「ねえ、あなたたち、いつまで家にいるつもり?」その一言で、私の静かな一人暮らしは音を立てて崩れた。息子のサトルが嫁のしおりを連れて「一週間だけ」と転がり込んできたのは、まだ寒さの残る三月のこと。冷蔵庫の作り置きが消え、私の部屋の引き出しが勝手に開けられ、挙句「現金が入ってないんですか」と財布を覗かれた。一週間は三週間に延び、二人は仕事にも行かず、私の年金で暮らし始めた。「サトルが好きにしてい…

「ねえ、あなたたち、いつまで家にいるつもり?」 「え、ちょっとした規制の感じじゃなかったの?もう一週間になるけど」 「いや、帰れって言われても、家をたたんだから帰る家なんてないし」 「待って。何、冗談?」 「冗談じゃないよ。つうわけで、このままここに住むから。よろしく」 「いきなりそんなこと言われても困るわ。私だって生活があるのよ。いきなり息子夫婦と同居なんて、嫌よ」 「嫌って、失礼だな。母さんだって七十歳で、足腰弱ってきてるだろ。一人息子の俺が、嫁連れて帰ってきて、しかも同居してやるって言ってるんだからさ。むしろ喜ぶ場面だろう」 「世間的に見ればありがたいことなのかもしれないけど。何の相談もなしに転がり込まれるのを、心よく受け入れる人の方が少ないわよ」 「一緒に住むんだったら、色々と決め事はさせてもらうからね。その方が、揉めずに済むから」 「ああ、その辺のことは嫁と相談して。俺は言われた通りにするからさ」 数分後。 「のしりさん、さっきサトルから、一時的な規制じゃなくて、同居になるって聞いたんですけど。間違いないんですか?」 「え?ああ、そうですよ」 「やだ。サトルったら、何も言ってなかったんですか?ああ、ごめんなさい。私、お母さんから許可はもらってるって聞いてたので。てっきり、歓迎されてるものかとばかり」 「だって、引っ越してきたにしては、あまりに荷物も少なかったし。家具とか家電とかは、全部売っちゃったんです。で、何か問題でもあるんですか?もう家も解約しちゃって、帰れないし。お母さんも一人暮らしより安心でしょ?」 「私は何も知らなくて、混乱してるのよ。安心より、戸惑いの方が大きいわ」 「とにかくすぐ帰れないことは分かったから、一緒に住んでる間は、生活のルールを決めたいの。お互い、快適に暮らせる方がいいでしょ?」 「正直、今までの一週間みたいな暮らしをされたら、困るわ。冷蔵庫の中身を勝手に食べたり、私の部屋に勝手に入ったり」 「え?何言ってるんですか。めんどくさいんですけど」 「それに、こないだ、私の財布を見たわよね。現金が入ってないんですか、なんて。普通、聞かないでしょ。ありえないわよ。もし金が入ってたら、盗むつもりだったと思われても仕方がない行為なのよ。分かってる?」 「もう、お説教とか勘弁してください。サトルが好きにしていいって言ったから、そうしたんです。文句があるなら、サトルに言ってもらえませんか?口うるさい人とか、マジ最悪なんですけど」 その日の夕方。 「なあ、ばあちゃん、正直に言うわ。俺たちと、あの人たちが同居するのは、ちょっと無理がある」 「何言ってるの。あんたが決めた話でしょ」 「いや、確かに決めたけどさ。でも、実際に一緒に住んでみて、無理だって分かったんだよ。冷蔵庫の中身は勝手に食べられるわ、仕事も行かなくなるわ、挙句の果てには、お前の財布まで荒らすんだぜ。あれは流石にどうかと思うよ」 「ああ、あの話はね。わたしも、あの時は驚いたわよ。しおりさんがあんな人だとは思わなかった」 「まったく、何であんなのと結婚しちゃったんだろうな。俺の見る目がなかったってことか」 「あんたがそう言うなら、こっちも考えるわ。ただ、すぐに出て行けって言うのは、可哀想じゃないかしら」 「可哀想って、ばあちゃんは優しすぎるんだよ。あいつらが可哀想なんかじゃなくて、迷惑かけてるのはこっちの方なんだからさ」 「まあ、せめて、もう少し様子を見ましょう。仕事を見つけて、生活が立て直せるか。それまで待ってみるのも、一つの手よ」 「……分かった。でも、これ以上酷くなったら、俺は容赦しないからな」 数週間後。 「ねえ、ばあちゃん、大丈夫?昨日、親戚の集まりがあったんだろ。何かあった?」 「うーん。サトルに頼んだのよ。代わりに出席してくるって」 「で、サトルは行ったの?」 「ああ。行ったみたいだけど、何も聞かされなかったから、どうだったのかは分からないわ。ただ、帰ってきてから機嫌が悪かったのは確かね」 「そっか。何があったんだろうな」 「さあね。聞いても、何でもないって言うだけだったから」 「……今日さ、しおりさんが来たんだよ」 「え?何しに来たの?」 「それがさ、『同居してるお礼をしたい』って言い出して。それで、いきなり投資の話を始めたんだ。『おばあちゃんの遺産、運用しませんか』って」 「はあ!?何言ってるの、あの人は」 「思わず『余計なことはしないでください』って言っちゃったよ。そしたら、『こっちは善意で言ってるんです』って逆ギレされちゃってさ。もう勘弁してほしいわ」 「まったく、とんでもない人ね。よくあんな人と一緒にいられるわね」 「ああ、ほんと、何考えてるのか分からないよ」 数日後、のしりは、思い切って息子夫婦を呼び出した。 「サトル、しおりさん。ちょっといいかしら」 「何?俺、これから仕事なんだけど」 「仕事って、今日はあなた休みでしょ。嘘つかないで」 「ちっ。何の用だよ」 「あのね。本当に言いたくないんだけど、あと三ヶ月で出て行ってちょうだい」 「はあ?何言ってるんだよ、急に」 「あなたたちね、家に一銭も入れてないわよね。電気代も水道代も、全部ばあちゃん持ちよ。それに、冷蔵庫の中身は食べるわ、私の部屋覗くわ、挙句の果てには、私の息子に投資の話を持ちかけるってどういうこと?」 「ああ、あれか。別に悪気があったわけじゃないんですよ。少しでも家計の足しになればと思っただけで」 「だったら、ちゃんと働きなさいよ。あなたたち、二人とも仕事してないじゃないの」 … Read more

