空港のロビーで、私のスマホに届いたメッセージはたった一行だった。「悪いな。今回は留守番ということにしてくれ」。隣では夫が、義母が、もう保安検査場の向こうに消えていた。あの日、リビングで夫が「母親の還暦祝いにニューヨーク旅行を贈りたい」と言い出した時、私は心から協力しようと思った。ホテル代四十万、私も出すつもりでいた。なのに——。「お袋がさ、どうしてもお前との旅行は嫌だって言い出してな」。電話…
誠司がリビングのソファに座ったまま、スマートフォンのカレンダーを見つめながら言った。かおりはキッチンで湯を沸かしながら、何の気なしにその言葉を聞いていた。 「なあ、かおり。来月、母さんの誕生日なんだよ。」 「ああ、そうなの。お父さんと二人そろって六十歳になるんだっけ。」 「そう。二人とも還暦を迎えるんだ。」 かおりは湯呑みにお茶を注ぎながら、何かを考えるように目を細めた。夫の誠司は、こういう切り出し方をする時はだいたい何かを頼みたい時だ。結婚して何年も経てば、そんなことくらい察しがつく。 「それで、何か考えてるの。」 「実はよ、二人にプレゼントを考えてるんだ。ニューヨーク旅行とか、どうかなと思って。」 かおりは湯呑みをテーブルに置き、誠司の方を向いた。 「ニューヨークって、あのニューヨーク。」 「そう。二人の新婚旅行の行き先だったんだって。それからずっと行きたい行きたいって言ってたのに、なかなか行く機会がなくてな。で、せっかくだから、これをいい機会に二人を連れて行ってやれないかなと思って。」 「でも、それってすごい額になるんじゃないの。飛行機代もホテル代も、食事代もかかるわよ。」 「もちろん、簡単に出せる額じゃないってことは分かってる。でもな、やっぱり親には苦労をかけたからな。それくらいはしてやりたいんだ。」 誠司は真剣な目でかおりを見た。かおりも、その目を見て、断れないなと思った。 「分かったわ。でも、さすがに二人だけで出せる額じゃないでしょ。私も協力するわ。」 「本当か。助かるよ。もちろん、俺たちも同行するからな。せっかくなら四人で楽しい旅行にしよう。」 「え、私たちも行くの。」 「当たり前だろ。二人だけをニューヨークに放り出すわけにはいかないだろ。それに、かおりもニューヨークに行ったことないだろ。」 「それはそうだけど……。でも、ちょっと待ってよ。私の両親のことはどうするの。うちの親ももうすぐ還暦を迎えるのよ。そっちのお祝いもちゃんとしたいんだけど。」 「大丈夫だって。そっちの時は、俺もちゃんと協力するよ。夫婦だろ。どっちの親の時も、ちゃんと合わせていくよ。」 かおりは腕を組んで、しばらく考え込んでいたが、やがてゆっくりとうなずいた。 「分かったわ。それじゃあ、飛行機代は誠司が取ってくれるの。」 「ああ、四人分のチケットは俺が取るよ。ホテル代はかおりが取ってくれないか。」 「ホテル代ね……。まあ、それくらいならいいわよ。ありがとう。」 「こちらこそ。きっと両親も喜ぶよ。……なあ、かおり。一つだけ気になることがあるんだが。」 「何。」 「向こうで、お袋から嫌みとか言われないよな。」 かおりは一瞬、目を細めた。が、すぐに笑顔を作った。 「そんなことないわよ。私たちのプレゼントで海外旅行に行けるんだから、ちゃんと感謝してくれるわよ。たぶんね。」 「それならいいんだけど。」 誠司はそう言って、ソファに深く座り直した。かおりはその横顔を見ながら、心の中でため息をついた。義母のことだ。何か言われるかもしれない。でも、それを言ったら何も始まらない。 「それじゃあ、日程を決めるために、みんなでLINEグループを作りましょう。私がいい感じのお店を探しておくから、みんなの希望を聞かせてちょうだい。」 「ああ、頼む。できればレベッカも呼べないか。あいつ、ニューヨークに住んでるんだろ。」 「え、レベッカに会えるの。それなら絶対に呼びましょうよ。久しぶりに会いたいわ。」 「だな。それじゃあ、連絡しておくよ。」 数日後、かおりはスマートフォンの画面を見ながら、ビデオ通話を開始した。相手は、ニューヨークで暮らす親友のレベッカだった。 「レベッカ、久しぶり。元気にしてる。」 「ああ、香織。元気よ。どうしたの、急に。何かあったの。」 「実はね、今度ニューヨークに旅行に行くことになったのよ。両親の還暦祝いを兼ねてね。」 「まあ、すてきじゃない。それで、私に会えるのを楽しみにしているってわけ。」 「当たり前でしょ。あなたは私の親友でしょ。日程が決まったら教えるから、都合が合えば会えないかしら。」 「もちろんよ。私の方こそ、いつでも会いに行くわ。日時を教えてくれれば、どんなに忙しくても調整するから。」 「ありがとう。それでね、もしよかったら、あっちで何かいいレストランとか教えてくれない。せっかくニューヨークに行くのに、どこがいいのかさっぱり分からなくて。」 「任せて。私がいいところを全部紹介するわ。観光スポットも、美味しいお店もね。あなたの希望を聞いて、スケジュール組んであげる。」 「え、でも、そんなに頼んで大丈夫。」 「大丈夫よ。時間を見て予約を取るくらいできるから。ホテルはもう決めてあるの。」 「いや、それがまだなのよ。これから誠司と相談して決めるところ。」 「それじゃあ、決まったら教えて。私も一緒に考えてあげるから。」 「ありがとう。本当に助かるわ。」 かおりは通話を終え、スマートフォンを置いた。レベッカに頼れるのは心強い。ニューヨークに着いてからも安心だ。 それから数日後、かおりは再びレベッカと連絡を取り合っていた。ホテルの候補をいくつか教えてもらい、その中からマンハッタン中心部にあるホテルに決めた。一泊十万円。決して安いとは言えないが、せっかくの旅行だ。両親も喜んでくれるはずだ。 かおりはスマートフォンを手に取り、誠司に電話をかけた。 「ねえ、誠司。ホテルなんだけど、マンハッタン中心部にあるホテルにしようと思うんだけど、どうかしら。」 「ああ、それでいいよ。いくらくらいだ。」 「一泊十万円で、四泊するから、ホテル代だけで四十万ってところかしら。」 電話の向こうで、誠司が息を呑むのが分かった。 … Read more