう言われましても…」 「そもそもねえ、あんたは自覚が足りないのよ」 「自覚?何のですか?」 「嫁としての自覚よ」 「あの、翔平から聞いてませんでしたか?私、翔平とは離婚することになったんですけど」 「そんなの関係ありません」 「え、関係なくないと思いますけど…」 「あんたは私の介護要因よ。離婚しようと、嫁は嫁なの」 … Read more

23 September 2026

母さん、元気にしてるか?心配なんだよ。そっちに帰ろうか——電話の向こうでそう言った瞬間、私は手に持っていた湯呑みを落としそうになった。あの日、リビングの時計は午後七時を回っていて、テレビからはニュースの音が漏れていた。克は変わらず「仕事は探してる」と言い、家賃がきついから花江と一緒に実家に戻りたいと続けた。でもその口調は、まるで私が断るはずがないと決めつけているようで、私は奥歯を噛みしめた。…

母さん、元気にしてるか?心配なんだよ。そっちに帰ろうか。 何を急に言ってるのよ。帰ってきてくれたら嬉しいけど、まずは自分のことでしょ。花江ちゃんとはうまくやってるの? 当たり前だろ。喧嘩したことなんて一度もないよ。あんな良い子と結婚できて本当に良かった。 家のことは花江ちゃんがいてくれるから安心ね。それで仕事はどうなの?まだ続けてるの?あんた、いつも仕事を変えてばかりじゃない。 仕事?ホテルで働いてるとか言ってたでしょ?あんなのはもうとっくにやめたよ。 え、そうなの? だって一日中フロントに立ってなきゃいけないんだぜ。あんな辛い仕事、やってられないよ。給料も安いしな。 いや、でも仕事なんだから。それでスーパーの正社員になろうと思ってパートで始めたんだけど、そっちもきつくてやめたんだ。 私の知らないうちに、またコロコロと仕事を変えてたのね。それで今は何をやってるの? 何も。無職だよ。 はあ。あんたね、家庭もあるんだからしっかりしなさいよ。 まあまあ、分かってるって。それでさ、ちょっと実家に住まわせてくれないか?家賃を払うのもきついし、生活が大変なんだよ。 それは仕事をしないからでしょ。そっちで仕事を探すよ。地元には友達もたくさんいるし、頼りになるからさ。 でも、あんたたち二人分の世話なんて私にはできないわよ。 花江はすぐにパートを見つけてくれるよ。あいつは仕事にこだわりなんてないからさ。 あんた、奥さんだけを働かせていいと思ってるの? 俺も仕事はすぐに見つけるって。それまでの間、生活の面倒を見てくれればいいんだよ。仕事が見つかって俺も稼げるようになったら、生活費はそれなりに渡すからさ。 本当に働く気はあるのね? 当たり前だろ。俺は稼ぎたいんだ。そのために無駄なことはやれないから、仕事をやめてるだけなんだよ。 そんなに言うなら、まあいいわよ。ただし、花江ちゃんにはちゃんと説明しなさいよ。私なんかと同居するのは嫌かもしれないからね。 大丈夫だよ。あいつは文句を言わないから。 