26 September 2026

「ももこ、今度はいつ帰ってこれる?」その電話の声は、まるで他人を見舞うような冷たさだった。私は入院着のまま、病院のベッドでスマホを握っていた。昨日、夫のり太に「余命宣告された」と伝えたばかりだった。なのに返ってきた言葉は「治療費はどうするんだ。家の頭金に使うはずだったんだぞ」だった。義母も「あんたはどうせ死ぬんだから、お金を使う意味なんてないでしょ」と電話口で笑った。私は18歳からこの家のた…

「り太、ごめんなさい。ちょっと体調が悪くて、晩御飯は自分で買ってきてもらってもいい? 」 「ああ、最近ずっとこんな感じじゃないか。一体どうしたんだよ。ももこは専業主婦なんだから、家事をしっかりやってくれないと」 「ごめんなさい。元気になったらすぐにやるからね」 「ご飯だって買うのは金がかかるんだぞ。俺だけじゃなくて、母さんの分も買わないとダメなんだろ」 「お母さんが料理をしてくれたら問題ないんだけどね」 「母さんはもう70歳を超えてるんだぞ。そんなことをやらせるのかよ」 「だったら、買ってもらうしかないわね」 「俺たち、生活費を切り詰めて貯金をしようって約束しただろう。今はこうして実家で生活してるけどさ、ここも古くてもう長くは住めないんだから、家を買うために頑張らないとダメだろ」 「もちろん、そういうのは全部理解してるわよ」 「お前がこの前教えてくれたあの家なんて、良くない。立地もいいし、家もめっちゃ綺麗だったし」 「それってもしかして、お父さんが気になってたところ? 」 「そう。あそこはかなりいいよ。お父さんってセンスいいんだな」 「でも、あそこはお父さんが住めねえだろう。貧しい生活をしてるんだからさ」 「そんな言い方しないでよ」 「とにかく、あそこを買うためにすぐにでも金を貯めたいんだ。あそこは人気の物件だから、すぐに売れてしまいそうだし。なんなら今すぐにでも契約したいくらいなんだよ。それなのに、お前がこんな調子じゃ無理だって」 「お前は俺の仕事のサポートをしてくれないと」 「それはもちろん分かってるわよ。でも、体調がどうしても良くなくて」 「ずっとそんな調子じゃないか。理由があって言い訳をするな。家事もしない人間は我が家には置いておけないぞ」 「そんな言い方しなくても」 「家族だからと言って甘えるのはなしにしようぜ。とにかく今日だけは俺がなんとかするよ。でも、これ以上はやれないからな」 「うん。分かったわ」 10分後。 「お母さん、すみません。体調が悪いので、今日は部屋で休ませていただきます。風邪が移ると悪いので、部屋には近づかないようにお願いします」 「また風。そう言って、家事をサボってるんじゃないの? 」 「そんなことはしませんよ。やりたくてもやれない状況なんですから」 「はあ、それは本当なのかしら。最近、お母さんって私に冷たいですよね。前はもっと仲良くできていたのに」 「そんなのはあんたの思い込みでしょ。別にこっちはそんなつもりは一切ないんだから。もしそうなってるのだとしたら、あんたが役割を全うしないからよ。家事をしないのもそうだけど、孫の顔も見せてくれなくてさ」 「子供は授かり物だから、しょうがないじゃないですか。それにお母さんが孫にこだわってるなんて、今まで感じたことがなかったですよ」 「最初はそれも仕方ないかなって思ったのよ。でも、やっぱり先が短いって思うとね、一度でいいから孫の顔が見たいと思うようになったの。でも、あんたはそんな私の願いを叶えてくれなかったわ」 「私だけを責めないでください。授かりではありますけど、夫婦の力が必要なものです。り太は何も悪くないわ」 「あんたが原因に決まってる」 「すみません。もうこれ以上話したくないです。ただでさえ辛いのに、お母さんから責められるのは耐えられません」 「被害者みたいなことを言ってんじゃないよ。それに、いつまでも寝てるくらいなら病院に行って薬でももらってきたらどう? 病気じゃないなら、薬をもらえるはずだよ」 「分かりました。明日行ってきますよ」 10分後、夫のり太が言った。 「ももこ、今度はいつ帰ってこれる? 」 「今すぐにでも帰りたいよ。でも、ちょっと体調崩しちゃって」 「え? ちょっと待ってよ。あなたは大丈夫よね? 」 「私は大丈夫だと思う。明日病院に行って、色々と診察してもらうけど、多分私は何ともないと思うわ」 「そう」 「お母さんの方こそ大丈夫なの? 私なんかよりもお母さんの方が心配よ」 「とりあえず、なんとかやってるわ。お父さんのお世話もやらないといけないしね。私がくよくよしてるようじゃダメだから」 「強いんだね」 「そうじゃないとやってられないってのはあるわ。多分、根性から元気ってやつだと思う」 「自分が情けないわ。私は大丈夫なのに。私がこんな伏せっちゃって」 「しょうがないわよ。でも、あなたは1人じゃないから、みんなに甘えなさい」 「そんなことをさせてもらえないんだよね」 … Read more

26 September 2026

「お母さんが、どうしてもお前との旅行は嫌だと言い出してさ」——空港の搭乗口前で、夫からそう告げられた瞬間、私は自分の耳を疑った。まだ保安検査場の手前、手には自分の航空券すら握らされていない。三十分前まで、私は家族四人でのニューヨーク旅行を心から楽しみにしていた。義母の還暦祝いにと、夫が飛行機代を出し、私がホテル代を負担する約束で。ところが義母は「あなたがいるなら行かない」と当日になって言い出…

