「ねえ、ちょっと話があるんだけど」——あの日、いつも通り実家に立ち寄っただけだった。冷蔵庫にあった高級な和牛を見つけて、私は何気なく欲しいと言った。断られるとは思っていなかった。だって、私は娘なんだから。「あれはご近所さんからいただいた大事なものよ」——母の声は静かだったけど、その一言が、私の中で何かの火をつけた。次々と物を要求し、しまいには「更年期?」と口にした瞬間、母の顔が凍りついた。数…
母さん、ちょっといい? なあに、七美?急に改まって。 この間、そっちに行ったとき冷蔵庫に英語和牛あったじゃん。あれ、ちょうだい。 あったわね。でも、あれはご近所さんからいただいたものよ。それに、あれはあなたにあげるためにうちに置いてあるんじゃないの。 今度の日曜に、り介の会社の人が家に来るのよ。それで手料理を振る舞わなきゃいけないの。あの和牛、使いたいのよ。 あれはダメよ。私とお父さんで、って言われていただいたんだから。さすがに私たちが食べずに人にあげるわけにはいかないでしょ。 大丈夫だって。適当に「おいしい」って言っておけばいいんだから。 ダメに決まってるでしょ。それにああいう高級なお肉は年寄りには脂っこすぎるわ。お母さんたち、もう年なんだから。 あのね、そうやって何でも欲しがるのはやめなさい。この間だって、うちに来たときに… ああ、はいはい。もういいです、その話は。要らないです。 七美、あなたねえ… 私がわがままなんでしょ?わかりましたよ、じゃあリビングに飾ってある花瓶で我慢してあげます。あれ、ちょうだい。 何言ってるの?あれは結婚記念日に買った大事なものよ。あげられないわ。 ちょっと、あれもダメこれもダメって、いい加減にしてくださいよ。 いい加減にするのはあなたでしょ。前から思ってたけど、七美、あなた言動がひどすぎるわよ。 あーあ、また始まった。そうやってすぐ怒るんですね。更年期ってやつですか? そういうことじゃないでしょ。うちに来るたびに何かを持っていこうとする。恥ずかしいと思わないの? そういう古臭い考え方を押し付けないでくれます? 古臭くなんかありません。最低限の礼儀をわきまえなさいと言ってるのよ。 礼儀とか言われても、よくわかんないですもん。 あなた、り介と結婚したんでしょ。あなたの言動はあなただけの問題じゃないのよ。 また始まった。説教ですか。 子どもができたらどうするの?あなたの言動のせいで、子どもに嫌な思いをさせるつもり? 何なんですか、もう。口を開けば説教ばっかり。昭和の口うるさいお姑さんみたいなの、もう時代遅れなんですけど。 生まれが昭和の口うるさいお姑さんですよ、ええ。 開き直るとか、最悪なんですけど。 お説教されたくなかったら、されないような言動をしなさい。それができたら、私も卒業してあげるから。 はいはい、もういいです。お母さんの説教なんて、お腹いっぱいです。 まだ話は終わってないわよ。 ブーブー。ケチケチおばさん。もう知りません。 数十分後。 お父さん。ねえ、ちょっといい? おう、七美か。どうしたんだ? お母さんがね、意地悪するんですよ。ひどいんです。 意地悪?また何か言われたのか。 ちょっとお肉を分けてくださいって言っただけなのに、ダメだって。それで、他にもいろいろひどいこと言われて。私、何も悪いことしてないのに。 ふうん。そうか。 お父さん、私がかわいそうでしょ?ねえ、お父さんもそう思うでしょ? まあなあ。七美も大変だったな。 お父さん。ねえ、ずっと思ってたんだけどさ。 うん?なんだ? お父さん、あんな人といつまで夫婦やってるつもり?正直言って、お父さんには釣り合ってないと思うよ。 釣り合ってない?俺と、さち子が? そうですよ。お父さんって、年齢の割に全然若く見えるし、かっこいいじゃないですか。 おお、そうか? そうですよ。渋かっこいいっていうか、色気のある大人の魅力っていうか。私、お父さんのそういうところ、素敵だと思いますよ。 へへ、若い子にそう言われると、お世辞でも嬉しいもんだなあ。 お世辞じゃないですよ。ねえ、お父さんって、もうすぐ定年でしょ? ああ、今月で定年だな。 全然、定年には見えないですよ。私、最初に聞いたとき、びっくりしましたもん。 ははは、七美は口がうまいなあ。それに比べて、うちのやつは…まあ、年相応のばあさんって感じだし、口うるさいし、金に細かいし。まあ、我ながらよく我慢してやってるよ。 でしょ?だったら、これを機に離婚しちゃえばいいじゃないですか。 離婚?それはちょっと… 今時、離婚なんて普通ですよ。熟年離婚だって、よく聞きますし。 そうは言うけどなあ。俺たちの世代は、やっぱり離婚には抵抗があるっていうか。 … Read more