あんたはもうちょっと花江ちゃんの気持ちを考えなさい。いつ捨てられてもおかしくない立場なんだからね。 うん、分かったよ。そんなに怒るなって。 まったくもう。まずはちゃんと花江ちゃんに説明して、了解を得なさい。そして二人の意思が固まったなら、いつ頃になるか日程を教えてね。こっちも部屋を片付けたりしないといけないんだから。 翌日。 お母さん、お久しぶりです。夫から話を聞きました。私たちを受け入れてくれて、本当にありがとうございます。 花江ちゃんはいいの?私と一緒に住むってなったら、気を使うんじゃない? いえ、そんなことはないです。正直、どこか願ってたことでもあるというか。 どういうこと? 私は母を早くに亡くして、ずっと父と生活をしていたので、母親と呼べる人がお母さんしかいないんです。だから、家族と一緒に生活できるのが本当に嬉しくて。 そんな風に思ってくれてるなら、嬉しいわ。私も花江ちゃんのことを娘だと思ってるからね。 ありがとうございます。 でも、うちの息子があなたに迷惑をかけてしまって、申し訳ないわ。私がもっとしっかりと躾けておけばよかった。 そんなことはないです。今は仕事がうまくいってないので、イライラしてるだけです。結婚当初、まだ仕事の調子が良かった頃は、本当に家庭思いの人だったので、仕事さえ見つかれば、昔のようになってくれると思います。 そうなるといいんだけどね。むしろ、私があまり働けないのが申し訳ないです。 それはしょうがないわよ。私も昔から血圧が高めでね。花江ちゃんみたいに何か症状があるわけじゃないけど、命に関わる病気だから、気をつけてるのよ。 え、そうなんですか。私も低血圧で、ちょっと運動すると立ちくらみがしちゃうんです。 あら、そうなの。お医者さんから薬を処方してもらって、それを飲んで生活してるのよ。 そうなんですか。私も薬を飲んでます。こう見えて、タブレットケースに入れて持ち歩けるようにしてるのよ。 私たち、似たような病気持ちだったんですね。 血圧の凹凸コンビって感じね。 一緒に生活できるようになったら、その辺も助け合っていけそうですね。 うん。何でも甘えていいからね。 ありがとうございます。今からお母さんと一緒に生活できるのが、とても楽しみです。 私もよ。それじゃあ、待ってるからね。 はい。ありがとうございます。 一週間後。 お母さん、来週の日曜日、そっちに帰るね。 あら、そうなの?急にどうしたのよ。 いや、たまには実家に顔を出さないとなと思ってさ。 まあ、ちゃんと来るのね。一人ぼっちで寂しいでしょ? お父さんが天国に行ってもう二年くらい経つから、さすがに慣れた感じはあるわよ。 ダメだよ。心配だから、定期的に帰らせてもらうわ。できれば一緒に住んであげたいけど、子供たちのこととか、旦那の仕事のこともあるしね。 そんな気を使わなくていいのよ。実は、もうすぐ一人じゃなくなるからさ。 どういうこと?ペットでも買うの? … Read more