かおり、来月で母さんたちが二人そろって六十歳になるんだ。還暦だよ。 ああ、そうなんだ。二人そろって迎えられるのね。 そうなんだよ。それでさ、二人に何かプレゼントを考えててさ。 何を送るつもりなの? ニューヨーク旅行なんてどうかなと思ってるんだ。 え、そんなのできるの? なんか二人の新婚旅行の行き先がニューヨークだったんだって。それで、その後ずっと二人とも行きたいって言ってるのに、なかなか行く機会がないって言うからさ。これをいい機会にしてもらおうかなって。 でもそれって、すごい値段になるんじゃないの? もちろん簡単に出せる額ではないよ。でもさ、やっぱりそれなりに出費はあるもんだから。 うん。あなたがそれでいいのなら。 でもさすがに俺一人じゃ無理だから、かおりも協力してくれよ。 私もやっぱりそこは、お願いしたいよ。もちろん俺たちも旅行に同行するからね。四人で楽しい旅行にしようじゃないか。 ニューヨークか。休み取れるかな? そこはみんなで合わせて取ろうよ。 それで、いくらくらい私が出せばいいの? いや、そうじゃなくて。かおりにはホテルを取ってほしいんだ。 え、ホテル? 私が? ああ。飛行機のチケットは俺が四人分取るからさ。だからホテル代はかおりが払ってくれないか? なるほどね。まあ、それくらいならいいわよ。 本当か! ありがとう。きっと両親も喜ぶよ。 ただ、向こうでも前みたいにお母さんから嫌みとか言われないよね? そんなことないって。だって俺たちのプレゼントで海外旅行ができるんだから、きっと感謝してくれるはずだよ。 それならいいんだけど。 それじゃあ、とりあえずスケジュールを合わせようか。休みが取れそうなところを両親と話し合うから。 分かったわ。それまでにホテルを調べておくわね。 翌日。 レベッカ、久しぶり。元気にしてる? ああ、かおり! 久しぶり。どうしたの? 急に。 相変わらず日本語も上手ね。 当たり前でしょ。日本でも長く生活してたんだから。アメリカに戻っても勉強は欠かしてないわよ。それで、かおりは何かあったの? 実はね、今度ニューヨークに旅行に行くことになったのよ。レベッカは今ニューヨークにいるんだよね。それで、時間があったらあなたに会いたいなって思ってさ。 嬉しいわ。そんな風に思っててくれたなんて。 当たり前でしょ。あなたは私の友人なんだから。私もかおりのことを最高の友達だと思ってるわよ。日時を言ってくれれば、どんな状況でも会いに行くわ。 嬉しい。久しぶりに会えるのが今から楽しみよ。 それはこっちのセリフよ。あなたのおかげで私は日本で楽しい日々を過ごせたんだから。 それは私も同じだから。もしよかったら、私が色々とアテをするわよ。 本当? そうしてくれたらありがたいわ。ニューヨークは行ったことがなくて、うちの義両親は行ったことあるって言ってたけど、それはもう何十年も前の話だからね。 ああ、それは心配ね。でも大丈夫。私が楽しいところから美味しいお店まで全部紹介してあげるわ。あなたたちの希望も聞けば、スケジュールまで全部やってあげるけど。 え、でもそれはさすがに大変じゃない? 大丈夫よ。時間を見て予約を取るくらいならできるわ。どれくらい当日に会える時間を作れるかはスケジュール次第だけど。 だったら、早急に日程を決めておくわね。とりあえず、参加する人たち全員で連絡を取り合えるようにしておこうよ。そこでそれぞれの希望を出してくれたら、私がいい感じの店を探しておくからさ。 そうね。それじゃあ、旦那さんに話をつけるわね。できたら、レベッカもそこに招待するわ。 オー、嬉しいわ。それじゃあ、また連絡するから。 うん。とても楽しみに待ってるからね。 三日後。 かおりさん、旅行に関してちょっと聞きたいことがあるのよ。 はい。どうかされました? ホテルに関しては、あなたが取ることになったのよね。 ええ、そうです。 サイトで見たんだけど、マンハッタン中心部にあるホテルがとても良さそうだったんだけど、そこを予約してもらっていいかしら? … Read more

26 September 2026

「もしもし、ひろし?どこにいるの?今日は定休日でしょ。お店の掃除をやる約束だったじゃない」。その電話から、私の15年が音を立てて崩れ始めた。私は15年間、ほぼ無休で店に立ち続けてきた。父が倒れてから、潰れかけた寿司店を立て直したのは、決して彼一人じゃない。なのに彼は「お前の仕事は楽だろ。接客と裏方だけだろ、簡単なもんだ」と平然と言った。やがて彼は、私を女将から外し、元彼女のエリカを店の顔にす…

「もしもし、ひろし?どこにいるの?今日は定休日でしょ。お店の掃除をやる約束だったじゃない。まさかもう店に行ってるの?」 「悪いな、今日は給料が入ったからパスで。」 「え、ちょっと待ってよ。私一人でやれって言うの?」 「うちの若い職人たちが何人もいるだろ。あいつらに連絡して、やらせておけばいいんだよ。」 「そんな急に呼べるわけないでしょ。一応、今日は休みってことになってるんだから。」 「休日出勤なんて、この業界じゃ常識だろ。」 「それなら、あなたこそ仕事をしないといけないんじゃないの?」 「俺は毎日握ってるんだぞ。おかげで店も大人気だ。そんな俺が、休みの日まで働かないといけないのか?」 「私は15年くらい、もう無休で働き続けてるのよ。」 「それはお前の仕事が楽だからだろ。接客と裏方だけだろ、簡単なもんだ。」 「そんなわけないでしょ。あなた、私の仕事をちっとも理解してくれてないのね。」 「それはこっちのセリフだ。親父の潰れかけた店を立て直したのは俺だ。そのことは分かってるのか?」 「あなたもその一員だってことは分かってるわよ。でも、一員でしかないって自覚してよ。店はあなただけじゃないんだから。私も含めて、みんなで立て直せたんでしょ。」 「そんなわけねえだろうが。俺以外が何をしたって、結果は変わらなかったさ。俺の味を求めて、たくさんの常連客が来てるんだ。」 「自信を持つのはいいけど、過剰になりすぎよ。特に最近のあなたは。」 「ようやく周りが俺を認めてくれたんだよ。」 「あんまり調子に乗らない方がいいわよ。いつか足元をすくわれるから。」 「俺がそんなことになるわけがないだろ。なめるなよ。」 「お願いだから。お父さんが作ったお店の看板に、泥を塗るようなことはしないでよ。」 「あんなやつは、もうとっくに超えてるよ。」 「それは大きな勘違いよ。」 「何だって?」 「もう来ないのなら、別にいいわ。私一人で掃除はやっておくから。」 「それは別にいいけど、店の味を落とすようなことだけはしないでよ。」 「そんなことするわけがないだろう。」 「じゃあ、好きにしたらいいわ。」 一時間後。 「とみさん、ちょっと予約を取りたいんだけど、いいかしら?」 「エリカさん、予約は公式ホームページから取れますので、そちらでお願いします、と以前もお伝えしたはずですが。」 「だって、それだと取れないんだもん。あなたたちの店って、本当にいつも予約がいっぱいじゃない。」 「ありがたいことに、そうなってます。ですけど、直接私に連絡をされても困りますよ。」 「だって、ひろしがこのLINEで連絡してくれれば、いつでも予約を入れてやるって言ってくれたんだもん。」 「ひろしからそう言われてます。ですから、これまでに二度ほど予約はお受けしましたが、さすがにもう無理です。あなたをお入れするということは、他のお客様たちに迷惑がかかることになりますから。」 「大学時代からのお友達だったんですよね?」 「そうそう。とっても仲良しだったのよ。だから、そんな私の予約を断ったりしたら、ひろしに怒られちゃうわよ。それでもいいの?」 「分かりました。予約は入れておきます。ですが、これが最後だと思ってくださいね。」 「ええ、もちろんよ。これがきっと最後になると思うから。」 「そうなんですか。」 「うん。あなたにお願いするのは、これが最後よ。」 一週間後。 「前田さん、お世話になっております。明日なんですけど、ご予約のお客様の中に白身魚をお好きな方がいらっしゃるので、いつもより多めに仕入れさせてもらいたいんですが、大丈夫ですか?」 「そうだなあ。明日なら、ひらめやかんぱち、あたりは多めに入れることができるよ。特に、かんぱちは旬だから身が締まってていいと思う。」 「ありがとうございます。では、その辺りを明日、買い付けさせてもらいます。」 「分かった。すぐに出せるように準備しておくよ。」 「いつもありがとうございます。前田さんのところの魚は、とにかく新鮮でお客様たちからも評判ですよ。」 「そこは自信を持ってやらせてもらってるよ。何せ、うちは歴史があるからね。漁師との繋がりもあるしさ。」 「本当にありがとうございます。」 「でも、とみさんの店も繁盛してるって、俺のところまで噂が回ってくるよ。」 「本当ですか?正直、やっと黒字になったくらいですけど。」 「おお、そうか。ずっとあんたのところは大変だったからな。仙代の旦那は腕は一級品だったが、商売の才能はからきしだったからな。」 「そのせいで、店が潰れかけてたくらいですからね。」 「でも、本当に腕も人柄も素晴らしい人だったんですよ。私は今も、お父さんの握ったお寿司が忘れられませんからね。」 「それは俺も一緒だよ。あの人と一緒に仕事ができることが誇りでもあった。でも、仙代の旦那が病気で倒れてから、ここまで立て直すとは思ってもなかったよ。本当にあんたは腕のある女将さんだよ。」 「いえ、私なんて、本当に大したことでは。」 「で、旦那はどうしてるんだ?」 … Read more

26 September 2026

夕方のスーパーの帰り道、買い物袋を両手に提げていたら、隣の奥さんが突然「翔平さんと離婚するんですって。私の勝ちね」と笑った。何に勝ったのかと聞き返しそうになったけれど、彼女は元義母で、結婚してからずっと私に離婚を勧め続けてきた人だった。同居してからは特に酷くて、毎日のように「早く出ていきなさい」と言われ続けた。それなのに、いざ私が本当に離婚すると告げたら、「やっと大嫌いな嫁が出ていく」と嬉し…

隣の奥さんが、夕方のスーパーの買い物帰りに、ふと思い出したように私に話しかけてきた。 「翔平さんと離婚するんですって。私の勝ちね」 何に勝ったんですか、と思わず聞き返しそうになった。私はお母さんと勝負した覚えはない。でも、隣の奥さん、つまり元義母は、勝ち誇ったように頬を緩めた。 「私の長年の訴えをようやく聞いてくれたんだもの。私の大優勝だわね」 「前から離婚しなさいって言ってましたもんね」 夫の母である彼女は、結婚してからというもの、ずっと私に離婚を勧め続けてきた。同居を始めてからは特に酷かった。 「本当よ。この日をどれだけ待ち詫びたことか。夫婦としての関係はとっくに破綻してたんだから、もっと早く離婚したら良かったのに」 「すみません。こちらも色々と準備がありまして」 「どうせ財産分与の計算でしょ。まあ、いいわ。そんなわけで、準備が整ったので本日、届けを出しました」 私は重い口を開けて、事実を伝えた。すると義母は、興味津々といった様子で続ける。 「で、今は何してるの?まさか、もう出て行ったんじゃないわよね?」 「いえいえ、子供たちと買い物ですよ。色々と荷物をまとめなきゃなので、まだ少しだけ家にいさせてもらいますね」 「はいはい、いいわよ。やっと大嫌いな嫁が出ていく。これからは、1人寂しく暮らしてね」 「ご心配なく。それで、荷物の準備もあるので、失礼しますね」 そう言って、私はその場を離れようとした。しかし、義母は引き下がらない。 「ちょっと待ちなさい。子供たちは、私が引き取るから。あんたは1人で出ていきなさい」 「何言ってるの?子供たちは私が引き取りますよ。当然でしょう?」 「当たり前でしょ。翔平を育てあげたという立派な実績があるんだから、私の方が母親として優秀なのよ。あんたには無理ね」 「そうですね。とてもご立派だと思います。でも、子供たちの行き先は、子供たち自身が決めることです。あくまで子供たちの意思が大事なので、聞いてみてはどうでしょう?」 「いいわよ。本音を聞いてもがっかりしないでね。ああ、そうそう、今日は魚でお願いね。安くなかったので、今日はジオロースです」 義母は、私の言葉を無視して、自分が食べたい夕食のリクエストをしてきた。もう、私はこの家の人間ではないのに。 それから5分後、買い物を終えた私は、スーパーの前で子供たちと合流した。すると、そこへ義母がやってきて、長男のレー太に声をかけた。 「レー太君、ばーよ」 「何だよ、俺?今、母さんと買い物中なんだけど」 「まあ、連れ回されてるの?遊びたいだろうに。かわいそうね」 「俺が行きたくて言ってるんだよ。母さん1人で悠太と礼太の相手しながら買い物するの大変だろうと思って、お手伝いしてるんだ」 「あら、弟の面倒を見れるなんて、なんて立派なお兄ちゃん。私の教育の賜物ね」 「ばーばに育てられた覚えはないけど」 「照れちゃって。中学生らしい反抗だこと」 「照れてもないけど。つーか、何の用だよ。母さんから聞いてるけど」 「あなたたちのお母さんは母親失格なの。だから、お母さんだけ家を出ていくのよ」 「何言ってんの?父さんとばーば以外、みんな出てくよ」 「え?」 「俺も悠太も礼太も、母さんについてくから」 「そんな冗談、やめなさい。ばーばの心臓に悪いわ」 「本気だよ」 義母の顔が、一瞬で強張った。男の子たちに出て行かれるのは、よほど堪えるらしい。 「こ、困るわ。後継がいなくなって、うちの血筋が途絶えちゃう」 「俺たちは母さんの苗字になるから、関係ないよ」 「でも、うちの血が流れてるのよ」 「だから、それが何だって言うんだよ。それは母さんの方にも言えることじゃん」 「いいから、ばーばとお父さんの方に来なさい」 「あー、買い物終わった。母さん、行こう。悠太と礼太が喧嘩しちゃったから」 そう言って、レー太は私の腕を引っ張った。そして、私たちはその場を離れた。 後日、義母は今度は夫、翔平に電話をしていた。 「ちょっと翔平。何?今、残業で忙しいんだけど」 「あんたはこれでいいの?子供たちはみんな、あの女のところに行ったわよ」 「別にいいだろ。それの何が問題なんだよ」 「後継がいなくなるでしょうが」 「そこまでして後継ぎが欲しいのかよ?」 「何言ってるのよ。後継もだけど、嫁と子供全員に出て行かれたなんて知られたら、親戚中から笑いものにされるわよ」 「そう言われてもなあ。俺んちは本家でもないし、大した家柄でもないだろ」 「あのね、私がいなくなったら、誰がお墓の面倒を見てくれるの?」 「演技でもないこと言うなよ。いずれはお前も同じお墓に入るんだろ。無縁仏にする気か?」 「お墓の面倒のために、楽器の面倒を見ろって言うのか?俺はそんなの御免だ」 … Read more