23 September 2026

昨日、駅のベンチでスマホを見ていたら、知らない番号からメッセージが届いた。「トーマと別れてくれませんか。邪魔なので」って。最初は悪戯だと思った。でも送り主は、夫が浮気している相手だった。私は妊娠五ヶ月で、その日も夫は「実家に用事がある」と言って出かけていた。なのに彼女は、夫が寝ている間に私の連絡先を盗んだと笑っていた。「デブデブのサイなおばさんに縛りつけられてるトーマさんがかわいそう」って。…

初めまして。トーマの彼女のレイナです。突然ごめんなさいね。率直に言うわ。トーマと別れてくれませんか。邪魔なので。 あんた、アホが滲み出てるわよ。脳みそに穴でも開いてないの。早く紙粘土か何かで埋めたらどうなの。 失礼すぎるでしょう。そもそも、どうして私の連絡先を知ってるんですか。 あなたのスマホからよ。トーマさんが寝てる間に、こっそり頂いちゃったの。 でしょうね。常識がない人だとは思ってたけど、本当にやりそうな人なのね。 奥さん、妊娠中でしょ。デブデブのサイクなおばさんに縛りつけられてるトーマさんがかわいそう。 確かに妊娠五ヶ月にもなれば、お腹も少しは出ますけど。でも、そんなに太ってる方ではないと思いますけどね。 33歳のおばさんがデブじゃないわけないでしょ。 あなたが何歳かは知らないけど、私ももうすぐ33歳になるわ。この世には痩せてる33歳もいるんだから、覚えておきなさい。 まだ5年もあるし、私、エステでキレイになるから大丈夫なんだもん。 28歳とは思えないほど、中身が薄っぺらい人ね。 はあ、このおばさん、マジでむかつくわ。 さっきからずいぶんマウント取ってきますけど、本当にトーマと付き合ってるんですか。嘘なんじゃないですか。 本当だもん。 でもなあ。 証拠もないのに、信じられるわけないでしょ。 じゃあ、ラブラブ写真を送ってあげる。アルバムに保存してあるから、後で見てね。 ありがとうございます。これで証拠を入手できました。 え、何かやりにくかったかな。 自ら証拠を差し出すリスクも分からないのね。 だって、その方が話が早いでしょ。 そうね。そのまま愚かでいてください。 あんたこそ、楽しくやらせてもらってるわ。 あなたと同じ男を愛した自分が恥ずかしいわ。 私からも言わせてもらうけど、今日は実家で用事があると言って出かけたはずだけど、それ、嘘ってことね。 用事なわけないでしょ。俺とレイナとのデートだよ。そんなことも気づかないなんて、愛されてないって証拠だぜ。 自分の愚かさにも気づいてもらえますか。 うるせえな。あ、ちなみに、昨日の残業も嘘な。俺の家でレイナの手料理を食ってたんだ。 へえ。じゃあ、奥さんの料理はまずいって言ってたよ。味が薄くて、食えたもんじゃないって。レイナはマヨネーズどばどばでうまいんだよ。 ええ、美味しそう。 料理のセンスも、愛される魅力もないのに、かわいそうね。 私は彼の健康を考えて、薄味にしてたんです。 それが重いんだよ。押し付けがましいんだよ。 とにかく、帰ったら離婚届を書いてよね。 その前に、本人に確認します。 今日は疲れて寝てるから、明日にするわ。 翌日。 今、帰りの電車に乗ったよ。疲れた。親戚付き合いも大変だな。これから帰るわ。 お疲れさま。大変だったのね。お母さんも元気だった? ああ、エリによろしくなって言ってたぞ。 座りにくいだろうし、朝飯はコンビニで済ませるわ。 優しい旦那さんを持って、幸せですね。感謝しなさいよ。 ありがたすぎて泣きそうです。でも、浮気なんて嘘でしょ。 はあ?何言ってんだよ。疑うのか。 昨日、レイナさんという女性から連絡があったのよ。 ああ、お前の願い出の写真をくれたわ。別れてくれって。 あいつ、余計なことを。 私とお腹の子を裏切って、浮気してたのね。 バレたなら仕方ないな。ああ、そうだよ。浮気してたよ。悪いか? 悪いわよね。よく優しい旦那のふりができたもんだわ。 演技に決まってんだろ。お前の機嫌を損ねると面倒だからな。 ずいぶん開き直るのね。大体、お前が妊娠してから、全然つまんないんだよ。腹は出るし、肌は荒れるし、夜の相手もできないし。 じゃあ、腹の出ない妊婦を連れてきなさいよ。 だから、みんな妊娠中に浮気するんだろ。妊娠中に夫が浮気するくらい、多めに見るのが普通だし。辛い思いをしてる俺に、感謝の気持ちはないのか。 感謝?養ってやってるのはこっちのくせに。専業主婦の分際で、偉そうな口をきくなよ。誰の金で飯を食ってると思ってるんだ。 … Read more

22 September 2026

夕飯の支度をしていたら、夫が「面接が三つもあってさ、疲れたけど手応えは悪くなかったよ」と妙に明るい声で帰ってきた。スーツをハンガーにかけながら「三万でいいから服を新調したい」と切り出した瞬間、私は先月渡した十万円のことを思い出した。「あれは飲み会で使った」と言うから、海外出張から帰ったばかりの私は「今月の給料日まであと二週間あるのよ」と詰め寄った。すると彼は急に不機嫌になり「うるさいなあ、た…

カイトがリビングのドアを開けるなり、妙に明るい声を出した。今日、面接が三つもあってさ。疲れたけど、手応えは悪くなかったよ。 モネは台所から顔も上げずに、皿に盛り付けながら答えた。「そう。よかったね。ご飯できてるわよ。」 カイトはスーツをハンガーにかけながら、何気ないふりをして切り出した。「あのさ、ちょっと言いにくいんだけどさ。服、新調したいんだ。面接のときに着る服、見繕いたいから。」 モネは手を止めて振り返った。「スーツはもう持ってるでしょ。就活用に買ったばかりじゃない。それに、私が海外出張から帰ってきてまだ一週間も経ってないんだから。先月も、面接用の靴が要るって言って、あなた靴買ったじゃない。」 「いや、それはあれだよ。急に必要なもんが出てきてさ。スーツ用の消臭スプレーが切れたんだよ。あと、クールビズ用のシャツが一枚足りないんだ。あと、靴下とか、まあ細かいもんばっかなんだけどさ。」 モネはため息をついた。「それなら別に、買い物リストを渡してくれたら私が行っておくけど。何が必要なの? 」 「いいよいいよ、自分で行くから。だから、その、金を貸してくれないかな。三万円でいいんだ。」 「また借金? 」モネの声が一段低くなった。「ねえ、カイト。あなた、先月も十万円借りたわよね。『面接に行くための交通費とスーツ代』だって言って。それで今月の家賃が払えなくなりそうって言うから、私が貯金から出したじゃない。あの十万円はどうなったの? 」 カイトは視線をそらした。「あれは、飲み会があってさ。就活の情報をもらえるっていうから、先輩たちに奢ったんだよ。そしたら酒の勢いで、ホテルにまで連れて行かれてさ。で、ちょっとキャッシングして、その翌日に返すはずが、あれよあれよと言う間に……」 「飲み会? 」モネの顔から血の気が引いていくのが分かった。「あなた、あの十万円で何をしたの。正直に言って。今月の給料日まであと二週間もあるのよ。私が海外にいる間に、あなたが何をしてたのか、本当に言いなさい。」 カイトはイライラしたように髪をかき上げた。「うるさいなあ。別に大したことじゃねえよ。ただの飲み会だって言ってるだろ。会社の連中と飲んで、その流れでカラオケ行って、ああいうときって金がかかるんだよ。それだけだっての。」 「会社の連中? 」モネはスマホを手に取り、何やら操作しながら近づいた。「じゃあ、これを見て。一昨日の夜、あなたが銀座で女の子と二人で飲んでるところを、友達が写真撮って送ってくれたのよ。ここに映ってるのは、あなたの会社の同僚かしら? 」 カイトの顔がサッと青ざめた。写真を見ると、確かにカイトが若い女性と肩を寄せ合い、ほろ酔いの様子で笑っているのが写っている。しかも、その後ろには女性用のホテルが見切れている。 「あ、あのな、これはな、友達の彼女の紹介で、就活の相談に乗ってもらってただけだって。すごく落ち込んでるから、慰めてほしいって言われて、俺も断り切れなくてさ。それで喫茶店で話してただけだ。ホテルなんて、ホテルなんてのは、ただ単に場所を移動しようとしてただけで、決してそういう、あれだ。俺は悪くない。」 「じゃあ、そのホテルで何をしてたの? 」モネの声は異様に静かだった。 「別に何もしてねえよ! ただ、用があってだな……ああ、もう、面倒くせえなあ。どうせお前は俺が何を言っても信じないんだろ。何が妻の海外出張だよ。好き勝手に働きに行って、戻ってきていきなり疑いの目で見やがって。俺の何が悪いんだよ。俺は働いてるんだぞ。毎日面接に行って、必死にやってるんだ。