26 September 2026

金曜の夜、ソファでくつろいでいたら、同期の親友から電話が鳴った。出た瞬間、甘えた声で「私の代わりに働いてくれてありがとう」と。でもその声の奥に、違和感があった。旦那の看病で休むと言っていたのに、周りの空気はどこか冷たくて。私は一人で彼女の仕事を全部引き受け、毎日終電まで残業していた。なのに、一週間も既読無視。ようやく繋がった電話の向こうで、彼女は笑いながら言った。「実はね、今ハワイにいるんだ…

「み、私の代わりに働いてくれてありがとう。あなたが私の仕事を引き継いでくれたおかげで、思う存分気兼ねなく休めるわ」 やっと返事が来た。同期だからって甘えすぎじゃない? 休み中だったんだから仕方ないじゃない? だからって一週間も無視する? 「ごめん、ごめん。電源を切ってて気づかなかったの」 「いきなり『旦那の看病のため休みます』って言うから、真矢の仕事を私が全部変わってあげたのよ。何か言うことはないの?」 「ごめんってば。幼なじみのよしみで許してよ。てか、何かあったの? やっぱり私がいないと大変?」 「大丈夫。真矢がいなくても仕事は回せるから。そんなことより、今どこにいるの? いつお見舞いに行ってもいないし。おばさんも真矢と連絡が取れなくて心配してたよ」 「あらら、いないのバレちゃったか。実はね、今ハワイにいるんだ。ショッピングモールで買い物してるところ」 「は? 旦那さんが病気で大変な時に、何やってるの?」 「ごめん。でもさ、こうでもしなきゃ休めないじゃん。ほら、普段から家事と仕事の両立でしょ。プラス、旦那が入院して色々と大変なんだから。休みたかったなら、素直にそう言えばよかったじゃない。休みは権利なんだから、真矢が休んだって誰も止めないよ」 「みんな口に出さないだけでしょ」 「そこはみんな大人だからね。思う人は思うんじゃない?」 「でも、『旦那の看病のため』って言えば、誰も悪い顔しないし、私の株も上がるでしょ」 「今、私の中で真矢の株はだだ下がりだけどね」 「長年の付き合いなんだから、今更気にしないでしょ。そんなことより、私が今誰といると思う?」 「いや、知らないよ」 「親友だから言うけど、私、彼氏と一緒にいるの」 「え、待って。真矢、既婚者だよね。相手はその…知ってるの?」 「知ってる、知ってる。てか、美春の知り合いだよ」 「まさか部長じゃないよね。仲良さそうだったけど」 「何言ってるの。誰があんなおじさん相手にするもんですか」 「じゃあ誰なの? 悪いことは言わないから、やめときなよ」 「じゃあ、クイズね。私たちより二つ年上で、身長は百七十五センチぐらい。髪型はちょっと長めの黒髪で、センター分けのパーマ。さあ、誰だ? ここで大ヒント。美春の大事な人だよ」 「まさか……太くんじゃないよね」 「正解。よく分かったね。まあ、分かるか。だって美春の旦那さんだもんね」 「太と一緒にいるってどういうこと? 太からは出張って聞いてたけど」 「ごめんね。実は取引先で出会って仲良くなって。美春の結婚式で顔を知ってたから、そのまま付き合っちゃった」 「つまり、親友の夫と知っていながら手を出したってわけ?」 「別にいいでしょ。あなたの夫と私、相性最高なの」 「気持ち悪いこと言わないで。ハワイで何してるの?」 「ハワイの高級ホテルで、二人で過ごしてます」 「親友の夫に手を出すなんて、親友のやることじゃないよ」 「ごめんね。親友だから好みも似てたのよ」 「それ、浮気していい理由にならないから。あとね、今そんなことしてる場合じゃないよ。旦那さん、危ないって。早く日本に帰って、旦那さんに会いに行ってあげて」 「人の命を利用して、そんな嘘をつくなんて最低」 「旦那さんの病気を利用して、『看病』と嘘をついて長期休暇を取った真矢に言われたくないわ」 「嘘じゃないし。出国前にちゃんと旦那の顔を見に行ったもん」 「それ、ただのお見舞いじゃない? その時は元気だったんでしょ。美春が嘘をついてるんじゃないの?」 「真矢の前では元気なふりをしてたんじゃない? 旦那さんを支えもせず、浮気旅行に行くなんて、妻として最低だよ。真矢に旦那さんはもったいないわね」 「それこそ、浮気された美春には言われたくないわ。親友に寝取られた美春の方が、妻として失格でしょ」 「美春、『あっちの方は満足できない』って言ってたよ」 「それだけで結婚生活が成り立つと思ってるの?」 「でも、破綻してるじゃん。最近、太の出張が多いなって思わなかった?」 「人の夫に手を出したからには、覚悟できてるんだよね」 「何の覚悟よ?」 「慶太と真矢に慰謝料を請求します」 「やってみれば? 太は私のことを愛してるから、全額余裕で払ってくれるはずよ」 「じゃあ、私が伝えるべきことは伝えたから。あとは自分の責任だからね」 「はい、はい。わざわざどうも。じゃあね」 五分後。 「おばさん、真矢と連絡が取れましたよ」 「娘は無事?」 「とりあえず、今はハワイにいるそうです」 「なんでそんなところに?」 「言いにくいんですけど、私の夫と旅行してるみたいで」 「どういうこと? なんで人様の旦那さんと旅行してるの?」 … Read more

26 September 2026

健二が書類の山と格闘している最中、妻から電話がかかってきた。第一声は「家を開ける」だった。「お父さんが倒れたの。命に別状はないけど、しばらく帰れないかもしれない」——その瞬間、俺の集中力が音を立てて崩れていくのが分かった。「仕事中だぞ、なんで今なんだ」と怒鳴り返した。俺はこの出張に全てを懸けていた。二人の未来を守るためには、結果を出すしかない。「プライベートな話で運を逃したくない」とまで言っ…

妻が電話をかけてきたのは、まさに俺が書類の山と向き合っている時だった。電話越しの第一声が、いきなり「家を開ける」だったから、思わずペンを握る手に力が入った。 「しばらく家を開けることになるわ。もし出張が終わっても、帰れない可能性があるから」 「は?どういうことだよ、今俺は仕事中だぞ。出張で必死にやってるって分かってるだろ」 「うん、分かってる。だからこそ、連絡をしたのよ。実はお父さんが倒れたみたいなの。命に別状はないって母は言ってたけど、やっぱり心配でしょ。一度実家に帰るわ。あなたが帰ってきても誰もいなかったら驚くでしょ?だから事前に伝えたの」 その言葉に、俺の頭の中の何かが、キリキリと音を立てて締め付けられるのが分かった。こっちは集中力を研ぎ澄まして、結果を出すことに全てを懸けているっていうのに。 「そんなことは勝手にやれよ。俺がたまたま電話に気づいたから良かったものの、メッセージだけ残しておくな」 「なんでよ。LINEに残しておくくらい問題ないでしょ。仕事中でも後から見ればいいんだから」 「違うんだよ。そういうのが良くないんだよ。染みったれた話のせいで、運が逃げる可能性があるんだ」 「何それ?意味が分からないんだけど」 「仕事で成功するためには、運も大事だろう。俺は集中してるんだ。この出張は勝負なんだよ。プライベートな話で、せっかく整えた集中力を乱すな」 「そこまで言うなら仕方ないわね。でも、後から文句を言うのはなしよ。私はしばらく帰れないかもしれないから、連絡が来なくても気にしないで」 「好きにやれよ。俺は組のことを信じてるからさ」 無理やり電話を切った。正直、吐き出すように言ってしまった後悔はあった。しかし、それ以上に、仕事に集中できない自分が許せなかった。俺たち夫婦の未来を守るためには、俺が結果を出すしかないんだ。そう言い聞かせて、再びディスプレイに向かった。 翌日、事務所で後輩の奏多に呼び止められた。 「先輩、ちょっとお願いがあるんですけど」 「うん?どうした?疲れた顔してんな」 「あの、実は…しばらく家庭の事情で、家を開けることになりまして」 「ああ、そうなのか。大変だな。報告は上にはしてあるのか?」 「はい。ただ、先輩は出張中は連絡するなって、結構怒られちゃってて…」 その言葉に、奏多は困ったように笑った。 「はあ、なるほど。それは確かにありそうですね。先輩の仕事への入れ込み方はすごいですから。後輩として、正直かっこいいと思うくらいですよ」 「そう言ってもらえると助かるよ。本当は俺が何とかしてやりたいところなんだけど、今は動けなくてさ。すまないな」 「いえ、大丈夫です。もし何かあれば、何でもお手伝いしますから。それに、ご飯とかは用意してあるんです。ただ、うちの妻が寂しがり屋で、一人だと何もやろうとしないんですよ」 「ああ、それは確かに心配ですね。でも、全然迷惑じゃないですから。先輩と一緒にいるのは楽しいですし」 「そうか?ありがとう。ただ、もし迷惑だったら遠慮なく断っていいからな。その時は、妻から夫に連絡させるから」 その時、近所の奥さんが声をかけてきた。 「奏多さん、ちょうど良かった。さっきね、新玉ねぎをもらったのよ。去年も食べてあなたすごく喜んでたでしょ?今度家に食べに来ない?天ぷらとかサラダとか、たくさん作るからさ」 「本当ですか?嬉しいですけど、ちょっと後になりそうです」 「あら、お仕事が忙しいの?」 「いえ、そうじゃないんです。実は父が倒れまして」 奏多の説明を聞いた奥さんが、心配そうな顔で言う。 「あら、大変ね。命に別状はないの?」 「はい、命に別状はないんですけど、倒れた時に足を捻ってしまったらしくて。年齢的にも、母一人に任せるのはちょっと不安なんで、足が治るまで世話をしなきゃいけないんです」 「そうだったの。それは大変ね。お父様にはお大事にってお伝えして。お父さんの分の玉ねぎも、ちゃんと残しておくからね」 「ありがとうございます。せっかくの機会なのに、すみません」 「いいのよ。もし良かったら、お持ち帰りして、そっちで調理するのはどう?」 その言葉に、奏多は困ったように俺を見た。 ああ、そうだった。俺はすぐに言った。 「すみません、うちは今出張中なんで、そういうわけにもいかなくて」 「あら、そうなの?じゃあ、また今度ね」 奥さんは笑顔で去っていった。 その様子を眺めながら、奏多がぽつりと言った。 「奥さん、本当にしっかりしてますよね。仕事もすごいですし」 「まあな。でも、あの様子だと本当にどうしようもない夫を支えてるって感じだな」 「え?でも、本当に息子さんは幸せ者ですよ。こんなに綺麗でしっかりした人を嫁にできて」 その言葉に、俺は少しだけ視線を外した。嬉しい反面、誰かに見透かされないか心配になるからだ。しかし、ここで揺らぐわけにはいかない。俺は、二人の未来のために、もっと頑張る必要があるんだ。 「ああ…そうだな。まあ、あいつも昔は全然ダメだったんだけどな。最近は人が変わったように頑張ってくれてるよ。俺が言い聞かせたからな」 「本当にすごいですよ。全部、健二さんのおかげじゃないですか」 「俺は何もしてないよ。あいつが自分でやったことだ」 「いえいえ、私がどれだけ言い聞かせても治らなかったんですから。心配性だし、家のことは何もできないし。ただ、仕事だけは一生懸命で。きっと、そういうとこが認められたんでしょうね」 その時、ふと部下の言葉が耳に残った。 「この前、奥さんのご実家が近所だって話してましたけど、あの辺は最近、どうなんですかね。ゴミ出しのルールを守らない人が増えたとか、聞きました?」 「ああ、知ってる。うちの妻も困ってるって言ってたよ。誰がやるのか分からないけど、看板を立ててもらわないとかな」 話はそれで終わった。本当は、彼がどれほど妻を大切に思っているかを考えなければならないのに、俺は自分の仕事のことだけで頭がいっぱいだった。 あれから一ヶ月後、朝のニュースを見ていると、携帯が震えた。見ると、妻からの着信だ。何度か送ったメッセージもすべて未読のままだ。鬼の形相で電話に出た。 … Read more