それなのに、てめえは家でぬくぬくと……」 「家でぬくぬく? 」モネの声が怒りで震えた。「私が何のためにこの家を守ってきたと思ってるの。あなたが仕事を解雇されると言ったとき、私がパートを増やして食いつないだのを忘れたの? 私のパート代がどれだけ家計を支えてきたか、計算したことあるの? 」 「はいはい、いつものお前は俺の金で生活してたくせに、俺は育てた恩を忘れたのか」 カイトはそう吐き捨て、冷蔵庫からビールを取り出すと、プルタブを開けて一気に半分ほど飲み干した。「もういいよ。文句ばっかり言うかみさんはたくさんだ。離婚しよう。俺はお前とやってける気がしない。」 モネは一瞬、何かを言おうとして、唇を噛んだ。テーブルの上に、離婚届を突き出した。「そう。分かった。だったら、これにサインして。離婚届よ。私の方で役所に出すから。」 カイトの顔から、一瞬、血の気が引いた。それは、酔いを覚ますような強烈な一言だった。「は? いや、ちょっと待って。今のは……今のは勢いで言ったんだ。俺はそんなつもりで言ったわけじゃなくて、あの、今、就活の最中だし、仕事もまだ決まってないし、お前が海外から帰ってくるまでは、ここに住んでてもいいだろ? 」 「嫌よ。」モネははっきりと言った。「カイト、あなたには今月中に出て行ってもらうわ。荷物をまとめて、みつかるところは探してちょうだい。もちろん、離婚届は、サインしてからね。私はそれまでに、自分で家の更新をするから。あなたの名前も、私の名前も、ほどいておくから。」 「ちょ、ちょっと待てよ、おい。俺を追い出す気か? ここは俺の家だぞ! 」 「今はね。」モネは静かに答えた。「でも、この家の名義は私の母から贈与されたものよ。あなたは結婚するときに、籍を入れるまでローンの加入をしてくれなかった。だから、今は私のものよ。そしてカイト、あなたに一つ聞くけど、先週、母のところに行ったでしょ。何を借りたの? 」 カイトは声を詰まらせた。「何で……何で知ってるんだ。」 「母から電話があったわ。『離婚するって聞いたけど、カイトくんが十万円借りに来たよ』って。あの金は何に使ったの。」 「もう、うるさいなあ! 借りた金はちゃんと返すって言ってるだろ! それに、俺は当分、面接のたびに交通費と、恥ずかしくない恰好をするための費用が必要なんだよ。スーツも新調しなきゃならねえし、靴も買わねえと、面接官にいい印象を与えられないんだよ。お前には、何で、こう、飯を食うだけで精一杯な男の、この切迫感が分からないんだよ! 」 「カイト、もういい。」モネは立ち上がり、台所の引き出しから通帳と領収書の束を取り出した。「これは、あなたが『就活用の経費』だと言って、毎月、請求してきた金額の履歴よ。最初の三ヶ月は、あなたが仕事を解雇されて収入がなかったから、生活費として渡してた。でも、四ヶ月目からは、あなたが『交通費が嵩む』『スーツを買わなければいけない』『靴を買わなければいけない』と言って、その度に私から引き出してた。その総額、いくらだと思う? 」 「知るかよ! 」 「百二十万円よ。」モネは淡々と言った。「私がパートを掛け持ちして、一銭でも無駄にするまいと貯めてきた百二十万円が、もうどこにもない。あなたは、その『面接のための出費』と称する金で、いったい何をしてきたの? 三万円、今度は何に使うの? 」 カイトはテーブルを叩いて立ち上がった。「もういい、もういい! そうやって、いつも、いつも、金の話ばっかりしやがって! … Read more