26 September 2026

電話の向こうで母の声が震えていた。いや、震えていたのは自分もだった。「かつや。お父さんが危篤なの。今すぐに病院に来て」リビングのソファに座ったまま、俺はスマートフォンを握りしめていた。仕事が忙しかった。でも本当は、行きたくなかっただけだ。「行けたら行くよ」そう答えた俺に、母は「行けたら行くで来る人なんていないのよ」と泣き声で言った。父と俺はもう何年も口を聞いていなかった。結婚の報告をしたとき…

電話の向こうで母の声が震えていた。いや、震えていたのは自分もだった。スマートフォンを握る手に力が入る。リビングのソファに座ったまま、俺は受話器の向こうの言葉を聞いていた。 「かつや。お父さんが危篤なの。今すぐに病院に来て」 「え、そんなに悪いのかよ」 「前から悪いって言ってたでしょ。なのにあなたは一度もお見舞いに来ないで」 「忙しかったんだよ」 「それはもういいから。お父さんの最後なんだから、あなたも今すぐに病院に来なさい。今夜が山だってお医者さんが言ってるの」 「行けたら行くよ」 「行けたら行くで来る人なんていないのよ。絶対に来なさい。仕事だって事情を言えば休めるでしょ」 「そうかもしれないけど、そもそも父さんは俺が来ることを望んでないだろ。俺と父さんは仲が悪くて、ほとんど口も聞いてなかったし」 「そうかもしれないけど、最後くらいはいいでしょ。お父さんだってきっと喜ぶはずだから」 「どうだろうな。俺はそんなことないと思うけど」 「どうしてそんな考え方になったのよ」 「俺は俺で、新しい家族がいるんだ。だからこっちで幸せに生活してる。大切な人がそばにいてくれることの幸せは分かってるつもりだ。だからこそ、父さんも俺なんかより母さんが近くにいてくれた方が幸せなんだろ。俺と父さんはもう家族と呼べる関係じゃないから」 「どうしてそんなことが言えるの? お父さんはあなたのことを心配してたわよ」 「もう道は別れたんだ。父さんのそばには母さんがいてあげてくれ。葬儀には一応出るつもりだから」 「本気でそう言ってるのね」 「ああ、もちろん」 「分かった。あなたがそういうのなら仕方ないわ。好きにしたらいい」 「悪いな。よろしく頼むよ」 通話が切れた。リビングの天井を見上げる。もう戻れない関係だということは自分が一番分かっている。それでも、胸の奥で何かが引っかかる。だが、それは考えないことにした。今の自分の家族はここにある。俺が選んだ道だ。 一時間後、玄関のチャイムが鳴った。出てみると、リナが立っていた。涙で目を赤く腫らしている。 「リナちゃん、どうしたんだ? 何かあったのか?」 「おじさんが危篤なんだって。おばさんから連絡が来て」 「ああ、さっき俺も聞いた」 「かつやさんは行かないの?」 「行かない」 「どうして? お父さんでしょ」 「俺とあの人は、もうそういう関係じゃないんだ。それに、今さら行ったところで何を話せばいいんだよ。気まずいだけだ」 リナはしばらく何かを考え込んでいたが、やがて小さく息を吐いた。 「分かった。じゃあ、私が病院に行くよ」 「え? お前が?」 「だって、おばさん一人じゃ辛いでしょ。自分が行くよ」 「でも、用事があるんじゃないのか? 今日は確か仕事が休みだとか言ってなかったか?」 「今日は仕事が休みだし、大丈夫だよ。事実上の家族みたいなものだからね。昔からずっと可愛がってもらってたし」 「悪いな。頼むよ」 リナは小さく頷くと、そのまま病院へと向かっていった。 病院の白い廊下。消毒液の匂いが鼻につく。リナは病室の前で立ち止まり、深呼吸をした。中からは機械の音が聞こえてくる。覚悟を決めて、ドアをノックした。 「どうぞ」 母の声が聞こえる。リナが扉を開けると、病室には母だけがいた。ベッドに横たわる父の姿は、思っていた以上に小さく見えた。 「リナちゃん、来てくれたのね。ごめんね、頼っちゃって」 「いえ、こちらこそ突然呼び出してしまって。でも、一人でいるのは辛いと思って」 「ありがとう。あなたは本当に優しい子ね」 母は涙ぐみながら、ベッドの上の夫を見つめた。リナも隣に立って、眠るように息をするその姿を見つめる。 「おじさん、若いのに」 「本当よ。まだこんな歳でこんなことになるなんて、思ってなかったわ」 「勝也さんは来れないんですか?」 母は一瞬、表情を強張らせた。そして、何かを言いかけて、やめる。リナにはその表情が痛いほどよく分かった。 「あなたには言ってなかったけどね。うちの親子は正直、関係がうまくいってなくて」 「え? どうしてですか?」 … Read more

26 September 2026

母さんに「冷蔵庫の英語和牛、くれない?」と聞いた瞬間、空気が凍った。「はぁ?なんで?」って。日曜に隆介の会社の人が来るから手料理を振る舞わなきゃいけなくて、お肉が要るんだと説明したら、母さんは「あれはご近所さんからいただいたものよ。私とお父さんで大事に食べなさいって。さすがに私たちが食べないのは失礼でしょ」って。私は「適当においしいって言っとけば」と返した。すると母さんは「この間だって、うち…