22 September 2026

あの夜、リビングでくつろいでいたたけしが、突然スマホから顔を上げた。目が合った瞬間、私のほうから口を開いた。「たけし、私ね、妊娠したの。」彼は一呼吸置いて「え、そうなの?」とだけ返した。その表情は、言葉とは裏腹にまったく晴れやかじゃなかった。2年かけてやっと授かった命なのに、彼の口から出たのは「休んでるだけで金がもらえるのか。なんかずるいな」という一言だった。産後、体が動かない私に、義母は「…

夜く、リビングのソファに座っていたたけしが、不意にスマホの画面から顔を上げた。目が合った瞬間、彼女のほうが先に口を開いた。 「たけし、私ね、妊娠したの。」 一呼吸置いて、彼は言葉を探すように「え、そうなの? 」と返した。 「うん。検査したら陽性が出てさ。やっと子供を授かることができたわ。」 「そうか。それは良かったよ。」 その表情は、言葉とは裏腹に晴れやかさに欠けていた。彼女は首をかしげる。 「あれ? なんだか嬉しくなさそうだけど。」 「いや、もちろん嬉しいよ。ただ、まだ実感がなくてさ。」 「まあ、それはそうね。私だって実感があるわけじゃないから。でも昔から子供が欲しいって思ってたから、それが実現したって思うと、とっても嬉しいわ。」 「2年くらいはかかったもんな。」 「そうよ。正直焦っててさ。もうそろそろ不妊治療を受けないといけないんじゃないかって考えてたの。だからこうして子供ができて、本当に嬉しいわ。」 「でも、これから仕事を頑張らないといけないよな。子供の将来のためにも、共働きは必須だからな。」 「それはそうね。でも、とりあえずお腹が大きくなってきたら、育休を取ることになると思うわ。」 「ちなみに、どれくらいになりそう? 」 「産休と育休を合わせて、多分1年半くらいになるんじゃないかな。子供がある程度大きくなって、保育園とかに預けられるようになってからじゃないと、仕事に復帰できないから。」 「1年半か。その間って、収入はどういう感じになるんだっけ? 」 「産休は給料の3分の2かな。それで育休の6ヶ月が同じく3分の2で、そこから先は半分、って感じになってるよ。」 「そうか。休んでるだけで金がもらえるのか。なんかずるいな。」 「ずるいって何よ。ちゃんとした国の制度でしょ。」 「まあ、そうだな。でも、全部ってわけじゃないんだな。」 「そうよ。その間は、たけしの収入が頼りになるわ。」 「分かってるよ。あんまりプレッシャーをかけないでくれ。」 「一応、貯蓄もあるし、そんな背負わなくていいわよ。」 「でも、俺が働かなかったら、みんな飯が食えないんだろう。」 「そうね。生活は厳しくなると思う。もし必要なら、私が昔買ったブレスレットとか、そういうのを売ったりするのも考えてるし。」 「そんなの、大した額にならないよ。」 「もちろん、他にも色々と考えてはいるわ。それが当てになればいいけどね。」 「お金のことばかりになると、暗くなるな。それよりも、子供の名前とか、もっと楽しいことを考えようよ。」 「そういうのは、あなたに任せるわ。俺はちょっと仕事が立て込んでてさ。」 「大丈夫? なんか最近、きつそうだけど。」 「仕方ないだろ。働かないといけないんだから。」 「それはそうだけどさ。」 「休んでる間は、家事とか、そこら辺は頼んだぞ。ちゃんと俺のことをサポートしてくれよな。」 「ええ、もちろん、約束するわ。」 出産後、彼女の体は酷く疲れ果てていた。立っているのも辛い日が続き、布団に横たわったまま、電話の受話器を握った。 「お母さん。今日もうちに来て、赤ちゃんの面倒をお願いできる? 」 「あら、どうしたの? 大丈夫? 」 「うん。ちょっとここ最近、ずっと体調が悪くてさ。」 「いいのよ、無理しなくて。私がすぐに行くからね。」 しばらくして、玄関のチャイムが鳴り、義母が入ってきた。彼女はソファに横たわったまま、申し訳なさそうに顔を歪めた。 「本当に情けないわ。母親になってから、ずっとこの調子で。」 「出産直後っていうのは、そういうものなのよ。私も同じような経験をしてきたから、よく分かるわ。私の場合も、母や姑さんに手伝ってもらったからね。何も気にしなくていいのよ。頼れる時は頼りなさい。」 「ありがとう。実家が近くに助かったわ。」 「でも、全部あなたが一人でするのは大変でしょ。たけしは手伝ってくれないの? 」 「全然。何を言っても無理だって言ってさ。」 「そうなの? … Read more

22 September 2026

「慰謝料は息子だけじゃなくて、私にも払いなさいよ。お母さん。あ、違ったわね。元お母さんだったわ」——電話の向こうで元義母がそう喚いたのは、ごく普通の火曜日の午後だった。私は台所で冷めたお茶を飲みながら、ため息をついた。「あんたの浮気で離婚したんだから、払うのは当然でしょ!慰謝料300万は取れるって聞いてるのよ!」その理屈が理解できずにいると、彼女は「世界一周クルーズに行くのよ、予約金30万も…