母さん、ちょっといい? なに、改まって。 この間そっちに行ったとき、冷蔵庫に英語和牛あったよね。 あったわね。 あれ、くれない? はぁ?なんで? 今度の日曜に、隆介の会社の人が来るんだよ。手料理を振る舞わなきゃいけなくて。 あれはご近所さんからいただいたものよ。私とお父さんで大事に食べなさいって。さすがに私たちが食べないのは失礼でしょ。 大丈夫だよ。適当に「おいしい」って言っとけば。 ダメに決まってるでしょ。 それに、英語和牛なんて胃もたれするだけだよ。母さんたちも年なんだから。 あのね、そうやって何でも欲しがるのはやめなさい。この間だって、うちに来たときに。 ああ、はいはい。説教は結構です。 七美さん、あなたね。 もう、わがままなんだから。 わがままはどっちよ。 じゃあ、リビングに飾ってある花瓶で我慢してあげる。 本当に何言ってるの?あれは結婚記念日に買ったものよ。だめ。 ちょっと、あれもダメこれもダメって、いい加減にしてくれない? いい加減にするのはあなたでしょ。前々から思ってたけど、七美さん、あなたの言動はひどいわよ。 うわ、そうやってすぐ怒る。更年期ってやつ? そういうことじゃないでしょ。 うちに来るたびに、あれも欲しい、これも欲しいって、みっともないと思わないの? そういう古臭い考え方を押し付けられても困ります。 古臭くありません。最低限の礼儀の話をしてるのよ。 礼儀とか言われても、よくわかんないもん。 隆介と結婚したんでしょ?あなたの言動は、あなただけの問題じゃないのよ。 また始まった。 子供ができたらどうするの?あなたの言動のせいで、子供に嫌な思いをさせたいの? 何なんですか、いったい。 口を開けば説教ばっかり。昭和の口うるさい姑ってやつですか?そういうの、時代遅れですよ。 時代遅れ。昭和生まれの姑で悪かったわね。 開き直るとか、最低です。 お説教されたくなかったら、されない言動をしなさい。そうすれば、口うるさい姑は卒業してあげる。 はいはい、もういいです。お母さんの説教でお腹いっぱいなんで。 まだ話は終わってないわよ。 ビーだ。ケチケチおばさんなんて、もう知りません。 三十分後。へえ、お父さん。 なんだ、七美か。どうしたんだ、その顔。 お母さんが意地悪するんですよ。 意地悪?また幸子に何か言われたのか。 お母さん、ひどいんですよ。ちょっとお肉分けてって言っただけなのに、私のこと、ないものみたいに。 そうなのか。 しかも、ほかにもいろいろひどいこと言われて。私、そんな悪いこと言ってないのに。 そうか、そうか。大変だったな。怖かったろう。 もう、マジ最悪です。 あいつも昔は可愛げがあったんだけどな。今じゃ口うるさいだけで。 お父さん。 うん、どうした? あんな人といつまで夫婦やってるつもりですか? う?いつまでって? 正直、お父さんとは釣り合ってないと思います。 釣り合ってない?俺と幸子が。 そうですよ。お父さんって、年齢の割に若いし、かっこいいじゃないですか。 そうか。 … Read more

25 September 2026

美容院で髪を切っている最中に、夫から電話がかかってきた。出てみると、いきなり怒鳴られた。「おい、今すぐ病院に来い。娘の出産に立ち会わないなんてどういうことだ」。はあ?私、産休前に髪を整えてるだけなんだけど。しかも、隣に座ってた女が電話越しに「私、大地の妻です」って。え?何それ。私は今、美容院で髪を切ってるんだよ。動けないんだから当然でしょ。でも、その女が言った次の一言で、頭が真っ白になった。…

朝はごめんね。送った動画、見てくれた? 見たよ。この前の魔王の発表会のやつだろ。 そうそう。うちの子、可愛くない? そりゃあみさの娘なんだから。可愛いに決まってるだろ。 何?私のこと好きなの? 好きじゃなきゃ結婚してないだろ。バカなことやってんなよ。 え、乗ってくるんだ。 それにしても、あの腕の角度は原点だな。 は?腕の角度? 踊りの振り付け自体は悪くない。三歳の幼稚園児でも踊れるように工夫してあるし。 あの、ちょっと。 まお自身、顔はいいんだ。だから観客の視線が顔に向くように、腕の角度をもう少しこうすると。 おーい。奥さんが置いてかれてますけど。 うん。あ、終わり。 いや、いつものことだからいいけどさ。クソ真面目っていうか、なんていうか。 総合して、魔王の踊りはギリギリ大台だな。 出た。採点癖。 あ、終わり。 謝んなくてもいいって。結婚前は若干引いてたけど。 引いてたのか。 今となっては一周回って面白いから大丈夫。 そうか。 ただし、人前ではあんまりやらない方がいいよ。 悪い癖だって自覚はあるんだけどな。つい。職業病ってやつだよね。人事部で面接も担当してるわけだし。何でも評価するのが癖になってるの。 気をつけるよ。 まあ、そこまで仕事に真面目に向き合ってるのは素直に尊敬してるからさ。私の前ではそんなに気にしないで。 ありがとう。 で、話は変わるんだけど。ついさっき、あなたの元妻を名乗る女性が来たんだけど。 は?うちに来たのか。 すぐに帰ってもらったけどね。あなた、離婚歴ないって聞いてるし。なんか怖いじゃん。 そうか。その人、知人なんだ。 知人?まあ、私と同年代っぽかったけど。同級生? 上司の娘でな。お前と結婚する前に、紹介されたことがあるんだよ。 そうなの。付き合ってたとか? いや、丁寧にお断りした。見た目はともかく、感情的な人でな。どうも合わなかったんだ。 で、なんで元?あの見た目でしょ? うん。まあ、綺麗な人だったよ。スタイルもすごく良かったし。 振られたのが納得いかなかったみたいで、それ以来、何かとちょっかいかけてくるんだよ。それでついに我が家にまで来たってわけだ。 で、大丈夫なの?上司の娘だし、無下にはできないでしょ。 俺の方からまた話をしておくよ。みさは安心してくれていい。 そっか。大地がそう言うなら、また来るようなら追い返せばいいから。悪いけど頼むね。 ああ、わかった。 じゃあ、午後のお仕事を頑張ってね。 それから一週間後。スマホが鳴った。画面には大地の名前。出てみると、そこからは怒声が飛んできた。 おい、裕子。どういうことだ。 は?何が? ゆう、お前、いい加減にしろよ。俺たちの娘の出産に立ち会わないって、どういうことだ。 はあ?何言ってるの?私、今美容院にいるんだよ。産休前にどうしても髪を整えておきたくて。 お前、それは言い訳にもならん。もうすぐ生まれるんだぞ。今すぐ病院に来い。 無理だよ。動けないんだから。 は?動けない?美容院にいるんだろ、お前。 そうよ。美容院では髪を切ってるんだから、当然じゃない。 それが理由になるかよ。バカ。 そう言ってるうちに、隣に座っていた女が口を挟んできた。顔は整ってるけど、なんだか気に食わない感じの女。ボブカットにしたらしい髪を揺らしながら、こっちを見てニヤリと笑った。 どうも、はじめまして。 … Read more

25 September 2026