「慰謝料は息子だけじゃなくて、私にも払いなさいよ。お母さん。あ、違ったわね。元お母さんだったわ」 電話の向こうで、夫の母が喚き散らす声に、私は静かにため息をついた。 「一体どういう理屈なんでしょうか」 「あんたの浮気が原因で離婚したんでしょ?だったら払うのは当然でしょ!」 「私は浮気なんてしてませんけど」 「嘘おつきなさい!息子が傷ついて、私も傷ついたのよ!その賠償金を払うのは当然でしょ!」 「ずっと何をおっしゃってるのか理解できないんですが」 「とぼけないで!私、全部聞いてるんだから!はるかが裏切られたって泣いてたわ!」 「それは嘘泣きです。騙されないでください」 「ティッシュ1箱使ったのよ!」 「濡れてないはずですけど。もったいないですね」 「ばっくれる気?証拠だってあるんだからね!慰謝料300万は取れるって聞いてるのよ!」 「だからって、それをあなたが請求するんですか?」 「当たり前でしょ!嫁を失って私、精神崩壊しそうなんだから!私のやることなすこと、いつも文句ばかり言ってたけど、あれは愛情の裏返しだったのよ!」 「そんなお金をもらって、どうするおつもりなんです?」 「世界一周クルーズに行くのよ!3ヶ月後には出発なんだから!急がないとペアチケットで330万もするんだけどね。心の癒しと2人で行ってくるわ」 「呆れました。虎の威を借る狐、いや、狸の皮算用ですね。悪いですけど、一銭も払いませんよ」 「なんですって!」 「予約金で30万は入れたんだけど、残りの300万を早く払わないと予約が取り消しになっちゃうのよ。90日前ならキャンセル料はかからないけど、予約金は取られちゃうの」 「そうですか。ならどうぞ。裁判でも何でもしてください。ただし、恥をかくのはお母さんですよ」 「はあ!負け惜しみ言わないで!浮気嫁の分際で偉そうに!」 「端的に事実をお伝えしますね。慰謝料を払うのは、息子さんですよ。浮気したのは、はるかさんなんですから」 「はあ?何言ってるの?はるかが浮気するわけないでしょ!あの子は潔癖なのよ!私に嘘をつくはずがないわ!」 「信じるのは自由ですが、こちらにも証拠がありますよ」 「捏造したんでしょ!なんて汚い女なの!?」 「だったら、そちらの証拠も捏造の可能性がありますね」 「そんなわけないでしょ!あんたが私を落とし入れようとしてるだけよ!」 「そこまでおっしゃるなら、はるかさんに直接確認されたらどうですか?」 「する必要なんてないわ!鼻で笑い飛ばされて終わりよ!」 「では、私も同じように笑い飛ばしておきます。これ以上、無駄な要求をしてこないようお願いしますね」 「逃げるんじゃないわよ!絶対に払わせてやるから!」 通話を切って、私はスマホを見つめた。心臓はどくどくと脈打っているけれど、それでも冷静さは保てていた。30分後、スマホが震える。彼からの着信だ。 「さっき、母から連絡来たんだけど」 「へえ。で?」 「全部聞いた。母さんが慰謝料請求してきたんだろ。適当に交わしといてよ」 「適当に?あんた、自分が何か言われてるか分かってるの?」 「はるかと旅行中で忙しいんだよ」 「旅行?今どこにいるの?」 「みなと。新しい彼女の実家の方」 「みなと?ああ、その新しい女か」 「おい、その言い方やめろよ」 「で、母さんには何て言ったの?」 「俺が浮気したって言ったら、母さんショックで倒れるだろ?だから、お前に浮気したってことにした」 「はあ!?私が浮気したってことにしたの?あんたの母親を追い詰めるために、私が平気な顔して責められてるってわけ?」 「大丈夫だって。ある程度騒いだら落ち着くから。はるかはメンタル強いし」 「なら、あなたの浮気で離婚したって言えばよかったじゃない」 「母さん、俺のこと出来合いだと思ってるしさ。正直に言ったら悲しませるだろ?親を想っての優しい嘘ってやつ」 「自分の保身のための最低な嘘でしょ。それに、あなた、お母さんと一緒にクルーズに行くことになってるわよ。次の彼女と、私と3人で」 「はあ?何言ってるんだよ」 「本当よ。お母さん、もうクルーズ予約済みよ。330万のペアチケットで。支払い期限は今日中」 「マジかよ…。母さん、行動力ありすぎだろ…」 「あなたも行くのよ」 「無理だろ!母さんと2人で海の上なんて、地獄すぎる。直接言ってくれない?」 「私が言うわけないでしょ。もう家族じゃないんだから、私を巻き込まないで」 「頼むよ。話すと長いんだよ。面倒なんだよな」 … Read more

22 September 2026